刹那/菊田
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律が明治の時代に来て、ニ週間程が経った。
働き先の定食屋の女将も、主人も穏やかで、不慣れな律に色々な事を教えてくれた。台所仕事も様になって来た律を、二人はよく褒めてくれる。何より気立てが良く真面目に働く律は、接客の面でもよく役に立っていた。ついでに着物の着方も、女将に教えて貰った。
菊田はと言うと、最初の三日程は毎日、律の様子を見に来てくれていた。しかし療養中とは言え仕事はあるらしく、それからは2〜3日に一度家に顔を出すか、定食屋に飯を食いに来るかと言った様子だった。
結局初日の夜は、ただひたすらに優しくあやされ、手を出されるようなことはなく。そこから今日まで、菊田が律の元に泊まる事はなく、それどころか指一本触れてこない。いや、子供を扱うように、頭に掌を乗せられる事はあるが。律は女としてどうなのだろうかとも思いつつ、菊田の真摯な性格に救われていた。
夕方頃。律が仕事を終えて家に戻ると、窓から顔を出す菊田と目が合った。開け放された窓に肘を乗せ、もたれかかるようにして煙草を吸っている。
「よぉ、おかえり。」
「菊田さん、いらしてたんですか。」
律は家に入ると、嬉しそうに微笑んだ。
この頃は律の提案で、菊田が合鍵を持つようになった。最初は遠慮した菊田だったが、「菊田の借りた家だから。」と言われれば、今後の利便性も考えてその話を受ける事にした。
初めこそ使わなかったその鍵も、段々と律と打ち解けてくる事で、今ではこうして勝手に上がり込むようになっていた。
「お仕事もあるでしょうに、気にかけていただいてすみません。」
帰りがけに買って来た食材を台所に置きながら、律が言う。
「いや、息抜きにちょうど良い。」
畳にあぐらをかいて開け放した窓にもたれかかり、煙草の煙を燻らす菊田は目を細めた。菊田が来る度に香るその煙草は、いつしか律を安心させるようになっていた。
「ご飯食べて行かれますか?」
「良いのか。」
律は笑うと、夕餉の支度に取り掛かる。そのだいぶ様になって来た後ろ姿を、菊田はぼぉっと眺めている。ふと、視線に気づいた律が振り返った。
「あまり見られるとやりづらいと言うか・・・。」
「悪い悪い。だいぶ慣れて来たと思ってな。」
本当に悪いと思っているのか分からない菊田は、笑いながら言う。律は諦め、また料理に取り掛かった。
「定食屋にしたのは正解でした。料理は生きるのに必要ですから。」
「そうだな。」
「こうして少しは貴方の役にも立てますし。」
振り返らずに言う律に、菊田はただその背中を見つめる。野菜を切る律の手元から、とんとんと心地よい音がする。ぐつぐつと鍋の煮える音や、そのうち香ってくる出汁の香りに、菊田の心は休まっていく。その音や匂いをただ感じながら、菊田は律を眺めていた。
戦争の、音や匂いや情景が、頭にこびり付いている。どんなに平和な時間を過ごしても、常にそれは纏わり付く。だからこそ、安らぎを感じれば、それがどんなに幸せな事かと菊田は思う。
「幸せだな。」
「え?」
つい口をついて溢れた言葉は、律の耳には届かなかった。逆に「ん?」と返せば、律は気のせいかと料理に戻る。
知り合ってたった二週間程しか経たない律に、ここまで安らぐのは何故だろう。確かに飼い猫のように思っている節はあるが、それだけでは無いだろう。彼女の元居た時代には戦争がなく、大層平和だったと聞いた。そんな環境で過ごした彼女は、穏やかで、あまり人を恐れたりしない。定食屋や街で見かける彼女は、誰にも平等に優しく接し、そして愛されているようだった。
平和呆けというやつなのだろうが、そんな彼女はこの時代において、どうしたって魅力的だった。
「菊田さん、ご飯が炊けるまでお酒でも呑まれますか。」
「随分結構なもてなしだな。」
律は火にかけていた鍋から、
「女将から貰ったんです。軍人さんにって。」
悪戯っぽく笑う律は、盆にお猪口を乗せている。
「あぁ、あれか・・・。」
定食屋の女将は律を、菊田の元に駆け落ちして来た令嬢か何かだと思っているのだろう。都合がいいので敢えて訂正しなかったが、そんな設定もあったなと菊田は笑った。
「肯定もしていませんが、都合が悪ければ訂正しておきますよ。」
徳利と一つのお猪口を乗せた盆を運び、律は菊田の傍まで来る。
「いや、いいよ。」
盆を畳の上に置くと、律はお猪口を菊田に持たせ、手慣れた様子でお酌をした。
「そんな事も覚えたのか。」
菊田は驚きつつもされるがまま、お猪口に口をつける。そこそこ上質であろうその酒に、女将に何か返さねばと思った。
「お酌は元の時代にもあったので。」
どこか遠くを見つめる律は、セクハラパワハラ祭りの上司達との飲み会を思い出し、乾いた笑いを溢した。
「どの時代も同じだな。」
何となく察した菊田は、可笑しそうに笑う。
「お前は飲まないのか?酒が飲めない歳じゃねぇだろ。」
「いいんですか?」
「俺だけってのも味気ないだろ。」
菊田は空になったお猪口に酒を注ぐと、律に差し出す。律はそれを受け取ると、「じゃあ・・・。」とお猪口を傾けた。目を伏せ、お猪口に控えめに唇を寄せる彼女は、どこか色気がある。菊田はつい凝視してしまっていた事に気づき、視線を逸らした。頭の中で彼女を猫に喩えてはいるが、こうして時々、女だと認識してしまうことに困っていた。
「辛口ですね。」
眉間に皺を寄せ、口を硬く結ぶ律を見て、菊田はほっとする。
「お子ちゃまだな。」
「揶揄いましたね。」
軽く睨んで来る律を、菊田は新鮮に思った。くつくつと笑う菊田に、律も釣られて笑う。
「そろそろお鍋を見て来ます。」
お猪口に酒を注ぎ直すと、律は微笑みを残して土間へ降りていった。菊田は彼女を見送りながら、お猪口を持つと一口酒を飲む。
そろそろ菊田は登別を発たねばならない。まだ今すぐというわけではないが、昨日、鶴見中尉から合流せよと連絡があった。
律をどうしたらいいだろうか。自分がいなくてもやっていけるだろうか。連れて行きたいと心のどこかでは思っているが、それはあまりに危険すぎる。自身の置かれる立場では、律に危害が及ぶ可能性が高いだろう。清い彼女を地獄へ道連れにするなど、あってはならないと菊田は思う。
「これから忙しくなりそうでな。あまり顔を出せなくなる。」
「そうですか・・・。」
菊田と律は、小さなちゃぶ台を挟み、向かい合って食事を取る。味噌汁は出汁が効いており、優しい味がする。寧ろ申し訳ないと菊田を労る律に、菊田は胸が締め付けられる。
穏やかな食卓とは裏腹に、菊田の心は沈む。しかしせめてここにいる間はと、律との時間に安らぎを求めた。