微熱/菊田
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「えっ、明日ですか?」
出勤してきた律は素っ頓狂な声を上げた。目の前の月島は至極真面目な、そして困った様な顔で彼女と相対している。
「急で悪いんだが、杉元が熱を出したらしくてな。」
「わ、私で務まりますかそれ・・・。」
その内容はどうやら熱を出してしまった杉元の代わりに、明日、月島と共に出張へ行ってくれないかといったものだった。月島と杉元は同じ企画を担当しており、今回取引先への出張でプレゼンを行うと言う。そして時々、杉元の相談に乗っていた律に白羽の矢が立ったと言う訳だ。
「サポートしてくれるだけでいい。頼む。」
困り果てた顔で言う月島に、律はふぅと息を吐く。
「しょうがないな、美味しいもの奢って下さいよ。」
悪戯っぽく言う律に、月島は頬を緩めると同時にほっとした表情を見せた。
「あぁ、期待しとけ。」
「プレゼンの資料貰えますか?」
「悪いな、すぐデータを送る。先方からの質問には俺が答えるから緊張しなくていい。」
「足手纏いにならない様尽力します。」
「ということですので、二日ほど佐倉をお借りします。」
唐突に自身の後方へ向けて言う月島に、律はその視線を辿る。その先には苦い顔をした菊田の姿があった。
「決定事項かよ。」
「菊田さんにお願いしても良いんですが、上二人が不在だと色々と不都合でしょう。」
「そりゃあ・・・良いのか佐倉。」
頭を掻きながら言う菊田は、律を窺い見る。
「あくまでサポートですし、なんとかなるかと。菊田さんにはご迷惑をおかけしますが・・・。」
「いや、こっちは気にしなくていい。悪いな。」
「いえ、ありがとうございます。なるべく今日中にやれる事はやって行きますので。」
眉を下げる菊田に、律はにこりと笑って返した。
「じゃあ、悪いが頼むな。」
「はい。」
律に声を掛けデスクへと戻って行く月島を見送ると、同じく戻ろうとする彼女を菊田が引き留める。
「こっちは本当に気にしなくていいから、無理すんなよ。」
「ありがとうございます。」
未だ眉を下げている菊田に、律もつられて眉を下げ微笑んだ。
*
就業時間を二時間程過ぎた頃。オフィスには菊田と律の二人のみが残っている。
菊田はパソコンのモニターから顔を上げると、自席で難しい顔をしている律へと視線を遣る。帰り支度を済ませた月島に「無理するな」とか「心配するな」だとか声を掛けられた彼女が、もう直ぐ帰りますと笑顔で返したのは一時間程前だったか。案の定明日のプレゼン用資料と睨み合っている彼女に、菊田はハァと溜め息を吐いた。
「サポートでいいんだろ。もう帰って早く休め。」
見かねた菊田は席を立ち律の傍まで来ると、その手元の資料を覗き込みながら声を掛ける。はっとして顔を上げた彼女は壁の時計に目をやると、「もうこんな時間」と呟いた。
「そうですね、月島さんだから心配はないんですけど、つい。」
伸びをしながら言う彼女は、漸く帰り支度を始める。その時、デスクに置いてあった彼女のスマートフォンの画面が明るくなり、表示されたメッセージ通知に"佐一"という字が浮かび上がった。
「あ、杉元くんだ。」
律はスマートフォンを手に取りメッセージを確認すると、「まだ熱あるみたいです。」と菊田に画面を向けて見せる。そこには"律さんごめん"といったメッセージと共に、可愛らしいクマのキャラクターが大袈裟に泣き喚いているスタンプが添えられていた。
一瞬、通知に心臓が跳ね上がった。しかし堂々とメッセージのやり取りを見せてくる彼女に、菊田はほっと胸を撫で下ろす。
「杉元もお前も災難だな。」
「杉元くんでも風邪引くんですね。」
くすりと笑って言う彼女に、菊田もつられて笑った。
「さて、お見舞いに行くかな。」
「・・・は?」
しかしその言葉に、菊田は動きを止める。
お見舞いと言えば病人を見舞うと言うことで、それは病人の元を訪ねると言うことで、その病人というのは今回杉元のことを指していて、と言うことは一人暮らしの男の家を訪ねると言うことで・・・?
菊田が頭の中でぐるぐると分かりきったことを反芻している間にも、律は身支度を整え立ち上がった。
「それじゃあ、お先に失礼します。出張中、何かあればメールで———」
「待て。」
言いながら立ち去ろうとする律の言葉を遮る菊田に、彼女は首を傾げる。
「見舞いには俺が行っとくから、お前は早く休め。」
「え、でも私、家近いので・・・。」
「駄目だ。」
きっぱりと言い切る菊田に、律は思わず口を噤んだ。菊田は一歩前へ出ると、神妙な面持ちで彼女の顔を覗き込む。
「単身の男の家に行くってのが、どういうことか分かってんのか。」
「そ、れは、」
真っ直ぐに目を見据えられ、律はその訴えかける様な瞳から目を逸らせずにいる。
「食べられそうな物を、ドアノブに掛けるだけのつもりで・・・。」
「甘いな。」
その低く諭すような声色に、律はぞくりとする。
「う、」
「ん?」
言い淀む律に続きを促す菊田の目は、どこか挑発的で。
「ちょ、菊田さん、」
「何?」
「私には、その、刺激が強すぎます・・・。」
目を逸らして言う律に、菊田は一瞬きょとんとする。しかしそれが自身に向けられた羞恥心の様なものだと理解すれば、つい口角の上がってしまった口元を手で覆い隠した。彼女の顔を覗き込んでいた姿勢を正すと、口元を押さえたまま横を向く。
「あー、すまん、近かったな。」
「あ、いえ・・・はい・・・。」
横を向き目を伏せる律は、指先を髪にやり、耳に掛けた。露わになったその耳は、仄かに紅く染まっている。ついその仕草とその
「・・・兎に角、見舞いには俺が行く。いいな?」
「・・・はい。」
眉を下げ頷く彼女に本当に解ったのかと問い詰めたくなった菊田だが、取り敢えずは良しとすることにした。
「じゃあ、お見舞いの買い出しはご一緒します。」
「あぁ、そうだな。頼む。」
菊田が帰り支度を済ませると、二人は並んで会社を出た。会社の最寄駅から電車に乗り込むが、車内は帰宅ラッシュで混雑している。菊田は律を扉横のスペースへ誘導すると、その横の壁に肘下をつき、覆い被さるようにして人混みから庇った。
律の顔は菊田の胸元の高さにある。ちらりと目線を上げれば、菊田の喉元が目に入る。血管の浮き出た首元から、人の圧に押されながらも、自身に触れぬよう耐えているのだと分かった。
「大丈夫か?」
菊田の気遣うような声は、しかし同時に、力んでいるせいか少し苦しそうで。その色気に目眩を起こしそうになりながら、律は「大丈夫です」と呟くように答えるのが精一杯だった。
杉元の住む場所は律の家と最寄りが同じであり、会社から電車で数駅先にある。菊田の家は丁度反対方面で、同じ電車に乗っている事が新鮮に思える。
漸く混雑した電車から解放されると、二人はスーパーに寄り、粥のパックやスポーツ飲料やらを買い込んだ。
買い物かごも持たせて貰えず、会計も出させて貰えなかった律は、申し訳なさそうにしている。
「すみません、ついて来ただけになってしまって・・・。」
「いいや、便乗したのは俺の方だしな。」
にこりと笑って言う菊田は、手提げ鞄を持っているのとは逆の手にスーパーの袋を提げている。なんだか家庭的な部分が垣間見えたようで、律はつい口元を綻ばせた。
「じゃあ、お見舞い、お願いします。」
「あ、ちょっと待て。」
礼を言って去ろうとする律を呼び止めた菊田は、鞄とスーパーの袋とを同じ手に持ち替えると、コートのポケットを探り出した。中からスマートフォンを取り出すと、彼女に掲げて見せる。
「出張中、何かあった時の為に連絡先交換しとかないか。社内メールだとチェック面倒だろ。」
嫌じゃなければと付け加える菊田に、律は二つ返事で答えた。主流のメッセージアプリで連絡先を交換するべく、QRコードを読み取る為に互いのスマートフォンを重ね合う。それぞれの画面に互いのアイコンが表示されるまでの間、二人は画面に視線を落としつつも、意識は互いに向いていた。
「綺麗ですね。」
初めて見る菊田のアイコンは、夕焼け色に染まった空だった。燃えるような朱い夕焼けに、律は目を細める。
「あぁ、ベランダから撮ったやつな。」
言いながら、菊田は彼女のアイコンに設定されているラテアートを見つめて頬を緩めた。
「空が広く見えるお家なんですね。いいなぁ。」
「そう言われればそうだな。」
"見に来るか"などという無粋な言葉は飲み込んで、菊田はスマートフォンをポケットに仕舞い直す。
「じゃあ、出張頑張れよ。」
「はい、ありがとうございます。」
二人はスーパーの前で別れると、別の方向へと歩き出した。
それぞれ暫く歩いたところでスマートフォンを開き、互いのアイコンを眺める。遂にプライベートでの連絡手段を得てしまったと思いながら。勿論、相手も今まさに自分のアイコンを眺めているという事実を、二人は知らない。