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よく晴れた暖かな土曜の正午。ガラス戸から差し込む陽光を浴びていると、どうしてもうとうとと眠くなってくる。
そこはやや古びたクリーニング店。丁度客の途切れた店内は、ガラス戸を隔てた外界の音がぼんやりと聞こえるのみで、心地よい静寂に包まれている。律はレジカウンター内の椅子に腰掛け、そこが客から死角であるのをいい事に微睡んでいる。目を閉じ、外の車の音や道行く人々の話し声を聞くともなしに聞いていると、店の引き戸の開く音がした。瞼を持ち上げてそちらへ顔を覗かせると、先日スーツを預けて行った男が入ってくるところだった。
「いらっしゃいませ。仕上がってますよ。少々お待ちください。」
律は立ち上がりながらそう言うと、ふわりと微笑み、店の奥へと下がって行った。財布から引換のレシートを取り出そうとしていた男は、ほんの少し驚いた顔をして、オールバックに整えた髪を撫で付ける。
「お待たせしました、尾形様。ご確認をお願い致します。」
スーツを手に戻って来た律は、男からレシートを受け取った。番号を確認すると、黒のスーツをカウンターに広げる。男と共にクリーニングし終えたスーツに不備がないことを確認すると、丁寧にハンガーに掛け直し、ふんわりとビニールの袋を被せた。手元をじっと見つめられている事にやや緊張しつつスーツを男に手渡すと、レジを打ち会計の準備を進める。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております。」
会計を終えた男に声を掛けると、深い黒の瞳と目が合った。男は無表情のまま軽く頭を下げると、スーツを手に店を出てゆく。男がガラス越しに見えなくなったのを確認すると、律は小さく息を吐いた。
その男、尾形がこの店を利用するのは、今回で三度目だった。初めて彼が店を訪れた時から、印象に残る瞳だと思った。無表情で無口だが、その大きく真っ黒な瞳に見つめられると、吸い込まれるような錯覚に陥る。
律は尾形に惹かれてしまっている。たった数回、しかも客と店員という関係性でしか関わったことのない彼に。流石にそれを恋だとは思わないが、彼に見つめられれば心臓が跳ねるし、彼が来るのを心待ちにしているのは確かだった。
*
その日は一日雨だった。雨の日にわざわざクリーニングに出すような大切な服を持ってくるのが憚られるのか、客足は殆どない。閉店まで一時間弱。律は例の如く椅子に座り、カウンターに頬杖をついている。日中に比べ強くなって来た雨をぼおっと眺めていると、クリーニング店の軒下目掛けて慌ただしく駆けて来た男と目が合った。
(あ、尾形さんだ。)
一日中雨だったと言うのに傘を持っていないらしい尾形は、気まずそうに目を逸らし、水の滴るオールバックを撫で付けている。律は弾かれたように立ち上がると、店の引き戸を引いた。
「どうぞ中へ。」
一瞬戸惑った様子の尾形だったが、「遠慮なさらず」と背後に回って背中を押せば、抵抗することはなかった。ぐっしょりと濡れている彼にタオルを持ってくると、尾形は「すみません」と呟いて受け取った。
「傘はどうされたんですか?」
「・・・コンビニで置き引きされました。」
「あら・・・。」
この間クリーニングしたばかりの黒いスーツをタオルで押さえている尾形は、やはり無表情で言う。災難なと思いつつ、律は彼から"コンビニ"という単語が出て来た事の方が気になってしまった。それは勿論、誰しもコンビニくらい行くだろう。しかし尾形には、何となく似つかわしくないように感じてしまった。彼がコンビニで肉まんなんかを買っているところを想像してしまい、つい口角が上がりそうになるのを堪えた。
「随分といい性格をしているようですな。」
堪えたつもりだった。しかし笑ってしまっていたようで、尾形にじとりと睨まれる。
「あ、す、すみません。尾形さんがコンビニにいるイメージが湧かなくて・・・。」
「あ?」
訝しげに短く答えた尾形に、思っていた以上に口が悪そうだと律は思った。
「えーと、あ、傘、忘れ物がいくつかあるので持って来ますね。」
自分の作り出してしまった空気に居た堪れなくなった律は、逃げるように店の奥へと入って行く。いくつかあるビニール傘の中から一番綺麗なものを選ぶと、店頭へと戻って尾形に手渡した。
「もういつのだか分からないくらいなので、返さなくて大丈夫ですよ。」
「・・・。」
尾形は何も言わず、差し出された傘をじっと見つめている。
「尾形さん?」
小首を傾げる律の手首を、するりと尾形の手が掴んだ。律の肩が小さく揺れる。
「もう店仕舞いでしょう。」
「え、えぇ、そろそろ・・・。」
ひやりと冷たい尾形の指先に、しかし律の身体は熱を持ってゆく。
「飯でもどうですか。」
「え、」
手首を親指ですりっと撫でられ、しかしどこに自分を誘う要素があったのだろうかと、律は思考が追いつかずにいる。尾形はふっと笑うと、手首を掴んでいた手を緩めてつぅっと移動させ、傘を持つ彼女の手を握った。
「駄目ですか。」
顔を覗き込む尾形の目は、不敵に細められている。小さく身動ぐ律は、しかし気づけば「いえ」と小さく答えていた。
「どう言う意味か分かってます?」
ぐっと距離を詰めてくる尾形に、律の腰がカウンターに当たる。尾形は彼女の手を掴んでいるのとは逆の手をカウンターにつき、その身体同士は触れるか触れないかの距離。
「え、あ・・・。」
律が言い淀んでいる間にも、尾形の端正な顔が近づいてくる。顔に熱が集まり、心臓が破裂しそうなほどに脈打っているのを感じながら、律はその深い黒に囚われている。ぎりぎり触れない距離にある唇を、熱い吐息に擽られる。目眩を起こしそうになりながら、その黒い瞳に熱を見た気がした。
尾形は薄らと口角を上げると、「いいんだな?」と囁いた。熱を帯び潤む彼女の瞳に、背中をぞくぞくと何かが駆け上がる感覚を覚える。眉を下げ、しかし逃げようとしない彼女の無言を肯定と取り、ゆっくりと彼女のそれに唇を押し当てた。冷え切った尾形の唇に、彼女の熱が伝わってくる。小さく身体を震わせる彼女の腰を抱き寄せると、尾形は脳が甘く痺れるのを感じながら、その口内を犯してゆく。遠くに雨音を聞きながら、彼女の熱に酔いしれる。漸く唇が離れた頃には、互いに息が上がっていた。力無く潤んだ瞳で見つめてくる律に、尾形はその上気した頬へと手を伸ばす。熱い頬をするりと撫でると、目を細め、口角を上げた。
「一旦着替えて迎えに来る。」
尾形は満足そうに言うと、漸く彼女の手を離し、ビニール傘を受け取った。店を出てゆく彼を見送りながら、律は暫く動けないでいる。とんでもない男だと、暫く静まりそうにない心臓をきつく押さえた。
実はずっと前から、尾形は律のことを知っていた。いつも通勤や退勤の際に前を通るこの店で、柔らかな笑顔をたたえて人と接し、時には気持ちよさそうにうたた寝する彼女を見かけていた。気づけばいつしか、店の前を通る度、その姿を探すようになっていた。
尾形はにやける口元を手で覆いながら、クリーニングしたてのスーツが雨に濡れて重くなっていることなど忘れ、浮ついた心持ちで帰路を急いだ。
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