序章
世界は七つの国で成り立っている。その中央に位置するのが、神樹を有するネメルミスアだ。ネメルミスアは元より、多くの国が古くから伝わる樹木の神話を信じている。人の祖先は木であり、木がふたつの子を産んだことから人の歴史が始まったというものだ。
そして、その生みの親となった木こそが、ネメルミスアに鎮座する神樹・トネリコである。
「ねぇニゲラ、陛下はずっと悩んでおられるわ」
「何をですか」
「トネリコの存在に、疑問を抱いていらっしゃるの。あれは本当に必要なものなのか、と」
「国の守護神樹をですか? なぜ……」
「五百年経ってもなお、力を取り戻せないからでしょう。おかげで魔物は蔓延り、他の国々に神樹の国と優位を示すこともできない」
ネメルミスアは神樹とその聖女を有する大国、いわば神の国だ。神樹の力さえ戻れば、魔物は減り疫病も消え、安定した生活が約束される。その恩恵に預かれるならば、交易等における地の利に不満があろうと、ネメルミスアと対抗しようとする国は少ない。
けれどこの五百年、いつまでも神樹はその力を発揮しなかった。
とはいえ、その神樹の力を持つ聖女がいるのだ。世界とまではいかないが、守護力は国を覆うほどであるし、その血は確かに病や傷を癒すことが出来る。言い方は悪いが、聖女がいるならば神樹の代わりにはなるのだ。
そう言い募っても、ローウェルは弱々しく頭を振るだけだ。確かに神樹は力を取り戻しつつあるけれど、それに伴ってか聖女の力は弱まってきているのだという。
「そんな、どうして……」
困惑するニゲラに、ローウェルは困ったように笑うだけだ。神樹は未だ機能せず聖女の力が弱まってしまえば、確かに他国からの追求は免れない。今はまだいいが、これからどうなるのか誰にも判断がつかないのだ。
王の間を開くと同時にニゲラは足を止め、頭を垂れた。
この敷居をまたげるほどの地位はまだ彼にはない。
ひとり王の間に入ると、凛々しくも優しい声がローウェルを呼ぶ。ニゲラが下がった今、ここには母娘ふたりきり。挨拶もそこそこに切り出された話は、案の定神樹の存在意義についてであった。
ローウェルは「母様」と訴えるように声を上げた。
「どうかもう幾ばくかの猶予を……」
「ローウェル、」
「確かに今の神樹には、傷を癒す力も国を守護する力もありません。けれどわたくしには兄様を失うなど耐えられません……!」
「分かっている。だが、このままにしていていいのか、疑問であるのも確かだ」
「……」
「ローウェル、聞きなさい。貴方の兄は本来もうここにはいない筈の人間なのです。それを、無理に命を引き伸ばしている。あれは国の象徴。そう簡単に無くせるものではない。天秤にかけた時、切り捨てられるのは神樹ではなくひとりの人間なのよ」
「わかっては、おります……」
ぎゅっと胸のあたりで拳を握りしめる。
知っているのだ。神樹が今なお本来の力を取り戻せない理由を、ローウェルは分かっている。当事者のひとりでもある。これは王族が背負った業でもあった。
全ては実の兄のため。兄を生かすためにローウェルは神樹の力を利用しているのだ。
「国交に不安は残るが、利点はある。お前に負担がないのであれば、今しばらく様子を見ることとしよう」
「……!」
パァ、とローウェルの顔が明るくなる。
ヴェールから覗いたキラキラと輝く紫の瞳が揺れるように光った。
女王はそんな娘の表情を見て、今日もどこかで彷徨いているだろう息子に「幸せ者め」と呟くのだった。
「ひとつ知らせがある」
「はい、なんでしょう」
「近々、バベルの塔より人を呼び寄せる」
「……? あの、魔法使いの塔ですか?」
「ああ。神樹の力が戻らず、聖なる加護も弱くなってきている。ならば軍や兵を編成し直して警備に当たらせるべきかと思ってな……ついでに今、妙な事件が増えているだろう」
「聞き及んでおります。人が、木になるのだとか」
人は木から生まれた。だからこそ、ローウェルはその報告を初めて聞いた時驚いた。
何かしらの原因があって木になったのか、それとも何かの比喩なのか。例えば、皮膚が木のように固くなるような病を患っている、だとか。
そうも考えたが、報告書には正しく「緑の葉が揺れる木が、人の服をぶら下げて地に根を張っていた」とあったのだ。
そこは国から少し外れたところにある村だった。再度調査のため、思念を読み取ることの出来る能力者が同行した。その時にハッキリと分かったのである。殆どの木はもう人としての意識はなかったが、ある小さな木が答えてくれたのだという。
「我々は人だった。ある日突然体が木に変化していた。この体は不自由ではあるが、食も排泄も必要なくとても楽だ」
と、そう語ったとか。
樹木やそれに連なる植物は聖なる存在である。そんな木々の思念を読み取ることは本来、聖女やそれに近しい能力を持つ神や精霊にしか出来ないことだった。だからこそ分かったのだ。一介の能力者が読み取れるということは、それらの木は間違いなく人であったのだと。
「元には戻せないのだとも聞きました」
「ああ。話が聞けた木については掘り起こして城に持ち帰ろうとしたが、帰りに何者かの襲撃にあったそうだ。何とか切り抜けたものの、その後は一切読み取れなくなっていたという」
「その襲撃犯が何事かを知っていそうですが……」
「もう、人ではなくなってしまったのだろう。念の為持ち帰ったが、バベルの魔法使いにそちらの調査も頼もうと思っている」
なるほど、とローウェルは頷いてみせる。
「これより軍の再編成を行う。その上で特務部隊にも動いてもらうことになるが、異論ないな?」
「ええ。女王陛下の仰せのままに」
話はこれで全部のようだ。王の間を出れば、直ぐにニゲラがローウェルの後ろについた。王の間には防音魔法が掛かっている。これまでの会話は聞こえていないはずだ。
「特務部隊が動かされるわ。ニゲラ、貴方の仕事よ」
「特務部隊など名ばかりの組織ではないですか。俺は姫様の剣であり、盾です」
「……いいえ違うわ。貴方が守るべきはわたくしではないのよ」
力強い声が静かな廊下に抜けていく。ニゲラはその響きに戸惑って、あろうことか否定するタイミングを見失ってしまった。
ローウェルを守る以外、一体何を守れというのか。
ニゲラには皆目見当もつかないのだった。