刹那/菊田
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「ここだ。」
菊田の大きなコートに身を包んだ律は、足元まですっぽりと覆われ、然程目立たずに街を歩くことができた。物珍しそうに辺りを眺めていたかと思えば、思い出したかの様に青ざめる律を、菊田は面白そうに観察した。
木造の家の立ち並ぶ中に、その家はあった。小さな平家だが、今の律には贅沢すぎる場所だった。
「古い家だが、鍵があって良かったな。」
菊田はここへ来る途中、家主に話をつけて来た。ズボンのポケットから取り出した鍵を使うと、ガラガラと音を立てて引き戸を開ける。中を一通り覗くと、律を手招きした。
家の中に入ると、幾らか寒さが和らいだ。律は菊田にコートを差し出す。
「これ、ありがとうございました。冷えてしまいましたよね、すみません・・・。」
「あぁ、どういたしまして。俺は鍛えてるんでね。」
確かにがたいのいい菊田に、律は少し笑った。そんな顔もできるのかと思った菊田だが、まだもう少し距離を詰めるのはやめておこうと、その言葉を飲み込んだ。
「色々必要になるな。先ずは着るものと、布団かな。ちょっと待ってな。」
「あ・・・。」
玄関から出て行こうとする菊田に、律はつい引き止めようと手を伸ばしたが思い止まる。その様子に菊田は目尻を下げると、律の頭にぽんぽんと掌を乗せた。
「大丈夫、すぐ戻って来るよ。」
つい先程まで警戒していたはずの相手に縋ってしまった事と、その大きく温かい掌に、律は顔に熱が集まるのを感じる。
「・・・すみません。」
俯く律に微笑むと、菊田は扉を出て行った。
「・・・やべぇもん拾っちまったな。」
にやける口元を抑えながら、菊田はとりあえずと呉服店へ向かった———。
「戻ったぞ。入っていいか。」
一時間くらいで戻った菊田は、玄関の戸を軽く叩く。声を掛けると、直ぐに中で足音がする。鍵を開ける音がしたと思ったら、ガラガラと引き戸が開いた。思ったよりも近い距離で見上げてくる律の安堵するようなその表情に、菊田はどきりとする。
「取り敢えず着替えだな。」
「ありがとうございます。」
中に入り菊田が着物を渡すと、律は申し訳なさそうに受け取った。菊田は持っていた布団や火鉢やら、買い集めてきたものを床に置く。
「俺は台所にいるから・・・。」
台所のある土間と厠を除けば六畳程しかないその部屋は、女性に着替えをさせるには目隠しが無かった。幸い部屋と台所の間は襖で閉じられるようになっている為、菊田は土間へ降り、襖を閉じようと振り返る。しかしどうも律の様子がおかしい。着物を手に戸惑う律に、男に見られることへの羞恥心かと思っていたが違ったようだ。
「・・・それ、着たことあるか?」
「あるにはあるんですが、着方が・・・。」
「まじか・・・。」
早速難関に差し掛かった。適当な女を呼んできて着替えさせてもいいが、どこかで噂が立っては困る。着物の着方がわからない人間がいるだなんて噂はあっという間に回るだろう。外国人だと偽ってもいいが、それもまた面倒だ。
「・・・襦袢は着れるな?」
浴衣なら着られるという律に、ひとまず襦袢だけ身につけさせる。その後は菊田が着付ける事になった。仕方なく。そう、仕方なくだと、菊田は自分に言い聞かせる。
「これでいいんでしょうか・・・。」
「あぁ・・・。」
女の襦袢姿など初めて見るわけでもないが、菊田は背徳感に苛まれる。その感情をひた隠しながら、菊田は律の首元に襟を掛ける。そして着物を広げると律の背後に周り、袖を通してゆく。
衣擦れの音が嫌に響く。背後からと言うのが何とも言えない。菊田はつい見入ってしまった、俯く彼女の細い首筋から目を逸らした。律の耳が朱に染まっているのには、気づかなかったふりをして。
「こんなもんかな。俺も正直よく分からんから、今度教えて貰えるようにしといてやる。」
「お手を煩わせてすみません・・・ありがとうございます。」
よく分からないと言いつつも、なんやかんやしっかり着付けられている。律は菊田の女関係を想像しかけたが、やめておいた。
「私にはよくわかりませんが、お高いんじゃないですか・・・?」
こういうのをハイカラというのだろう。藍色を基調とした縦縞の着物は、派手でもなく地味でもなく、センスが良い。現代でも人気の高いそのデザインは、安物とは思えなかった。
「そうでもないよ。それにそこそこ稼いでるんでね。」
律が自身の身体を見下ろす様子に、鏡台が必要だなと菊田は思った。
「あの、菊田さんは軍人さん・・・?」
律は菊田の装いにおよそ目処をつけてはいたが、敢えて確認する。
「あぁ、そうだよ。言ってなかったか。今は療養中だけどな。」
「お怪我をされてるんですか?」
この時代にはまだ戦争があるという事に、律は今更気付く。目の前のこの人が傷を負っている事に、胸が締め付けられた。
「もうだいぶ癒えた。そんな顔するな。」
目を伏せる律に、菊田は優しく微笑んだ。
その後は火鉢や台所、厠の使い方と、律は菊田に様々な事を教わった。二人が出会ったのは正午だったが、一通り教わり終えた頃にはすでに日が暮れていた。
「飯でも食いにいくか。」
「何から何まですみません。」
「気にすんなって。お前気付いてないだろうけど、好みの服着せて家に囲ってなんて、良い趣味だろ。」
律はぽかんとしたが、次の瞬間には顔を赤くする。気遣わせない為の軽口だとは分かっているが、どうにも恥ずかしい。その様子に気分をよくした菊田は「ほら、行くぞ。」と笑い、玄関に降りた。
二人は飯屋を探して街に出る。自分の選んだ服を着て隣を歩く律に、菊田はやはり背徳感を覚えながらも、癖になりそうだと恐ろしくなる。
律には自分しか頼る相手がいないのだと思うと、菊田は少しぞくっとした。