微熱/菊田
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「ただいま戻りました。」
昼休憩が終わり少し経った頃のオフィス。律と月島は出張帰りのその足で出社して来た。
小さなスーツケースを壁際に置き、デスクへつこうとする律の元へ菊田がやってくる。
「お疲れさん。」
「不在の間の対応、ありがとうございました。」
「いや、特に何も無かったが、一応共有しとく。」
「お願いします。」
律の出張中の業務について一通り申し送りをする菊田は、その間何度か空咳をしていた。
「菊田さん、風邪、伝染ったんじゃ・・・。」
「・・・どうかな、ちょっと喉がな。」
菊田は言いながら、喉元を摘むようにして苦い顔をする。
「杉元くんの部屋に上がったりするから・・・。」
呆れたように言う律に、菊田は気まずそうに顔を顰めた。
「まぁ週末だし、しっかり休むさ。」
「そうして下さい。」
なんて会話をした数時間後。
定時になり仕事のキリもいいので帰り支度を始めた律は、挨拶をしようと菊田の方を見た。しかしどうも様子がおかしい。パソコンに向かってはいるもののその目はどこか虚で、なんとなく顔が赤い気がする。
「菊田さん、」
「ん?あぁ、もう定時か。お疲れ様。」
「熱があるんじゃないですか。」
取り繕ってはいるものの、ほんの少し、その動作や口調が普段よりも鈍く見える。気のせいかとも思える程度だが、時々咳き込んでいたのもあり見過ごせなかった。
「んー・・・。」
はぐらかす様に目を逸らす菊田に確信を得る。どうせ週末だからとキリのいいところまで働くつもりだったのだろう。
「駄目です。帰りますよ。」
「まだ何も言ってないだろ。」
「駄目です。」
「はは。」
菊田は力なく、困った様に笑う。
「残りは引き継ぎますから。」
「・・・いや、急ぎじゃないからいい。」
「分かったよ」と降参する菊田は、緩慢な動作で帰り支度を始めた。注意深く見ていなければ気づかない程度だが、やはり立ち上がる時にデスクに手をつく様子からは、きっと身体が重いのだろうと窺える。
「月島、悪い。先に上がる。」
「お大事に。」
菊田がまだデスクへ向かっている月島に声を掛ければ、彼は一部始終を見ていた様だった。
律は菊田を労るように見遣り、隣を歩く。
「タクシー呼びますか?」
「いや、そこまでじゃないよ。」
会社を出た所で聞いてみるが、一蹴されてしまった。笑って言う菊田の足取りは、確かにしっかりとしている。
「それ、持とうか。」
「何言ってるんですか。」
それどころかスーツケースに手を伸ばしてくる菊田に、律は困った様に返した。スーツーケースを遠ざけられてしまった菊田は、肩をすくめて見せる。
「なんか美味いもん食って来たか?」
「え?」
「月島に奢って貰ったんだろ?」
「あぁ、はい。ホテルの近くにあった喫茶店が素敵だったので、そこで。」
頬を緩める律をちらりと見た菊田は、またすぐに前を向いた。
「そうか。」
面白くない。嬉しそうな彼女を見るのがではない。それが月島によるものだというのが、面白くない。
出張から戻って来た二人はなんだか距離が近く見えた。微笑み合う様子は、彼らだけの時間を共有しているかの様で。なんなら冗談を言い合い、声を上げて笑っていたような気もする。いい大人が不貞腐れるような事などしたくはないが、焦燥感が芽生えたのは事実だった。月島は分かりづらい男だが、しかし彼女を憎からず思っているだろうことには気付いている。もしもこの出張中、月島が何か行動を起こしていたら。二人の間に距離を詰める何かが起こっていたら。月島に彼女を守るよう言いつけたのは自分だが、そうせざるを得ない状況ではあったのだが、それでは奴をけしかけてしまったようなものでは———。
「菊田さんっ」
ぐるぐると思考を巡らせていた菊田は、気づけば律に支えられていた。どうやら身体が傾き、前のめりに倒れそうになっていたらしい。
「菊田さん、熱上がってるんじゃ・・・。」
自分よりも随分と大きな身体をなんとか支えている彼女は、その額へと手を伸ばす。心配そうな目で見つめてくる彼女にもたれ、菊田はただ見つめ返すしかできずにいる。優しく遠慮がちに額に触れる手が心地良くて、つい目を閉じた。
「熱い・・・やっぱり無理してたんじゃないですか。タクシー呼びますから。」
困ったような、少し怒ったような声で言う彼女に、菊田は「悪い」と呟いた。意識が朦朧としてくる。つまらないことを考えていたせいで余計に熱が上がったのだろうか、などと結局つまらない事を考えながら、彼女の呼んだタクシーに押し込まれる。
「面倒見てくれるの?」
後から乗り込んで来る彼女に、菊田は笑って言う。しかし呼吸は浅く、身体は脱力している。
「もう、住所言えますか?」
菊田が住所を口にすると、タクシーが走り出す。タクシーに揺られながら、ぼんやりとする意識は沈んでゆく。「伝染したくないな」と呟く彼の瞼は既に閉じている。
苦しそうな呼吸を繰り返す菊田に、律は眉を下げその様子を見守った。
「歩けますか?」
目を閉じ窓にもたれていた菊田は、律の声に瞼を持ち上げた。どうやら自宅マンションに着いたようで、いつの間にかタクシーは停車している。
「あぁ、悪いな。」
運賃を確認しようとモニターに目をやるが、既に支払いは済まされていた。
「支払い・・・」
「いいから」
困ったように彼女を見るが、一蹴されてしまい腕を取られる。腕を引かれるままにタクシーを降りると、トランクから彼女のスーツケースを下ろしていた運転手は「お大事に」と頭を下げてから車に乗り込み、そして走り去っていった。
ふらつく菊田は律に支えられながらマンションに入り、エレベーターへと乗り込む。
「カッコ悪りぃな。」
「そんな事ないです。」
「・・・そう?」
エレベーター内の壁にもたれながら、菊田は小さく笑った。心配そうにこちらを見つつもつられて笑う彼女に、キスがしたい、と思う。しかし風邪を伝染す訳にもいかないしなと、ぼんやりした頭で思い留まる。
エレベーターを降り一番端の部屋の前まで来ると、覚束ない手で鍵を開けた。扉が開いたのを確認すると、律は扉を支えておいてやり、菊田を中へと誘導する。
彼が玄関に入ったのを確認すると、律はスーツケースを玄関に置き、すぐ戻ると告げて出ていってしまった。
「・・・夢かな。」
彼女はまたここに戻って来ると言っただろうか。菊田はぼぉっとしつつも辛うじて手洗いだけ済ませると、ふらつく足でなんとか寝室まで辿り着く。スーツを脱ぎ捨てグレーのスウェットに着替えると、ベッドに倒れ込むようにして身を沈めた。
寒い。身体が震えている。こりゃまだ上がるなと思いつつも、熱を測るような気力もない。
朦朧とする意識の中、浮かぶのは彼女の顔。あの時、同じように熱を出した時、世話を焼いてくれた彼女は心配そうに眉を下げていた。水を張った桶から取り出した手拭いを絞り、額に乗せてくれた。その白く華奢な手はひやりと心地良く、指先を絡めて眠りについた。辛い時に彼女が傍に居てくれる。それだけで安らいだ。
「菊田さん。」
「律・・・。」
彼女の優しい声色で名前を呼ばれ、その手を取る。あぁ、これだ。ずっと求めていた。そのしなやかな指先に自身の指を絡めれば、苦痛が和らいでゆく。また迷惑をかけてしまったなと思いつつ、引き寄せた彼女の指先に唇を寄せた。
その手の柔らかな感触と、彼女の仄甘い香りとに包まれながら、菊田の意識は沈んでいった。