刹那/菊田
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「菊田特務曹長殿、律が・・・」
「安心しろ、律は無事だ。」
菊田は銃弾により負傷した有古を、街医者へと運んで来ていた。有古はアシㇼパを逃す為、杉元達に協力したと言う。しかし銃弾を受け、道に転がっていたところに菊田が出くわした。月島によって心臓辺りを撃ち抜かれた場面を見た時は肝が冷えたが、懐に入れていた父の形見であるマキリ(アイヌの小刀)によって命を救われた様だった。
「何やってんですかアンタ・・・何で律がこんな所に・・・。」
診察台に横になっている有古は、絞り出す様な声で言う。
「本当にな。」
「・・・。」
目を伏せる菊田に、有古はそれ以上何も言えなかった。有古は今後、アシリパと共に戦うと告げる。同じアイヌとして、思うところがあったのだろう。
「また一緒に温泉入ろうな、有古よ。」
片手を上げて去ろうとする菊田に、有古は声を掛ける。
「彼女を泣かせたら、俺も遠慮しませんよ。」
「・・・いくらお前でも譲れねぇな。」
菊田は一瞬驚いた表情を見せたが、次には口角を上げて返した。今度こそ去って行く菊田の後ろ姿を、有古は小さく笑って見送った。
アシㇼパから得た情報を元に、鶴見が刺青人皮を解読し始めてどのくらい経っただろうか。鶴見は礼拝堂の床に刺青人皮を広げ、転げ回りながらも解読を進めている。
菊田は周囲に人がいないことを確認すると、律の居る部屋を訪れた。静かに部屋へ入ると、ベッドで眠る律の方へと足を進める。なるべく音を立てない様にとベッドのふちに腰掛けるが、小さくぎしりと音が鳴った。眉間に皺を寄せて眠っていた律が、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
「杢太郎さん・・・。」
ぼんやりとした表情のまま、律は菊田と目が合うと微笑んだ。布団を退ける律を菊田が止めようとするが、彼女はそれを制して起き上がる。
「具合はどうだ。」
菊田が確かめる様に律の頬に触れると、彼女もその手に手を重ねた。
「大丈夫です。杢太郎さんこそ、怪我は?」
「無いよ。」
良かったと息を吐く律を、菊田は優しく抱き寄せる。
「・・・固い。」
服の中にいくつもの銃を装備している菊田に、律は苦言を呈した。しかし身体を預けて抱き締め返す律に、菊田は小さく笑う。
「直に触れ合いてぇな。」
耳の後ろをすりっと撫でながら、菊田は吐息混じりに囁いた。色香を孕んだその声に律の頬が赤く染まる。何も言わずに首元に顔を埋めてくる律に、菊田は目尻を下げた。
「ほら、まだ寝てろ。」
菊田はゆっくりと律を押し倒すと、布団を掛けてやる。額に軽く口付ければ、律は恥ずかしそうに笑った。本当ならこのまま組み敷いてしまいたい所なのだが、と菊田は困った様に笑う。
余程体力を消耗しているらしく、律の瞼はもう落ちてきている。菊田が優しく髪を撫でてやれば、間も無く規則正しい寝息が聞こえて来る。律の眉間に刻まれていた皺が取れていることを確認すると、菊田は静かに立ち上がり、部屋を後にした。
彼女の温もりと、触れた感触と。消えゆくそれらを未練がましく抱きながら、菊田は教会の外へ出た。心ゆくまで触れ合い、傍に居てやれないのがもどかしい。
菊田は煙草に火をつけると、教会の壁に寄り掛かる。既に太陽は高く登り、真上から少し傾いたところにある。それでもひやりと冷たい空気が、菊田から彼女の温もりを奪ってゆく。
もしも彼女が現れたのが自分の前でなかったなら、危険な目に遭うこともなかったのだろうか。菊田は幾度となく頭を過ぎった不毛な思考を振り払う様に、煙を深く吐き出した。
どこか静かな場所で、のんびり過ごせたなら。温泉のある場所がいい。案外気の強い女だから、きっと自分は尻に敷かれるのだろう。菊田はそんなことをぼんやりと思う。しかし彼女には、帰るべき場所があるのだったと思い直した。
菊田は目を伏せ、小さく笑った。空想を浮かべては現実に戻る。これももう幾度も繰り返したことで。彼女が元居た場所へ帰る方法が見つかった時、素直に帰してやれるだろうか。
「菊田特務曹長。」
「鯉登少尉殿。」
建物から出て来た鯉登に声を掛けられ、菊田は煙草を落とし踏み消した。鯉登は菊田の隣に並び、建物の壁に背を預ける。いつかの駆逐艦での事を聞かれるのだろうか。菊田はそう思いながら、空を仰ぎ目を細める鯉登を見つめる。
「彼女は、強いな。人のために泣くことはあっても、弱音を吐くところを見たことがない。」
「・・・泣いたのですか?」
「家永が死んだ時にな。」
「・・・。」
きっと宇佐美を撫でる律を支えていた様に、この人はその時も彼女を支えていたのだろう。菊田はそう思うと、ほんの少しの安心と、やり場の無い悔しさとを感じた。
「連れて逃げるなら今のうちだ。」
「!」
思いもよらない言葉に、菊田は目を見張る。真っ直ぐに見つめてくる鯉登の顔は、冗談で言っている様には見えなかった。
「・・・ご自分が何を言っているのか、分かってます?」
「私は鶴見中尉についていく。しかし、律にこれ以上辛い思いをさせたくは無い。」
目を伏せて言う鯉登は、どこか違って見える。何が彼を変えたのかは分からないが、まだ子供だと思っていた鯉登が、菊田には眩しく見えた。杉元もそうだったが、人は成長していくものなのだと実感する。
「お前達がどういう関係性なのかは知らないが、少なくとも律は、お前の事を想っているだろう。」
月島が知ったら卒倒するだろうな、と鯉登は笑った。そう言う鯉登も、どこか哀しげな目をしている。
「鯉登少尉殿は、律を・・・」
「そうだとして、攫っていいのか?」
目を細めて意地悪く言う鯉登に、菊田は確信めいたものを感じた。鯉登は律を想うからこそ、彼女の想いを尊重しているのだろう。しかし今逃げたところで、もし追われるようなことがあっては逃げ切れるかどうか怪しい。相手はあの鶴見だ。実際、厳しいだろう。それに何より、菊田には遂行せねばならない任務がある。
「俺は一介の兵士です。ここで逃げることなんてできませんよ。」
「・・・そうか。今の話は忘れてくれ。」
軽く笑い飛ばす菊田に、鯉登はそれ以上何も言わなかった。律との関係性について否定も肯定もしなかった菊田に、追及する様なことも無い。
「泣かせるなよ。」
それだけ言って菊田を一瞥すると、鯉登は建物に預けていた背中を真っ直ぐに正した。
「何故俺に言うんですか。」
辛うじて出た誤魔化しの言葉は、最早鯉登には通用しないだろう。
「さっきまで部屋の外を見張ってやっていたんだ。感謝するんだな。」
「!」
目を見開いた菊田は、建物の中へと戻っていく鯉登の背中を見送るしかできなかった。
「・・・どいつもこいつも、お前の泣き顔は見たくないってよ。律。」
菊田は呟きながらもう一度建物の壁に背を預けると、ニ本目の煙草に火を点ける。立ち昇ってゆく煙はゆらゆらと揺れて、薄ら寒い空気に溶けて消えていった。