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「こんな時間まですまなかったな。」
「いえ、鯉登さんこそお疲れ様です。このあと予定があるのでは?」
「あぁ、仕方ない。」
残業を終えた鯉登がオフィスを出る頃には、時計は22時を指していた。週末である今晩は恋人である律が泊まりに来る予定があり、早く帰りたかったのにと溜息を吐く。しかし部下で先輩の月島が居てくれたお陰でこの時間に帰れるのだと、鯉登は隣にいる月島に感謝した。
鯉登と月島が外へ出ると、目の前のガードレールに寄り掛かる様にして立つ女性が居た。オフィスカジュアルな服装の彼女はスマートフォンから顔を上げると、柔らかく微笑んだ。
「律・・・!」
「お疲れ様。」
鯉登は待っていた女性、もとい恋人の律に駆け寄ると、その両手を自身の両手で包み込む。突然の事に律はスマートフォンを落としそうになり、慌ててポケットへ突っ込んだ。
「冷えているじゃないか。」
「今来たばっかりだよ。」
スマートフォンを仕舞った手をもう一度包み込む鯉登に、律は困った様に笑う。
冬になりかけのこの季節は厚着をするかしないか迷う様な気候で、夜は冷え込む様になってきた。
律は鯉登の後ろにいる月島に軽く会釈をし、頭を下げる。月島も同じ様に頭を下げ、小さく笑った。
「では、俺はこれで。」
「あぁ、すまない。助かった。ゆっくり休んでくれ。」
「鯉登さんも。」
優しい目で言うと、月島は駅の方へと歩いて行く。
月島の後ろ姿を見送ると、鯉登は律の手を握り、指を絡めた。
すらりと伸びた指は、しかしごつごつとしている。律はこの異性を感じさせる手が好きだった。
「待たせたな。行こうか。」
「勝手に待ってただけ。」
ふわりと笑う律に、鯉登は目尻を下げる。楽しみにしていたのは自分だけではないのだと思うと、つい口角が上がった。
二人は指を絡めたまま、会社から徒歩圏内にある鯉登の家へと歩き出す。
「お腹空いたー。」
「そうだな。何か食べて帰るか?」
「それでもいいし、ちゃちゃっと何か作ってもいいし。何が食べたい?」
「・・・律の手料理が食べたい。」
「素直でよろしい。」
「ん。」
前々から律の手料理を楽しみにしていた鯉登は、彼女の頭に頬を寄せた。ふふっと笑う律の声に、胸の辺りがじわりと温かくなる。
「スーパーまだやってるよね。」
「あぁ、23時までやってる筈だな。」
二人は食材を揃える為、途中にあるスーパーへと寄った。
買い物かごを手に取った鯉登を、律はじっと見つめる。
「ん?」
視線に気づいた鯉登は首を傾げた。
「ううん。」
スーツをビシッと着こなし、買い物かごを持つ鯉登のギャップに、律は頬を緩める。
「なんだ?」
鯉登は野菜売り場を見る律の顔を覗き込む。
「かっこいいなぁと思っただけ。」
手に取った玉ねぎを見ながら笑う律に、鯉登は目を丸くした。
「・・・お前なぁ。」
鯉登は片手で顔を覆うと、長い溜息を吐く。彼の耳が赤くなっているのに気づいた律は、目を細めた。
「言わせたのは音之進でしょ。肉じゃがでいい?」
「あぁ。楽しみだな。」
鯉登は顔を綻ばせる。自身の持つかごへ次々と食材を入れて行く律を眺めながら、こうして一緒に過ごす時間がもっと増えたらいいと思った。と、同時に、目を伏せ食材を吟味する彼女に、触れたくて堪らなかった。
買い物を終え、数分歩くと鯉登のマンションに着いた。
部屋の鍵を開け中に入ると、鯉登は鞄と買い物袋を床に置く。そのまま振り返ると電気も点けず、鯉登は律を抱き締めた。
「わっ」
律は突然の事に鞄を床に落とす。しかし鯉登は構わず、彼女の身体を抱きすくめ、その頭に頬を擦り寄せた。
鯉登の背中に腕を回すと、律は小さく笑った。
「甘えん坊してるの?」
「ん。」
律は抱き締め返しながら、鯉登の後頭部を撫でる。温かい。外が寒かったから尚更、鯉登の体温が心地良い。
鯉登も温もりを感じているのか、温め合うようにぴったりと身を寄せ、律の身体を包み込んでいる。
暫くすると気が済んだのか、鯉登は律を解放する。彼女の額に軽く口付けると、「肉じゃがだ。」と笑顔で部屋に入って行った。
律は心も身体もほかほかと温かくなったように感じる。離れてしまった体温に少し名残惜しく思いながらも、料理の支度を始めることにした。
二人は上着とジャケットを脱ぎ、台所へ立った。エプロン姿の律に、鯉登はにやける口元を押さえた。律も律で、ワイシャツ姿の鯉登に時々視線を送ってしまう。
「後は20分くらい煮詰めたら食べられるよ。先にお風呂入ってきたら?」
丁度その頃には米も炊けているだろうと思いつつ、律は鍋にアルミホイルで作った落とし蓋を入れる。料理中ずっと隣で手伝ったり眺めたりしていた鯉登は、今もすぐ隣で律の様子を眺めている。
「お風呂は?」
「一緒に入る。」
「火を見てなきゃでしょ。」
困ったように笑った律に、鯉登はむすっとした顔をした。それはまるで子供のようで、律は吹き出すようにして笑った。
「じゃあ夕飯は後だな。」
「え。」
急に真剣な顔をして向き合う鯉登に、律はぞくりとする。
鯉登は律と視線を合わせたまま、コンロに手を伸ばし、そして火を消した。その手を律の頬に伸ばすと、彼女の肩が小さく揺れる。
鯉登の熱を帯びた瞳に捕らえられ、律は息をするのを忘れそうになった。その間にも、端正な顔がゆっくりと近づいて来る。あと僅かと言うところまで来ると、互いに目を伏せ、そして唇が重なった。
鯉登はそのまま食むように角度を変えて口付け、すぐ傍にある壁に律の背中を押し付ける。
「ん。」
律の柔らかな唇の感触を確かめながら、鯉登は彼女の腰へと腕を回した。もう片方の手は彼女の顎を持ち上げ、次第に貪る様な口付けに変わってゆく。
「んぅ、」
口内を侵されながら、律は脳の甘く痺れる様な感覚に陥る。堪らなくなって鯉登の首に両腕を回すと、更に力強く腰を引き寄せられた。
互いに求め合っている感覚に、二人は酔いしれてゆく。
「はっ」
漸く唇が離れると、鯉登の口から熱い吐息が漏れた。その表情は切な気で、眉間に皺を寄せ、瞳は熱を帯びている。律はその表情に小さく震えると、鯉登の首に腕を回したまま呟いた。
「・・・ご飯は?」
顔を上気させ、至近距離で上目遣いに見つめて来る律に、鯉登はぞくぞくと込み上げて来るものを納められずにいる。
「我慢してくれ。」
鯉登は目を細めると、律の耳元に唇を寄せ、「これ以上待てない」と囁いた。
もう充分待っただろう。明日は休みなのだから、時間はたっぷりある。
鯉登は空腹など忘れ、律を心ゆくまで味わった。
一人晩酌をする月島はまだ知らない。週明け、上司から恋人の肉じゃがについて延々と語られる事を。