刹那/菊田
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「わぁ、素敵ですね。」
夕方頃、律を含めた社員達はカルルスへ移動し、宿へと着いた。和洋折衷といった風貌のレトロモダンなその宿を見上げて言うインカラマッに、しかし律は何も言えずにいる。ドクドクと脈打つ鼓動は、その素敵な宿に対する感動にしては過剰だった。
「律ちゃん?」
はっとして隣を見ると、心配そうに顔を覗き込むインカラマッと目が合う。
「やっぱり具合でも・・・」
「ううん、大丈夫。ただなんだか・・・。」
「なんだか?」
「ここ、来たことある気がして。」
「そうなんですか?」
「いや、来たことはない筈なんだけど・・・。」
強張った表情の律を、インカラマッはじっと見つめた。混乱した目で見つめ返す律に、ふと表情を和らげる。
「大丈夫ですよ。ゆっくりで。」
「え・・・?」
優しく微笑むインカラマッに、律は眉を下げた。
「それも占い・・・?」
「そのようなものです。」
「ゆっくりって・・・」
「チェックイン済みましたよ。」
言いかけた律の声に、有古の声が重なった。既に他の社員達は部屋に通されているようで、周囲には有古と菊田しか残っていない。
「行きましょうか。」
「うん。」
インカラマッに手を引かれて宿の中へ入る際、律は一瞬、菊田と目が合った。彼も何処か様子が変だと感じたが、通り過ぎてゆく。この動悸は一体なんなのだろうか。不思議と不快ではないものの、心がざわついて仕方がない。
火の焚べられていない筈のロビーの暖炉に、パチパチと爆ぜる火がチラつく。品のある調度品達は、相変わらず丁寧に磨かれている。部屋のランプはレトロな装飾が施されてはいるが、灯りが灯っているのは電球で、あの頃の石油ランプとは違う。・・・あの頃?先程からちらつくこの記憶は、一体何なのだろうか。来たことなど無い筈なのに、確実に知っている。律は不可思議な体験についてゆけず、部屋の畳に力なく腰を下ろした。同時に鞄の中身が無造作に散らばる。
「・・・律ちゃん。」
インカラマッはその中から何かを拾うと、律の手を包み込むようにして握らせた。動揺する律を落ち着かせるように、柔らかな声で語り掛ける。
「きっとこれが答えですよ。」
優しく微笑むとインカラマッはすっと立ち上がり、部屋の扉へと手を掛けた。
「律ちゃんには救われましたから。貴女にも幸せになって欲しい。」
そう言い残すと、インカラマッは部屋を出て行ってしまう。取り残された律は訳も分からず、握らされた黒い巾着に視線を落とした。鼓動が更に速くなってゆく。震える手で中身を取り出すと、そこには紅い菊の花。途端にぐらりと視界が揺れ、堰を切ったように脳内に映像が流れ出す。
明治時代、拾ってくれたあの人。愛し愛された優しい記憶。血に濡れた最期。来世ではと交わした約束———。こんなに大切な記憶を、何故忘れてしまっていたのだろうか。
律は紅を握り締めると勢いよく立ち上がり、部屋を飛び出した。今のあの人に記憶があるのかは分からない。なんなら今までの様子から見て、きっと記憶など無いのだろう。しかし後先など考えられず、どこにいるのかもわからないあの人を探すことをやめられなかった。
廊下の突き当たりに差し掛かった時、少し先にある部屋から有古が出ていくのが見えた。つい足を止めると、程なくして焦った様子の菊田が部屋を出て来る。声を掛けたいと思うが、やはり憶えていないならと怖気付いてしまう。しかしふと、彼と目が合ってしまった。目を見開いた彼に切な気な表情で見据えられ、思考が停止する。律がついそちらに足を進めると、菊田も同じように律の方へと向かって行く。互いに速度を上げ、その勢いのまま律は菊田の胸へ飛び込み、菊田は彼女の背をきつく抱きしめた。
「律・・・っ。」
「杢太郎さん・・・。」
呼吸もままならない程に強く抱き締められ、しかし律はそれでも足りないとすら思う。煙草と整髪料混じりの彼の香りと、
「杢太郎さん、記憶が・・・っ」
部屋に入るなり、律は背を扉に押し付けられ、菊田によって口を塞がれた。それが彼の唇だと気づいてしまえば、心が打ち震えた。噛み付くようなその口付けに、身体が熱を帯びてゆく。何より切な気に歪められた彼の表情に、どうしようもなく心を揺さぶられる。背中を掻き抱かれ眩暈がしそうになりながらも、必死に舌を絡め返した。
「はぁっ」
菊田の熱い吐息と共に漸く唇が離れたかと思うと、その手が律の頬に触れる。肩で息をする律のやや上気した頬を、菊田は確かめる様に親指で撫ぜた。
「ここに来るまで思い出せないなんてな。」
菊田はそう言うなりもう一度、今度は啄むように口付け、律の首筋に手を滑らせてゆく。
「んぅっ」
甘くもぞくぞくとしたものを感じる律は、これはまずいと菊田の胸を押しやった。
「・・・流石にまずいか。」
バツが悪そうに笑って言う菊田だが、その目は熱を帯びたまま。しかしふと、自身の胸を押しやっている律の手元に視線を落とした。
「これ・・・。」
律の手ごと持ち上げ、その手に握られていた紅を見て目を丸くする。
「こっちに戻って来た時、何故かこれだけ傍にあったんです。私も思い出したのはたった今ですけど・・・。」
大切な物のような気はしていたんですと愛おし気に紅を見つめる律を、菊田は優しく包み込んだ。律の腰を抱き寄せながら、もう片方の手で紅を取りテーブルへ置くと、窓際の団欒スペースへと
「おいで。」
律の気持ちを知ってか知らずか、菊田は一人掛けソファに腰掛けると、彼女を自身の膝の上へと誘導した。一向に目を合わせようとしない彼女がおずおずと膝の上に横座りするのを、愉しそうに目を細めて見ている。控えめに膝の上に収まった律の腰をぐっと引き寄せると、片腕は彼女の腰に回したまま、もう片方の手を彼女の頬に添え、自身の方を向かせた。
「急に恥ずかしくなった?」
目を合わさざるを得なくなった律は、意地悪く言う菊田を弱々しく睨む。
「意地悪・・・。」
「・・・お前は、正真正銘、あの律なんだよな。」
自身の頬を親指で撫でながら言う菊田の言葉を、律は何と無く理解できた。自分は正真正銘、明治に存在した自分だが、目の前の彼はそうでは無い。何の因果か、前世と同じ容姿、同じ名前で現代に生を受けている菊田は、記憶こそあれ、その身を以って体験はしていない。眉を下げている菊田はきっと、そのことを何処か負い目に感じているのだろう。しかし互いに記憶を取り戻した今、そんな事は問題にすらならないと律は思う。何なら記憶など無くとも、また貴方に恋をした。なんて話は、またいつか。
「杢太郎さん。約束、忘れちゃったんですか?」
自身の頬に添えられている菊田の手に手を重ね、律はふわりと微笑む。菊田は一瞬眩しそうに目を細めると、「ちゃんと憶えてるよ」と口元を緩めた。
「今度こそ、俺と一緒になってくれるか?」
「当たり前です。」
百二十年もの時を越え、漸くまた出逢えた二人は、きっと共に生きてゆくのだろう。
これはどこか不思議で大変突飛な、しかし温かな愛のお話。
end.