刹那/菊田
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「有古よ、お前を信頼して頼みたいことがあるんだが。」
「な、何でしょう。」
菊田は部下と共に、湯治の為に温泉に浸かっている。ここは軍部御用達の湯治場であり、戦争での傷を癒すために多くの兵士たちが療養している。
周りに人が居ないことを確認し出したと思えば、唐突に話し出す菊田に背筋を伸ばすこの大男は、有古イポㇷ゚テ。有古は菊田の部下であり、二人は共に日露戦争を生き延びた戦友でもある。そんな菊田から信頼しているからと前置きを受け、頼まれることとは何なのかと、有古は息を呑む。
「絶対誰にも漏らさないと誓えるか。」
「はい・・・!」
それほどまでに重要な任務なのかと、有古はごくりと唾を飲み込んだ。
「猫の様子を見て来てくれないか。」
「・・・は?」
話を聞けば、菊田は街に家を借り、拾った猫を匿っていると言う。暫く様子を見に行けておらず、心配なのだと。確かに菊田はこのところ忙しそうにしていた。今日もこの後出掛ける用事があるとの事で、有古にその猫の様子を見て来てほしいと。
「猫、ですか。」
「あぁ。しかも顔がいい。」
「顔が・・・。」
くつくつと喉を鳴らして笑う菊田に、有古は揶揄われているのだろうかと思う。
「絶対誰にも気取られるなよ。」
「わ、わかりました。」
猫を相手に何をそんなに心配しているのか分からないが、その目は真剣そのもの。凄みに押された有古は、その話を引き受ける事になった。
「ここか・・・こんな一軒家を猫に・・・。」
有子は菊田に託された鍵を取り出す。大切そうに菊田の胸ポケットに仕舞われて居たそれを見て、有古は姿勢を正した。
引き戸に鍵を差し込み回すと、カチャリと音がする。猫が逃げてはいけないと、有古はゆっくりと戸を引いた。
「わ、びっくりした。貴方が有古さんですね?」
びっくりしたのは有古の方だった。大きな図体は硬直し、その場から動けなくなる。
「佐倉律と言います。中へどうぞ。」
「ね、ね、猫って・・・。」
「はい?」
何とか絞り出した言葉に、その女性は首を傾げた。何が猫だ。話が違うじゃないかと、有古は菊田を恨めしく思った。
「菊田さんが猫って?」
「えぇ・・・してやられました。」
ちゃぶ台を囲み茶を啜っているうちに、有古は何とか落ち着きを取り戻す。目の前の女性は、「ふぅん。」と面白くなさそうな顔で何処かを見ている。確かに顔がいい。こんな女性を囲って、菊田は何をしているんだと有古は呆れた。
「猫、ね。」
だから菊田は、有古は鍵を開けて勝手に入るだろうと言っていたのかと、律は腑に落ちた。戸を叩いてくれればいいのにと思っていたが、まさかこう言う事だったとは。
「律さんは俺のことを聞いていたんですね。」
「えぇ、"図体はデカいが優しい奴”って言ってましたよ。思ったよりも大きくて驚きましたけど。」
面白そうに笑う律に、有古の緊張は解ける。どこか柔らかい印象を与える女性だと、有古は思った。
「あの、それで、佐倉さんは、菊田特務曹長殿とはどういう・・・。」
「特務曹長・・・?」
律は軍の事はよく分からないが、有古に聞いて、菊田がそこそこ上の位置にいることを初めて知った。そんなにお偉いさんだったとはと、律は驚く。
「あの、それで関係は・・・。」
「あぁ、そうでしたね。話すと長くなりますが・・・。」
菊田からは、有古に未来の事を話すかどうかは自分で決めるといい、と言われていた。しかし律は、菊田が信頼を寄せるその男になら、話してもいいと思っていた。そしていざ会ってみれば物腰柔らかく優しいその男に、律は話す事を決意した。
「へぇ、百二十年経てばそんなに変わるのか。」
「あっさり信じてくれるのね。」
全てを話し終えた頃には、有古と律は気を許し合っていた。それは有古が、興味津々といった様子で話の先を促すからで。有古があまりに律の時代について聞いてくる為、律は拍子抜けする。
「まぁ、信じ難い話ではあるが。でも菊田特務曹長が信じるのなら、俺も信じる。」
「そう・・・ありがとう。」
目を細め、どこか寂しそうに笑う律から、有古は目が離せないでいる。今はこうして談笑しているが、彼女の心中は察しきれないだろうと有古は思う。
その時、ガラガラと引き戸が開いた。そういえば鍵をかけていなかったと二人が驚いてそちらを向くと、そこには菊田が立っていた。
「顔合わせは終わったか?」
洋装を纏い、帽子を被った菊田は、にやりと笑う。初めて見るその装いに、律は目を奪われた。
「菊田特務曹長殿!?今日は来られないからと・・・いえ、その前に猫じゃないではありませんか!」
「はは、悪い悪い。用事が早く終わったんでな。」
そうだった。猫と言われたんだったと思ったが、律は顔には出さずに耐えた。
「これからは有古も頼れ。な?」
「はい。律、いつでも頼ってくれ。菊田特務曹長殿が来られない時は俺も来る。」
頼れる人間が自分だけだと心許ないだろうと、菊田は有古を連れて来てくれたのだ。なんて手厚いのだろうと律は思う。
「ありがとう。」
律が微笑んで礼を言うと、有古は「じゃあまた。」と菊田に鍵を返し、家を出て行った。