微熱/菊田
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「律さん、飯行こ。」
「もうそんな時間かぁ。」
杉元に倣って伸びをしながら壁に掛かっている時計を確認すると、丁度正午を指していた。
「お店ってどこなの?」
「五分くらい歩いたところにある、"猫の目"って古い喫茶店。」
「へぇ、喫茶店なんだ。」
声色明るく目を輝かせる律に、杉元は「気に入ると思うよ」と笑って見せる。財布とスマートフォンだけ持って二人がオフィスを出ようとすると、そこへやってきた菊田が杉元を呼び止めた。
「ノラ坊、残念ながら飯は後だ。」
「えっ。」
菊田が顎でさした方を見ると、月島が何やら電話対応している。因みに"ノラ坊"と言うのは、杉元の入社当時に研修担当だった菊田がつけたあだ名らしかった。他に彼をそう呼ぶ人を、律は今のところ見たことがない。
「お前らの担当してるお得意先からっぽいぞ。」
菊田はぽんと杉元の肩に手を置くと、「クレームじゃないらしいから安心しな。」と声を掛けた。電話を終えたらしい月島は、案の定杉元を呼んでいる。
「うぅ、デザートが・・・。」
「また今度行こ。」
「はい・・・。」
泣く泣く月島の方へと向かう杉元を見送ると、律は菊田と二人、その場に取り残された。
「デートの予定だったのか。」
「違います。」
じとっと睨んで言えばくつくつと笑う菊田に、律は内心ほっとする。普通に接してくれるということは、今朝の不安は杞憂だったのだろうかと。
「じゃ、行くか。」
「え?」
「飯。」
「えっ・・・。」
この頃めっきり食事に誘われることなど無くなっていた為、つい驚いてしまった。なんなら今朝は怒らせてしまったのかとすら思っていたのに。しかし当の本人は、目の前で微笑んでいる。
「嫌か?」
「そんな、嫌じゃ無いです。」
満足そうに笑って歩き出した菊田に、律は慌ててついて行く。
「どこ行こうとしてたんだ?」
「えっと、"猫の目"って喫茶店らしいです。」
「じゃあそこ行くか。」
スマートフォンで店の場所を確認している菊田を横目に、律は心の中で杉元に謝りつつ、なんとか心臓を落ち着けようと必死だった。
*
"猫の目"は会社から五分程歩いたところにあったが、随分と入り組んだ場所だった。どうりで知らなかった訳だと思うと同時に、律は杉元のサーチ力に感心する。
「洒落てんな。」
古びた木製の扉には正方形の小窓が施されており、ステンドグラスが嵌め込まれている。菊田が扉を開くと、カランコロンと温かく落ち着いた音色が響いた。薄暗い店内は、しかしステンドグラス越しに差し込む色とりどりの陽光と、ふんだんにあしらわれている木材によって温もりに包まれている。客は常連と思われる老年の二人のみで、どちらも余生をのんびりと満喫している様に伺える。店員らしい老婆に案内された二人は、壁に嵌め込まれた様なテーブル席へと着いた。
「なんだか隠れ家みたいですね。」
「そうだな。」
壁と一体化しているベンチはソファの様になっており、思いの外座り心地が良い。スペースも十分にあり、体躯も背丈もある菊田でも、窮屈にならずに済んでいる様だった。そんな事を思いながら菊田を盗み見ていた事がばれてしまった様で、菊田は目を細め、「ん?」と口角を上げた。
「いえ。」
律はなるべく自然にとメニューを見るふりをして、菊田から目を逸らした。こんな風に、菊田とプライベートな関わりを持つのはいつぶりだろうか。かれこれ半年以上は無かったように思う。常に優しく頼れる上司ではあったが、異動当初の二、三ヶ月を除いて、仕事以外での関わりは殆どなかった。自ら誘えば、食事に行くこともあったのかもしれない。しかしいつも誘ってくれるのは菊田だったし、それが無くなったからと誘うのも違う気がした。
「決まった?」
一つのメニューを二人で覗いている為、すぐ傍で低く心地良い声がする。
「はい。菊田さんは?」
「決まった。」
先程の老婆にそれぞれランチセットを注文し終えると、二人とも何となく手持ち無沙汰で、運ばれてきた水に口をつけた。
「体調はどうだ?」
「あぁ、いえ、何ともないです。ご心配をおかけしてすみません。」
「それなら良かった。」
「それで誘って下さったんですね。」
穏やかに笑って言う律に、菊田の表情がやや曇る。
「いや、それもあるが・・・。」
困ったように言い淀む菊田に、律は首を傾げる。今朝の違和感はやはり間違いではなかったようで、じわじわと不安が押し寄せてくる。不安気な表情で伺ってくる律に、菊田は漸く口を開いた。
「暫く飯行けてなかったろ。」
「・・・え、」
拍子抜けしたような顔で見つめてくる律に、菊田は緩やかに口角を上げる。
「たまにはいいだろ。」
「・・・距離を置かれてるのかと思ってました。」
律は意を決して、しかしあまり本気と捉えられぬように、なるべく軽い口調で笑って言った。菊田はすっと目を細めたかと思えば、テーブルに両肘をつき、口元を隠すように指を組む。
「なんで?」
菊田は組んだ指で口元を隠したまま、上目遣いに律を見つめた。
「・・・違うんですか?」
律がそう言ったのと同時に、二人分のランチセットが運ばれて来る。全ての皿がテーブルの上に並ぶまで、二人は静かにそれを見守った。老婆が去っていくと、菊田が口を開く。
「こうして一緒に飯食ってるのに?」
「暫くなかったから・・・。」
「しつこいのは嫌だろ。」
「しつこくなんか。」
「佐倉は全然誘ってくれないしなぁ。」
「それは、嫌だったらと思って・・・。」
言ってしまってから、失言だったと思った。おずおずと伺う様に菊田を見れば、案の定困った様な顔をしている。かと思えば彼はやはり困った顔で、ふっと表情を緩めて笑った。
「嫌じゃないよ。」
もう一度反芻するように「嫌じゃないよ」と呟いた菊田は、「食べようか」とネクタイの先を胸ポケットに仕舞い、生姜焼き定食に手を伸ばした。
律も「いただきます」とホットサンドに手を伸ばしながら、心臓はどくどくと脈打っている。「嫌じゃないよ」と言った彼の声色は嫌に静かで、しかしその目はこちらをじっと見据え、僅かに熱が帯びていた。異動当初から、こういう視線を時折感じていた。単なる思い違いかもしれないが、それでも彼を意識してしまうには充分だった。久しぶりに浴びたその視線に心を揺さぶられながら、律はホットサンドを口へ運ぶ。
「美味しい?」
いつの間にかこちらを見ていたらしい菊田は、柔らかく目尻を下げて言う。食事風景を見られるのはやはり恥ずかしくて、しかし自らも、彼の形の良い唇に生姜焼きが運ばれる様を盗み見ていた事もあり、律はそれを非難することが出来ずにいる。
「美味しいです。とても。」
目を細めて微笑んだ菊田は、また定食へと視線を戻した。その微笑みに、じんわりと胸が温かくなるのを感じる。心を乱されつつもどこか心地良い彼との空間に、律の顔はいつしか