刹那/菊田
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「律、悪い待たせた。」
「ううん、お疲れ様。」
あれから一ヶ月。気候は随分ジリジリと蒸し暑くなって来た。
仕事終わりの律と菊田は、会社から少し離れた公園で待ち合わせていた。どちらからとも無く指先を絡めた二人は、菊田の家へと帰ってゆく。急ピッチで進めた同棲は、菊田たっての強い希望によるものだった。
登別での社員旅行をきっかけに、他の面々も記憶を取り戻している。前世では命を奪い合った面々も、その記憶はあれど不思議と恨み辛みは無いようだった。あくまで記憶として在るだけで、感情までを現世に持ち越すようなことが無かったのは皆にとって良かったのだろう。ただそれは負の感情に限った話で———。
「なぁ、今日も月島に言い寄られてなかったか?」
「・・・え?」
「妙な間が物語ってるじゃねぇか。」
「いやいや、食事に誘われただけだよ。」
「それだよそれ。一緒に住んでも引くどころか加速してやがる・・・。」
月島も前世の記憶を取り戻している。故意では無かったにせよ律に致命傷を負わせてしまった彼は、自責の念に苛まれていた。そんな彼とゆっくり話をしたと言う律を微笑ましく思っていた菊田だったが、どうやら彼女は月島を立ち直らせるどころかそれ以上の効果を与えてしまったらしく、頭を抱える事になった。そして月島だけでは無く、鯉登や有古、そして妻子持ちの鶴見までもが、隙あらば律に近づこうとしている。目に見えてだ。寄ってたかって、菊田の邪魔を楽しんでいるようにすら見える。愛妻家の鶴見に至っては確実にふざけているのだろう。
「杢太郎さん。」
とんとんと自身の眉間を叩いて見せる律に、菊田ははぁと溜め息を吐いた。
「誰のせいだと思ってんだ。」
「わっ!あはっ、やめ、馬鹿っ。」
不意に脇腹を擽られた律が笑う様子に、菊田の眉間の皺も自然と取れる。
この時代では自然なやり取りも、しかし明治の時代には無かった様なラフさが新鮮で。百二十年前での彼女はきっと、色々と押さえ込んでいたのだなと菊田は思う。そんな彼女がいじらしく愛おしいと。
「お前はこういう女だったんだな。」
ころころと笑う律に、菊田はつい目を細めた。前世では、彼女の本来の姿が見てみたいと思ったものだった。
「どう言う意味?」
「ずっと見てみたかったんだよ。この時代でのお前を。」
「・・・この時代では見てたじゃないですか。」
漸く外れたと思っていた敬語が戻ってしまったのは、きっと今の自分に、明治の頃の面影を垣間見たからだろう。
「思ってたよりもガサツで幻滅しました?」
「いいや。案外口が悪いのは知ってたからな。」
不服な様なとぼけた様ななんとも言えない表情をして見せる律に、菊田は笑って彼女の手を握り直した。
マンションの一室へ戻ってきた二人は、風呂や食事を終え、ソファで寛いでいる。漸く慣れて来た二人での生活は心地良い。菊田は隣でウトウトと舟を漕ぎ始めた律に手を伸ばすと、ふわりと抱き寄せた。
「ん。」
律は一瞬驚いた表情を見せたが、しかしその眠気は継続しているらしい。柔らかく微笑んで自身に身体を預ける彼女に、菊田は堪らず唇を寄せた。優しく丁寧に、何度もその感触を味わう様に。
心地良い眠気と、合わさる唇の柔らかで温かな感触と。律はふわふわと浮つきながら、菊田の口付けに身を委ねた。そのうち首筋に唇を寄せられたかと思えば、そのままソファに沈んでゆく。流れるように組み敷かれた律は、菊田の表情にどきりとした。
「頼むからよそ見しないでくれよ。」
切な気に笑う菊田の声は弱々しい。律は菊田の頬を挟む様にして両手で包むと、困った様に笑って見せた。
「随分信用が無いんですね。」
「そうじゃなくて・・・。」
律の顔の横についているのとは逆の手で、菊田は頬に添えられた彼女の手を握り締める。そのまま律の手に頬を擦り寄せると、じっと彼女を見つめた。
「きっと貴方が思っているよりもずっと、私は貴方を想ってますよ。」
「そうか。」
菊田は情け無く笑って見せると、律の前髪をかきあげ、その額に唇を寄せる。
「どの時代にいても、私は杢太郎さんが好き。」
「あぁ・・・。」
じわりと滲む涙を悟られぬ様、菊田は律に覆い被さった。華奢な身体をきつく抱き締めれば、柔らかな腕が抱き締め返して来る。
いつか夢見た二人での暮らし。それが今こうして現実になった。こんなに幸せでいいのだろうかと思いつつも、菊田は彼女の温もりを逃すものかと抱き締める腕に力を込める。
「俺もだよ。」
抱き締め合っていて顔は見えないが、ふふっと彼女の吐息が菊田の耳を擽った。
「もう離してやれねぇからな。」
明治の時代で二人が共に過ごした時間は、濃密で、でもほんのひと時で。刹那的なその出会いは、一体何の悪戯だったのか。それは未だ"不可思議な出来事だった"としか言いようも無く。しかし今、二人は共に在る。それ以上でも、それ以下でもない、それは紛れもない事実。
菊田は思う。あの時、あの時代で、彼女が一番初めに現れたのが自分の前で良かったと、心から。不可思議な出来事を起こして見せた悪戯な何者かに、感謝くらいしてやろうかと。
愛する彼女の香りと温もりに包まれながら、菊田は頬を緩め、瞼をそっと閉じた。
———
-完-