刹那/菊田
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暗がりに目が慣れてきた律は、漸く周囲を確認する事ができた。広々とした空間はビールの箱詰め作業を行う場所の様で、木箱やビール瓶、緩衝用と思われる藁などが山積みになっている。
建物内の別の場所や外から聞こえてくる喧騒に耳を澄ませ、ひたすら息を潜める。しかし突然、バタンと大きな音が響き、律の居る部屋の扉が開いた。身を隠している律には視認できないが、息を切らしバタバタと足音を立てる人物は、どうやら男の様だった。何かに追われている様なその足音は、だんだん近づいてくる。律は早打つ心臓を押さえ、出来る限り息を殺した。菊田の言葉を思い出し、いざという時はいつでも逃げられる様にと心構えをして。
もう少しで見つかってしまうという時に、また扉が音を立て開いた。ぞろぞろと数人の足音が部屋に響き、話し声が聞こえてくる。その中に聞き慣れた声があった気がして、律はつい顔を上げた。
「!」
「っ」
ほんの微かな衣擦れの音だったが、最初に入って来た男は律に気づき、二人は目が合った。外国人風のその男は異様な空気を醸し出している。律は喉が詰まった様になり、ただ空気を吸い込むしかできなかった。
「アナタの罪も、赦してあげまショウ。」
そう言って男がナイフを振り上げたのと同時に、やはり聞き覚えのある声が叫んだ。
「夏太郎回り込め!!」
その声に姿勢を低くした男は焦ったのち、すぐ傍に積まれていた藁に火を点けた。男はもう一度ナイフを振りかざすと、今度こそ律目掛けて振り下ろす。反射的に身を捩った律の左腕をナイフの切先が掠めた。
「いッ」
律が熱く鋭く痛む左腕を押さえると、男は「あぁ」と焦った様子で律の右腕を掴み、そのまま奥へと進んで行く。
「離して!」
「アナタを赦してあげマス。でも今は逃げなけレバ。」
ぶつぶつと言いながら進む男の力は強く、律は振りほどけずに引きずられて行く。
「律!?」
「イポㇷ゚テ!」
やはりあの声は有古だった。火の手の向こうにいる有古と目が合った律は、必死に有古の名を叫ぶ。
「律!!くそっ、あの人は何をしてるんだ・・・!」
有古は外人風の男、ジャック・ザ・リッパーに連れ去られようとしている律を追おうとするが、火の手がその行手を阻む。
「知り合いか。」
燃え広がった火の向こうへ行こうとする有古の肩を、土方が掴んだ。
「律が!」
「駄目だ。」
「でも・・・!」
有古の肩を掴んだ手に力が込められる。悲痛な表情の有古に、土方は鋭い目を向けた。
「お前が死んではどうにもならない。今はあの娘を信じろ。」
「っ。」
「ここを抜けるのは無理だ。他の出口から探しに行けばいい。」
「・・・はい。」
唇を噛み締める有古に、土方は有古の肩を掴んでいた手を下ろした。そして律達が消えて行った方に視線をやると、僅かに口角を上げる。
「なかなか骨があるように見受けられた。あの目はまだ折れておらんよ。」
何処か愉しそうな土方に、有古はぞくりとした。しかし今は土方の言葉を信じる他無い。
有古は律の無事を祈りつつ、土方と共に外へ出た。
「アイヌ?」
ジャックに引きずられる様にして別の部屋へ出た律は、急に立ち止まり一瞬緩んだジャックの手を振り払い、なるべく距離を取った。しかしジャックの関心は視線の先にいる少女に向けられている様で、律の方を見ることは無かった。
ジャックと少女は何やらアイヌの言い伝えについて話しているようだったが、男女が交わらずとも女は子供を産めるのだと盲信するその男は、狂気じみている。
しかし狂気を孕んだ男に物怖じせず、真っ直ぐな目を向けるその少女は冷静だった。
「お前がジャック・ザ・リッパーだな?」
律は聞こえて来た名に目を見開いた。シャーロック・ホームズの話に出てくる、あのジャック・ザ・リッパーのことを言っているのだろうか。朧げな記憶と照らし合わせてみれば、確かに合点がいく。今回の連続娼婦殺害事件の犯人はきっとこの男で、しかもその正体はジャック・ザ・リッパーだと言うのだから、律は眩暈がしそうになった。
しかしこのままでは少女も危ない。少女を連れて逃げる機会を伺わなくてはと思った矢先に、当の少女が長い木の棍棒の様なものでジャックを思い切り殴った。律はあまりに似合わないその打撃に呆気に取られたが、しかし同時に、強く気高いその少女を美しいとも思った。
「あああああッ」
体勢を崩したジャックは床に膝をついたが、少女の纏っていた白い毛皮を掴んだ。少女が持っていた棍棒は折れてしまっている。少女は毒矢だと言って矢を振りかざしたが、その矢を振り下ろす事を躊躇している様に見えた。
律は少女をジャックから引き離そうと、咄嗟に二人の方へ駆け出した。
「離しなさい!」
少女の毛皮を鷲掴んでいるジャックの手を掴んだ律は、その手を少女から引き剥がそうと押しやる。
「おい相棒、そいつは俺の仕事だろ?」
不意に後ろから声がした。律が振り返ると、そこには軍服を着崩した男が銃剣を構えていた。少女から"杉元"と呼ばれたその男は、あっという間にジャックを制圧する。
人の腸が引き摺り出される場面など、見た事がなかった。あまりに惨たらしいその現場に、律は胃の中からせり上がってくるものを感じる。
「耐性がないのか。」
口元を抑える律の背に、アイヌの少女が手を置いた。
「それなのにアシㇼパさんを護ろうとしてくれたんだね。」
ありがとうと言った杉元は、眉を下げ優しげに微笑んだ。先程まで獣の様に髪を逆立て、残虐な戦闘法をとっていた男が、本当に目の前の優しげな男と同一人物なのだろうか。律は困惑した表情を浮かべるしかできず、その視線を少女へ向けた。
薄々予感はしていたが、やはりこの少女が。律は鶴見から聞いた話を思い出す。金塊争奪戦の要であると言うアイヌの少女"アシㇼパ"は、青に少しの緑が混ざり合った、それは美しい瞳をしていた。