刹那/菊田
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これはおよそ、百二十年前の後日譚。
時は明治。登別にあるその定食屋は、老夫婦二人で切り盛りしている。体力的にもそろそろ潮時かと思っていた頃、軍に配属されていた息子が戻ってきた。息子は戻ってくるなり嫁を取り、二人でこの店を継ぐと言った。この店が息子の代までは続くのだと思うと、夫婦はすっと肩の力が抜ける様だった。
夫婦は店を息子に託すと決めてしまえば、きっぱりと退く日を決めた。
最終日のその日、噂を聞きつけた常連達がこぞって店を訪れた。最後の最後まで忙しかったと笑い合いながら、二人は店仕舞い後に一服している。
「随分歳をとってしまいましたね。」
「あぁ、よくやったさ。」
手伝ってくれた息子夫婦は既に帰宅し、二人のみの店内は静まり返っている。二人はカウンター席に並んで座り、主人の好物である団子を口にする。多くを語り合うわけでも無いが、その姿は一抹の寂しさや、やり切った充実感を共有しているかの様で。
「あの子は、元気にしているのかしら。」
口の中に広がった甘みを茶で整えながら、女将がぽつりと呟いた。主人は目を伏せ団子を見つめると、「きっと」と口にする。
ほんの一時期だけこの店で働いていた"あの子"は、現れるのも消えたのも突然だった。なんの前触れもなく消えた彼女は不義理をする様な子では無いと、二人は必死に探した。客に聞き、彼女の住まいまで行き、周辺の人にも聞き込んだ。結果、彼女の住まいは荒らされて、彼女自身は軍の人間に連れ去られたのだと知った。
ある軍人と駆け落ちしてきたのだと思っていたが、彼女が突然この街に現れたのには、他にも理由があったのだろうか。
あれから数年。だいぶ薄れて来たとはいえ、夫婦は未だやるせない思いを抱えたまま。時々彼女やあの軍人のことを心の奥底から取り出しては、大切に思いを馳せている。
女将は軍にいた息子に、あの軍人について尋ねた事がある。しかし接点はなかったようで、今彼がどうしているのかを知る事は叶わなかった。
「二人が今も、共に在れたらいいですね。」
「あぁ。」
団子を食らいながら返す店主は、いつか同じ団子をくれた男を思い出している。
よく働き、愛想の良かった彼女。そんな彼女の様子を見にくるあの男の目は、慈しみに満ちていた。そして男を見る彼女の目もまた、同じ様に———。
「ふっ。」
「あら、何ですか。」
唐突に笑いを溢した主人に、女将は首を傾げる。
「いや、どう見ても好き合ってたな。」
「あぁ、ふふ、そうですね。」
焦ったい二人を思い出しながら、二人はつい笑い合った。
どうか二人が共にあり、そして幸せでありますように。
いつかの二人に想いを馳せ、そして祈りながら、夫婦は店での最後の時を過ごした。
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