刹那/菊田
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「仕事を探そうと思うんです。」
菊田と律は定食屋で食事を取っている。律は唐突に話を切り出した。
明治の時代に飛ばされて来てたったの数時間で、彼女は現実を受け入れ、前を向き始めている。彼女は案外強かなのだと菊田は気付かされ、驚いた。
「まだ混乱してるだろ。無理しなくて良いんだぞ。」
菊田はなるべく優しく言うが、その意思は固いらしく律は首を振る。
「貴方の許可さえ降りれば、直ぐにでも働きたいんです。お世話になりっぱなしでは心が落ち着きません。」
「・・・そうか。俺は良いんだけどな。」
その真っ直ぐな瞳に、菊田は呟くように答える。この時代での暮らしを教え込んでいる間、いや、もしかすると菊田が買い物に出かけた一時間の間に、彼女は決意を固めたのだろう。
確かに菊田にしか頼ることのできない状況は良くないだろう。自分の足で立とうとする律には好感が持てる。
菊田は心配に思いながらも渋々了承する。律はほっとした表情を見せると、早速定食屋の女将に声を掛けた。
「私をここで働かせて頂けないでしょうか。何分世間知らずなものでご迷惑をおかけするかと思いますが、何でも真面目にこなしますので。」
成程そういう設定かと、菊田は感心する。この短時間でそこまで考えていたのかと。
器量良し、人当たり良しの律に、これまた人の良さそうな初老の女将はあっさりと首を縦に振った。"世間知らず"という言葉に、勝手に事情を察してくれたのだろう。
「軍人さんに面倒を見て貰ってるのかい?」
女将は菊田の方を見て言う。
「えぇ、まぁ。どうぞ宜しく頼みます。」
「あらあら。」
菊田が答えると、何やらまた勝手に事情を察した風に、女将は口元に手を当て目尻を下げた。
菊田と律はそれに何も言わず、ただ笑顔を返した。
「ご馳走様でした。」
二人は定食屋を出ると、並んで歩き出す。
申し訳なさそうに言う律に、菊田は「どういたしまして。」と目尻を下げた。
「仕事の件、随分と性急だったな。」
「あのお店に入った時、ここだと思ったので。人も足りて無さそうだし、女将も優しそうでしたから。」
「ご飯も美味しかったですし。」と付け加えて笑った律は、しっかりと背筋を伸ばしている。初めは縮こまって怯えていた彼女は、本来こう言う人間なのだなと菊田は思った。
「何かあったら言えよ。」
「ありがとうございます。本当に。」
眉を下げて微笑む律と目が合う。菊田はにこりと笑うと、彼女から目を逸らした。存外人を真っ直ぐに見つめる彼女に、菊田は心が落ち着かなかった。
家に着いて支度をすると、菊田は律を銭湯に連れて行った。男湯と女湯に分かれると、銭湯の前で待ち合わせる。
「すみません、お待たせしました。」
菊田が外で待っていると、少し遅れて律が出てきた。菊田の用意した浴衣を身に纏った律の髪は濡れており、その肌はやや上気している。
「俺も今出たところだ。行こうか。」
精神衛生上良くないなと思いつつ、律から目を背けた菊田は歩き出す。律は菊田が揃えた風呂道具を両手に抱えて歩く。それを横目で見ると、菊田は目を細めた。
二人は家に着くと、一息ついた。
菊田がいない間に律が多少は掃除したようで、部屋は住める程度には綺麗になっている。
律が生活用品を片付けている間、菊田は火鉢に火を入れた。
「じゃあ、俺はそろそろ行くな。明日の昼前にはまた来る。」
「・・・はい。」
律の声はどこか元気がないように思えたが、これ以上ここにいるのは男として危険だった。菊田が玄関に降りると、律も傍までやってくる。
「ここまできてほっぽり出したりしないから安心しな。」
菊田は引き戸を開けると振り返り、律の頭に掌を置いた。俯いていた彼女が顔を上げると、その瞳は僅かに潤み揺らいでいる。ひた隠そうとしてはいるが、必死に涙を堪えるその表情に、菊田は頭を抱えたくなった。
「・・・流石に心細いか。」
律はまた俯くと、「すみません、大丈夫です。」と呟いた。
「残ろうか。」
つい口をついて出た言葉に、菊田はしまったと思った。しかし勢いよく顔を上げ縋るように見てくる律に、菊田はその言葉を取り下げることができなかった。
「眠れそうか?」
「眠ります。」
菊田は布団を敷いてやると、律をそこに寝かせる。自分は隊服の上着を脱ぐと、一組しかない布団に仕方なく、隣の床に寝そべった。申し訳程度にコートを布団がわりにしようと手繰り寄せる。
「・・・あの、流石に申し訳ないです。」
律はおずおずと布団を持ち上げると、菊田を見た。
「おいおい・・・。」
手の甲で目元を隠す菊田を、律は冷静に見つめる。ここでどうこうなったとしても、それが道理なのだろうと思う。衣食住の世話をして貰っている今、律に出来ることはそのくらいなのだと。寧ろ自分に役割ができれば、菊田が自分を世話する理由にもなるとすら思う。そのくらいの覚悟を持たなければ、この時代ではやっていけないだろう。
一向に布団を持ち上げる手を下ろさない律に、菊田は溜息を吐くと、おずおずとその布団へと入り込んだ。
「我儘を言ってすみません。」
「本当にな。」
向き合うようにして布団に入る二人は、菊田の頭がひとつ上にある事で、互いの顔を見ずに済む。
「寝ろよ。」
「・・・寝ます。」
触れないようにと腕を縮こめる菊田に、律は拍子抜けする。なんてお人好しな男なのだろう。もしくは全くそう言う目で見られていないのかもしれない。理由はどうあれ、律は手を出されないことにほっとすると同時に、急に不安が込み上げてきた。菊田の体温がその感情を助長させる。
小さく震える律に、菊田はきっと泣いているのだろうと思った。気丈に振る舞ってはいるが、やはり心細くないはずがない。音もなく泣く律を、菊田はそっと抱き締める。一瞬肩を揺らした律だったが、そのうち菊田の胸に顔を
菊田は律が眠るまで、その背中をさすってやった。