刹那/菊田
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———誰かの手が、髪を撫でている。
律はその優しい手につい擦り寄った。
「杢太郎さん・・・。」
一度ぴたりと動きを止めた手が、擦り寄る頬を優しく撫ぜる。どのくらい眠っていたんだろうか。段々と意識が浮上してきた律は、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「っ」
律の肩がびくりと跳ねる。さぁっと血の気が引いてゆくのがわかった。
「調子はどうかな?」
ベッドのふちに腰掛け目の前で薄く微笑む鶴見は、尚も律の頬を撫ぜている。自分は今、菊田の名を呼んだだろうか、と律は思考を巡らせる。しかし微睡の中での記憶は、いくら呼び起こそうとしても不確かだった。
「・・・お陰様で、だいぶ楽になりました。」
「出血も止まった様だね。包帯を巻き直そう。」
律の左腕を取り、包帯の巻かれた部分を眺める鶴見は穏やかに微笑んでいる。しかしその表情は、随分とやつれている。
「お疲れの様ですが・・・」
「遠慮しなくていい。息抜きも兼ねているのだよ。」
鶴見が準備してあった処置道具をベッドに広げ始めた為、律はベッドから上半身を起こした。
「消毒もしなければいけないね。」
鶴見は言いながら、着物の上から巻かれている包帯を解き始める。肩の少し下辺りにある傷は、こびりついた血液によって襦袢に張り付いている。
「いいかな?」
「はい。」
服の上から傷を確認していた鶴見は律の許可を得ると、彼女の襟元に手を掛けた。傷口を刺激しない様、丁寧に肩口を露出させてゆく。
「出血が多い筈だ。」
律に傷をつけたナイフはよく研がれていたらしく、傷口は思ったよりも深かった。鶴見は湿らせた布を使い、傷口から襦袢を剥がしてゆく。
「初期の手当が良かった。これは誰が?」
「・・・杉元さんです。杉元さんとアシㇼパちゃんが、私を助けてくれました。」
「・・・そうか。」
鶴見は傷口の周囲を綺麗に拭き終えると、消毒をし、新しい包帯を巻き直した。
「ありがとうございます。」
律が肩口の着物を上げ直し整えようとすると、鶴見に背後から抱き寄せられる。
「っ、鶴見中尉・・・?」
律は振り返ろうとするが、しっかりと回された腕はびくともしなかった。両腕もろとも抱き締められ、身動きが取れない。鶴見は律の耳元に頬を寄せると、ゆっくりと目を閉じた。
「君は不思議だな。」
呟く様に言う鶴見は、荒んだ心がほんの少しだけ、溶かされてゆくのを感じる。怯える事はあっても敵意を向けてくることの無い彼女は、誰にでもそうなのだと知っている。知り合ったばかりの杉元やアシㇼパでさえ、彼女へ向ける表情は柔らかかった。毒気を抜かれる、と言う表現が合っているのかもしれない。
動揺しつつも様子を見守る律に、鶴見は目を開けた。するりと着物の合わせに手を入れると、彼女の身体がびくりと震える。
「なっ」
「大切な物なのかね?」
「あ・・・」
鶴見が取り出した小さな巾着に、律は目を見開いた。見られてまずい様な物ではないはずのそれは、しかし鶴見相手ではどうだろうか。律がどくどくと嫌な鼓動を感じる中、鶴見は律の背中に身を寄せたまま、彼女の目の前で中身を取り出した。紅い菊のあしらわれた陶器の器が、鶴見の手に握られている。
「ほぅ、紅か。つけているのを見るのは今日が初めてだな。」
鶴見は紅を持っていない方の手で、律の顎を掴む。少し後ろを向かせると、その唇を親指でなぞった。だいぶ掠れているが、薄らと紅の跡が残っている。
「紅を引く様な場面もありませんでしたので。」
「似合うのに、勿体無い。」
薄く微笑む鶴見の目は、仄暗く光っている。鶴見は律の耳元に唇を寄せると、掠れた声で囁いた。
「私が贈るなら、鶴をあしらったものかな。」
甘くもひやりとした声に、律は背中に嫌な汗が伝うのを感じる。
鶴見は律に紅を返すと、ベッドから立ち上がった。
「刺青人皮の暗号が解けるまで、あと少しといったところでね。」
「そうだったんですか・・・。」
表情を曇らせる律に、鶴見は付け加える。
「アシㇼパ達は逃げたよ。杉元にしてやられた。」
ほっとした表情を見せる律に、なんてわかりやすいのだろうかと鶴見は思う。
「頭を使うから糖分が必要でね。動けそうなら団子でも買ってきてくれないか。」
「団子、ですか・・・?」
「あぁ、みたらしがいい。」
「・・・分かりました。探してきます。」
鶴見は財布を取り出すと、中から紙幣を抜き出して律に握らせた。
「自分の分も買っておいで。」
穏やかに笑う鶴見は、律を連れて部屋を出る。
「律さん!体調は?」
「月島さん、鯉登さん。お陰様で、随分よくなりました。」
「良かった。」
廊下で出会した月島は、ほっとした表情を見せた。隣にいる鯉登も同じ様に安堵している。
「どちらへ?」
「団子でも買ってきて貰おうと思ってね。」
首を傾げる月島に、鶴見が答える。
「では俺が付き添———」
「月島には暗号解読の手助けをしてもらいたい。律くん、一人で行けるね?」
「あ、はい・・・。」
律は鶴見に言われ、教会の外へと出る。扉の前で見送る鶴見達に、違和感を覚える。まるで律がこの場を離れるのを確認している様で。今まで監視が外れることなど無かった。月島と鯉登も、腑に落ちないと言った表情をしている。自分を遠ざけたい理由でもあったのだろうかと、律は悶々としつつも歩き出そうとした。
「律。」
「も・・・菊田さん。」
律が一歩を踏み出そうと扉から振り返ると、どこからか戻ってきた菊田が目の前にいた。
「もう動いていいのか?」
「えぇ、ご迷惑をおかけしました。」
「良かった。どこか行くのか?」
すぐそばで見送っている鶴見、月島、鯉登の方をちらりと見て、菊田は不思議そうに首を傾げる。
「えぇ、鶴見中尉のお遣いに。」
「俺も行きましょうか。」
菊田は鶴見に声をかけるが、当の鶴見はやりそれを制した。
「いいや、菊田特務曹長にも残ってもらう。暗号解読が済んだらすぐに動かなければならない。」
「では、行ってまいります。」
律は軽く頭を下げると、表の通りへと歩き出す。不安そうに見送る菊田の顔が頭から離れない。
慣れない立地に戸惑うこともせず、律は団子屋を探すとも探さず、考え込みながら歩いた。
解読まであと一歩の暗号。このタイミングでのお遣い。初めて解かれた監視。鶴見の手に握られた菊の紅———。
———嫌な予感がした。律の胸の辺りはざわついている。
暗号は、もしかするともう解けているのかもしれない。ただ金塊争奪戦において部外者である律を遠ざけたかっただけかもしれないが、第六感と言うものなのだろうか。今戻らなければ、後悔する気がする。
律は踵を返すと、元来た道を走り出した。何の根拠もない不安を取り除いてしまいたい。思い過ごしならそれで良い。そうある事を願いながら、律は教会へと急いだ。