刹那/菊田
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「佐倉。終業後、時間を貰えないか。」
「えぇ、いいですよ。」
登別での社員旅行後、一週間ほどが経った頃。
オフィスのコピー機前で資料を印刷している律に、月島が声を掛けた。普段からしかめ面な月島だが、その表情は更に強張っている。対して穏やかに微笑む律に、月島は眉を下げた。
終業後、律は自らが指定した喫茶店で月島を待っている。会社からほど近いその店は、時々ランチでも利用する古き良き喫茶店で。指定した理由に夜遅くまでやっているというのもあるが、間接照明のみの薄暗い店内が、きっとこれからの時間を手助けしてくれるだろうと思っての事だった。
ホット珈琲に口をつけながら、律はスマートフォンを操作する。"月島さんと話してきます"と菊田へメッセージを送信し終えた頃、カランカランとベルの音と共に店の扉が開いた。扉から顔を覗かせた月島は、律を見つけると真っ直ぐにそちらへ足を進める。
「時間を取らせてすまなかった。」
「いえ、お疲れ様です。」
「佐倉もな。」
待たせてすまないと謝罪しながら、月島は律の座るテーブル席の向かいに腰掛けた。席につくやいなや小さく呼吸を整えた月島は、顔を上げ律と視線を合わせる。
「俺は佐倉に———」
掌を見せて微笑む律に、月島は口を噤んだ。大きなメニューを引き寄せ、そこに目を落とす彼女をただ見つめる。
「お腹すいちゃいました。まずは腹ごしらえしませんか?」
「あぁ・・・。」
月島は律に促されるまま、正直考える余裕もなかった為彼女と同じものを頼んだ。
「ここのピラフ、美味しいんですよ。」
にこやかにピラフを口に運ぶ律に、月島も倣ってスプーンを取る。確かに美味いと呟けば、律は「でしょう」とまた笑った。
食事を取っている間、律は本題に入る事を許さなかった。会社での事やこの間の社員旅行での思い出話を語るのみで、月島は柔らかな空気感に呑まれてしまう。正直心ここに在らずだったが、拍子抜けしたのは確かだった。
「そろそろ、いいか。」
二人ともピラフをたいらげ、珈琲のカップに口をつけ始めた頃。律は月島の言葉に対し、静かな笑みで返した。
「珈琲は、ドリップが美味しいでしょう?」
柔らかな声で言う律に、月島は眉間に皺を寄せる。どくんと大きく心臓が跳ねた。
「・・・貴女を、護りたかった。」
珈琲カップを見つめる月島は、膝の上で拳を握り、漸く絞り出した声で言う。
「なのに、俺は・・・。」
彼女の顔を見ることができない。本来ならば真っ直ぐに目を見て言うべきなのに、顔を上げることができずにいる。
「月島軍曹殿。」
突然の呼び方に、月島はつい顔を上げた。悪戯っぽく笑う彼女の顔から、目が離せない。
「私が勝手に飛び出したんです。貴方は何も悪くないし、謝らなければいけないのは私の方です。」
一変して哀しげに言う律に、月島は眉を下げた。
「何故貴女はいつも・・・俺は菊田特務曹長殿の事だって・・・!」
苦々しく言う月島に、律は哀しげに、しかし柔らかく微笑む。
「それが貴方の役目だったでしょう。あの時代での貴方は、鶴見中尉の右腕だったのだから。」
「貴方はただ全うしただけ」と優しく言い聞かせる律に、月島は胸の辺りが震えるのを感じた。
「・・・お人好しにも程がある。」
「そうですか?それは月島さんもでしょう。」
訳がわからないといった表情の月島に、律は珈琲を一口飲んでから答える。
「インカラマッ達のことも、存在自体が怪しい私のことも、気にかけて護ってくれたじゃないですか。」
「インカラマッ達のことは、鯉登少尉が居なければああはならなかった。」
「それでも、最終的にそう決めたのは貴方でしょう?」
「・・・貴女のことは、」
一度そこで切った月島に、律は次の言葉を待った。月島は少し温くなった珈琲を一口飲むと、律の目を真っ直ぐに見据える。
「本当に単なるお人好しだとでも?」
「・・・。」
目を逸らしたくなるような真剣な眼差しに、律は小さく身じろいだ。明治の時代、コタンで彼に抱き締められた記憶が蘇る。
月島は律の反応に、意地悪く口角を上げた。
「律さん。」
「・・・はい。」
この時代では初めてのその呼び方に、律の肩が小さく揺れる。
「あまり俺に気を許すなと言いましたよね。」
「・・・そうでしたっけ。」
「それなのに俺を受け入れたのは、貴女ですよ。」
「はて、何のことやら・・・。」
とぼける律に、月島は頬を緩める。それを見た律も顔を綻ばせた。
「律。」
「は、い・・・?」
突然の呼び捨てに戸惑いつつも、現代での関係性を考えれば、その方がしっくりくるのかもしれないと律は一人納得する。
「抱き締めても?」
「えっ、だ、駄目です!」
「コタンでは良かったのに?」
「あの時はあの時です!」
「減るもんじゃないだろ。」
「へ、減ります!主に菊田さんの何かが!」
心底つまらなそうな顔で椅子に背を預けた月島は、小さく舌打ちをした。しかし心臓を抑えている律に、どこか満足そうな表情を浮かべる。
「まぁいい。気が変わったら教えてくれ。」
「・・・変わりません。」
俯いて言う彼女の頬は、ほんのり色づいている。明治の時代で、命を顧みず駆け寄る程に愛した男を、きっと思い浮かべているのだろう。だがこちらとて、百二十年前からの想いなのだ。今世でだって、前世の記憶を取り戻すずっと前から———。
「どうだかな。」
月島はどこか晴れ晴れとした顔で言うと、伝票を手に取った。
「今日の所は許してやる。謝らせてもくれない代わりにここは払わせてくれ。」
「えぇ、そのつもりでした。ご馳走様です。」
「お前な・・・。」
悪戯っぽく言う律に、月島は呆れたように笑った。
「じゃあ、また月曜日。」
「あぁ。」
外に出れば、闇に
先に歩き出した律の背中を、月島は引き寄せ、腕の中に閉じ込めた。
「わっ、え、月島さん・・・!?」
振り返ろうとする律に、月島は腕の力を強めてそれを阻止する。
「今日の所は許すって言ってたじゃないですかっ。」
「気が変わった。」
「気が変わったって・・・。」
きつく抱き締めてくる月島に、律は困ったように眉を下げた。
「今だけ。」
今だけは、お人好しの彼女に漬け込ませて貰おう。彼女の許しが出るまでは、これきりにしよう。月島は彼女の体温を憶えようと、その頭に頬を寄せた。
「ありがとう。」
漸く身体を離した月島は、切な気な笑みを浮かべて言う。
「・・・次したら訴えますからね。」
「わ、悪い、もうしない。」
じとりと睨んでやれば慌てた様子を見せる月島に、律は困ったように笑った。
*
「おい月島よ。」
「・・・お疲れ様です。」
時は月曜の朝。月島が仕事前にと会社の喫煙所で煙を吐き出していると、後からやってきた菊田に声を掛けられた。
「お疲れ様ですじゃねぇよ。」
口角は上がっているが、額には薄らと青筋が浮いて見える。苛ついた様子で煙草に火を点ける菊田を横目で見ながら、月島は無表情を崩さず、もう一口煙草を吸った。
「お前人の女に手ェ出してんじゃねぇよ。」
「すみません、もうしません。彼女次第では。」
「お前まだ諦めてねぇだろ。」
「はい。」
「おい、反省してねぇな?」
「いいえ。」
「ハァ・・・。」
天井を仰いだ菊田は、深い溜め息と共に煙を吐き出した。
「菊田さんは、俺を恨んでないんですか。」
「あ?恨んでるよそれはもう。律にバックハグかましやがって・・・。」
「そうじゃなくて、俺が貴方を撃ったことです。律の事だって・・・。」
「あー、いつの話してんだよ。」
菊田は何ともない風に煙草を吸っている。
「お前はお前のやる事をしたまでだろ。律に関しては事故みたいなもんだし、あいつが許してるなら俺がどうこう言う必要はねぇよ。」
「俺スパイだったしな。」と笑って言う菊田の横顔から、月島は目を逸らした。
「そろそろ時間だぞ。」
菊田は月島の頭にぽんと手を乗せると、先に喫煙所を去って行く。一人残された月島は人知れず小さく笑うと、煙草の火を揉み消しその後を追った。
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