微熱/菊田
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「おはようございます。」
「あれ、早いな。」
「目が覚めてしまって。」
律が始業30分前頃にオフィスに着くと、そこには菊田一人だった。彼は既にパソコンを立ち上げ、メールのチェックをしているらしい。
「珈琲淹れましょうか。」
「頼めるか?」
デスクに荷物を置きながら言う律に、菊田は顔を上げ、頬を緩めた。
律は給湯室で珈琲を淹れながら、先程の菊田の顔を思い出す。優しく下がった目尻に、僅かに上がった口角。目と目は確かに合っていた。何でもない微笑み。只の部下に対するもの。しかしそれは律の胸をじんわりと熱くし、鼓動を速くする。
この部署へ移動してきて一年が経とうとしている。異動当初の方が、もっと距離が近かったように思う。菊田は不慣れな律に積極的に話し掛け、よく相談に乗ってくれた。時折ランチや飲みにも連れていってくれる彼を、面倒見の良い上司だと思った。そこには口説かれているのかと錯覚するような場面も幾つかあって、気付けば菊田の事で頭がいっぱいだった。それがいつしか、必要最低限しか関わらなくなってしまった。何かしてしまったのだろうかと不安になり、こちらから声を掛けてもさらりと
珈琲の仄甘く香ばしい香りが鼻腔を
「どうぞ。」
「悪いな、ありがとう。」
珈琲をデスクに置けばやはり小さく微笑んで言う菊田は、またすぐにパソコンの画面へと視線を戻してしまった。何ら問題のないやり取りの筈。それ以上を望んでしまう自分が強欲なのだろうと、律は漸く飲み込めるようになってきた。確かに当初ならもっと会話のラリーがあった。しかし部署にもいい加減慣れてきた部下が、手を離れたというだけの事なのだろう。
「いえ。」
律が小さく微笑み返して自分のデスクへ戻ろうとすると、「おい」と菊田の声に呼び止められた。その訝しげな声色にどきりとして振り返ると、やはり眉を顰めた彼に見つめられている。
「はい・・・?」
菊田は椅子から立ち上がると一歩近づき、律の顔を覗き込んだ。訝しげな表情の彼に探るような目で見据えられ、律は呼吸を忘れそうになる。
「熱でもあるんじゃねぇか?」
「え、」
額に触れようと伸びてきた菊田の手を、律はついやんわりと退けた。
「だ、大丈夫です。」
どくどくと心臓が脈打っている。彼に触れられてしまったら、想いが溢れ、それこそ発熱してしまいそうだった。しかしふと菊田の表情が曇ったように見え、失礼にあたってしまっただろうかと不安になる。
「あぁ、悪い・・・ぼーっとして見えるが、本当に大丈夫か?」
いつ、自分のことを見ていたのだろうか。あまり目が合わない筈なのに。あの一瞬でそう思ったのだろうか。どことなく怒りが滲んでいるような表情の菊田に顔を覗き込まれ、律はつい視線を逸らした。
「無いと思いますけど———。」
「セクハラですか。」
消え入るような律の声に、別の声が被さって聞こえる。律と菊田が声の方へと顔を向けると、出社してきた月島がそこに居た。
「違えよ。熱あんじゃねぇかって話してたんだよ。」
菊田の身体が少し離れた事に、律はほっとする。
「は?熱ですか?」
「いえ、大丈夫です。」
デスクに荷物を置いていた月島は律の方へ近寄ると、先程の菊田同様、その顔を覗き込んだ。あまりの近さに目を丸くする律は、菊田の眉間に皺が寄ったのには気づかないでいる。
「確かに疲れてるような気はするな・・・無理はするなよ。」
「あ、はい。ありがとうございます。」
戻ってゆく月島を見送ると、まだすぐ傍に立っていた菊田と目が合った。やはりどこか怒っているように眉間に寄せられた皺に、律はぞくりとする。しかしそれはほんの一瞬で、気づけば菊田は眉を下げ、心配そうな顔で此方を見ていた。
「何かあれば遠慮なく言えよ。」
「ご心配をおかけしてしまってすみません。ありがとうございます。」
律は小さく笑みを残し、自分のデスクへと戻ってゆく。パソコンが立ち上がるのを珈琲に口をつけて待ちながら、小さく深呼吸をした。思いもよらず菊田に詰め寄られた事による、動揺を落ち着けるように。
熱があるのではと思わせた原因に、律は心当たりがあった。あの夢を見た日はどうしても、あのもやもやとした、そして焦がれる様な感情を、気付かぬうちに引き摺ってしまうらしい。今までもあの夢を見た日は、そういった指摘をされる事がちらほらあった。それはまるで微熱の様に、じわじわと思考を犯しているようで。しかし今はそんなことよりも、菊田のあの怒ったような顔が頭から離れないでいる。嫌われるまではいっていないと思うが、やはり何か気に触る事でもしてしまったのだろうかと、ぐるぐると思考を止められずにいる。
「律さん、おはよー。」
「わっ、びっくりした。おはよう。」
唐突に肩に置かれた手に、律はびくりと身体を揺らした。当の杉元は隣のデスクに腰掛けながら、人差し指でとんとんと自身の眉間を叩いてみせる。
「なんかあった?」
「皺寄ってた?」
「うん、寄ってた。困り事?」
「ううん、変な夢見ちゃっただけ。」
「夢?」
立ち上がったパソコンでメールボックスを開きながら言う律に、杉元は興味津々といった風に身を乗り出した。
「昔から見る夢なんだけど、誰かが後ろを向いて立ってるだけの夢。振り返って欲しいのに、そのままスッと消えちゃうの。その夢を見た日はなんだかもやもやを引き摺っちゃうみたい。そんなつもりはないんだけど。」
「・・・それって男?」
「殆ど見えないんだけど、多分ね。」
「ふーん、夢占いとか調べてみた?」
「夢占い?調べたことないかも。」
発想が杉元らしいと思いつつそちらを見ると、彼は既にスマートフォンで夢について調べている様だった。
「失う不安、消したい願望、問題解決、愛着、信頼などの象徴・・・だってさ。」
「ふーん。」
画面を見せながら言う杉元に、律はそれを覗き込む。
「その男に心当たりないの?」
「全く。子供の頃から見る夢だしね。」
「運命の人だったりしてぇ〜。」
「運命ねぇ。」
乙女のように両頬を抑えて言う杉元に、律はつい笑った。杉元もつられて笑いながらパソコンの電源を入れる。
「あ、そう言えば、デザートが美味しいお店見つけたんだよね〜。今日ランチ行こうよ。」
杉元の明るさに少し救われた律は、菊田の事をうだうだ考えるのを止めようと、気持ちを切り替える事にした。