微熱/菊田
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「悪い、待たせた。行こうか。」
「いえ。」
喫煙所から戻った菊田は、既に身支度を整え終えていた律に声を掛けた。彼女はにこりと笑うと、デスクから立ち上がる。
「あぁ、今日はこっち。」
社用車のキーを取りに行こうとする律に、菊田は自身の鞄から自家用車のキーを取り出して見せた。片目を瞑って見せる彼に、律は目を丸くする。
「菊田さん、最初から直帰のつもりだったんですね。」
右の口角を上げたかと思えば先を行く菊田の背中を追いながら、律は「抜かりない・・・」と呟いた。
菊田の車は会社の地下駐車場に停めてあった。車についての知識に乏しい律だが、黒く大きなそれは菊田らしいと思う。綺麗に磨かれた車体を眺めていると、助手席のドアを開いた菊田に「どうぞ」と促された。
「煙草臭かったらすまん。換気はしたんだが。」
運転席に乗り込みながら言う菊田に、換気までしていてくれたのかと律は驚いた。ボディ同様、車内も綺麗に磨かれている。薄らと煙草の香りが残ってはいるが、変に香り付けもされておらずあまり気にならない。それに菊田の煙草の香りだと思えば、寧ろ少し嬉しくすらあった。
「大丈夫です。寧ろ吸っていただいても。」
菊田はふわりと目を細めると「会議前だからな」と煙草には火を点けず、代わりにラジオをつけてからゆっくりと車を発進させる。
座り心地の良いシートに、薄らと聞こえて来る春の曲。心地よさを感じながらちらりと隣を盗み見れば、ハンドルを握るごつごつと逞しい手に、堀の深い端正な横顔が直ぐそこにある。そしてその喉仏に異性を感じてしまい、律はあわてて目を逸らした。
*
「思いの外早く終わったな。」
「何事も無くて良かったですね。」
先方との会議は案外すんなりと終わり、律と菊田はまた車へと乗り込んだ。ふぅと運転席のシートにもたれた菊田は前髪を掻き上げ、いつも整髪料でしっかりと撫で付けられている髪が解れる。額に掛かる前髪にどきりと心臓が跳ねる。心臓に良くないなと思いつつ、律も小さく息を吐いた。滞りなく終わったとは言え、やはり他社との会議は疲れる。その様子を見ていた菊田は、「お疲れ」と頬を緩めた。
「さ、帰るか。どこか寄る所あるか?」
「いえ、特には。」
「じゃあ送るよ。」
菊田が言いながらエンジンをかけると、また小さくラジオが流れ出す。
「いいんですか。」
「嫌じゃなければ家までお送りしますよ。」
「ふふ、嫌だなんて。ありがとうございます。」
可笑しそうに笑う律につられて笑いながら、彼女の言う住所をナビへ入れると、菊田は車を発進させた。
日が長くなったのと、いつもの退勤時間より随分と早いのとで外はまだ明るい。菊田によって少し下ろされた窓からは、ややぬるい風が吹き込んでくる。
「天気いいな。」
「暖かいですね。」
気持ち良さそうに目を細めて窓の外を見ている律の、さらりとした髪を風が揺らしている。走る車の助手席側には河川敷が広がっており、土手を緑が彩っている。加えてラジオから流れるボサノバと、暖かな陽光と。なんとも心地の良い空間に、二人の頬は自然と緩む。
「あ。」
唐突な律の声に、菊田はちらりと視線をやる。
「桜か。」
「早咲きですね。」
「もうそんな時期なんだな。」
「あっという間ですね。」
河川敷に並ぶ木々には濃いピンクの花が咲き乱れ、枝は重そうに
「ちょっと寄るか。」
丁度信号待ちのタイミングで言えば、桜を眺めていた律が振り返る。驚きと嬉しさのない交ぜになったような表情に、つい菊田の目尻が下がった。
土手を降りたところに適当な場所を見つけて駐車すると、二人は車を降りる。遠くに人影が見えるのみで、周囲には二人以外誰も居ない。車にもたれた菊田は煙草に火を点け、すぐ傍にある桜の木を見上げた。
「満開ですね。」
「そうだな。」
菊田は枝垂れる枝に手を添えている律へと視線を下ろす。その様子はまるで、彼女に桜の花が降り注いでいるようで。胸がきゅっと締め付けられるような感覚がし、しかし目を逸らせずにいる。ふと振り返った律は菊田の視線に気づくと、照れ臭そうに目を逸らした。
「珈琲でも買ってくれば良かったな。」
「本当ですね。」
見ていた事を誤魔化すように言えば、律はそれを知ってか知らずか、はにかんで答える。
初春の幾分か柔らかくなった風が、二人を優しく撫でていった。
*
その夜、律はまたあの夢を見た。
相変わらず後ろを向いたままのその人は、しかしほんの少しだけ、振り返ろうとしているように見えた。そしていつもの様に消えてしまう際、霞に紛れてひとひら、桜の花弁が舞い上がった。
翌朝目を覚ました律は、あの夢に変化があった事に驚いた。子供の頃から今まで、変化などなかったのに。もしかすると今後、あの人は振り向いてくれるのかもしれないと期待が膨らむ。そして嫌に印象的だった花弁に、ふと昨日の事を思い出した。
菊田と二人で桜を見た後、彼が煙草を吸い終えたタイミングで帰路へ着いた。マンションの前まで送ってくれた菊田は、去り際に車の窓を下ろしてこちらを真っ直ぐ見据え、「じゃあ、また明日。」と微笑んだ。一晩明けた今でも、風にそよぐ崩れた前髪が、スローモーションのように脳内再生される。柔らかく細められた目に見つめられた事を思い出し、心音が僅かに早くなる。
菊田との花見が余程嬉しかったのだろうかと、律は夢に出てきた花弁に思った。