刹那/菊田
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インカラマッ、谷垣、そしてその娘を見送った後、律達ははまた病院での療養に戻った。しかし間も無く鶴見から電報が届くと、一向は札幌へ向かうこととなった。
札幌では菊田と宇佐美が連続娼婦殺害事件の犯人の行方を追っているらしい。それが金塊の手掛かりであると踏んだ、鶴見の指示によって。
「律さん、絶対に俺達から離れないでください。」
「はい。」
完全に陽が落ちた頃、律達は札幌の時計台の前に到着した。
今回の事件で標的になりかねない律の身を案じる月島は、何度目かわからない忠告をする。
律は娼婦ばかりを狙うという殺人犯を思い浮かべ、一つ身震いをした。気を紛らわそうと見上げた時計台は、陽の落ちた札幌に黒黒と佇んでいる。元いた時代にも在り続けるその時計台に、感動するような余裕は無かった。
「お待たせしました。鯉登少尉、お怪我は?」
「あぁ、もう何ともない。迷惑をかけた。」
暫くすると、向こうからやってきた人物が鯉登に声を掛けた。ずっと焦がれていたその声に、律の心臓は大きく跳ねる。
「どうした、少しやつれたか?」
「いえ・・・ご無事で何よりです。」
心配そうに顔を覗き込んでくるその人、菊田に、律は眉を下げて答えた。
鯉登はその様子を目を細めて見ていたが、何も言わなかった。
「・・・なんの探偵?」
宇佐美の居場所を問えば、菊田は虚空を見つめ、ぼそりと何やらおかしな単語を呟いた。セイシと聞こえた気がしたがそんな筈はないだろうと、律は言及しないことにした。
一応は聞き返した鯉登も、その隣で菊田を見ている月島も、神妙な面持ちをしている。菊田はそれには答えず、殺人事件の次の犯行現場の目星をつけた宇佐美が、先に現場に確認に行っていると告げた。しかもそれは、正に今晩起こると。鶴見達の到着を待つ余裕はなく、現存のメンバーで犯人を捕まえると言う。
「律をどこか宿に・・・」
菊田が言いかけると、少し離れた場所で花火が打ち上がった。突然の光と音に、一向は驚き目を向けた。
「花火!」
目を丸くする二階堂を他所に、菊田は顔を顰める。花火が打ち上がったのは、宇佐美が今正に調べているという札幌ビール工場のある方面だと言う。
「向かおう。」
迷い無く走り出す鯉登の後に、二階堂が続く。
「律———」
菊田が律の方へ手を伸ばすより先に、月島がその手を掴んでいた。月島に手を引かれ走り出す律に、菊田は伸ばした手を引っ込め後を追う。
「貴女を安全な場所へ隠している余裕が無い。一先ず行った先で隠れ場所を探します。」
月島は言いながら律の手をきつく握り、誘導する様に引いてゆく。律はその手を頼りに、転ばぬよう、足手纏いにならぬ様、全力で走る。それでも月島は、いくらか速度を緩めてくれている様だった。律はお荷物になってしまっている事に焦りを感じたが、唯一、鶴見に買い与えられたブーツが足に馴染み、走りやすい事が救いだった。
菊田は引っ込めた手をぐっと握ると、律と月島の前を走った。その役目は自分のものの筈なのにという気持ちを押し殺し、それが叶わぬならせめて道を切り拓こうと。
律は息も絶え絶えに走りつつ、目の前にある菊田の大きな背中を見つめる。緊張なのか恐怖なのか、それとも走っているせいなのか。心臓が破裂しそうなほど脈打っている。
「宇佐美上等兵、離れろッ」
ビール工場に着くと、宇佐美が岩の様な男と対峙していた。叫びながら拳銃を構える菊田だが、宇佐美に当たる可能性を考えて撃てずにいる。二階堂曰く手強いらしい"牛山"というその男は、武器を構えていない様だった。しかし軽々と宇佐美を持ち上げると、律達の方へ投げ飛ばして見せた。
「む。」
二階堂を除き、それぞれが飛んでくる宇佐美を躱わす。律もすんでのところで横に避けると、目を丸くした牛山と視線が交わった。
「なんでそんな別嬪さんがこんな所に・・・お嬢さん、ここは危ない!こっちへ来なさい!」
離れた場所から律に手を差し出す牛山に、体制を立て直した鯉登達が向かっていく。
「お前の方が危ないわ!」
律は呆気にとられ、叫ぶ鯉登と牛山を見ている。すると律を牛山から隠す様に、目の前に菊田の大きな背中が立ちはだかった。菊田は片手は拳銃を牛山に向けたまま、もう片方の腕で律を庇う様にしている。律は菊田の名前を呼びたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えた。
その間にも牛山は工場の窓に飛び込み逃亡した。飛び散った硝子の破片に、律はぎょっとする。菊田達はこんな人間らしからぬ敵とやり合っているのかと、背筋がひやりとした。
「律、こっちだ。」
逃げた牛山を追う為、一向はそれぞれ別の入り口から建物に入って行く。菊田は律の手首を掴むと、少し離れた場所から工場へ入った。暗く静まり返ったその場所に人の気配は無い様だった。
「律。」
積み上げられた木箱の陰まで来ると、菊田は振り向き、律を抱き締めた。
「杢太郎さん・・・。」
久しぶりに触れた菊田の体温と整髪料の香り、そして微かな煙草の匂いに、律はその胸元に顔を埋める様にして縋り付く。
「こんなことになっちまってごめんな。ここに隠れててくれ。危険だと思ったらすぐに逃げろ。」
「はい。」
「本当は一緒にいてやりてぇ・・・。」
「ふふ。」
菊田の悲痛に歪められていた顔が、拍子抜けした顔へと変わる。小さく笑った律の顔を覗き込めば、彼女は目を細め、「好き」と呟いた。
「おい・・・」
菊田は堪らず律の後頭部を掴むと、その唇へ自身の唇を重ねた。何度か角度を変えて口付けると、離れ際に彼女の唇をぺろりと舐めた。
「続きは後でな。」
律の濡れた唇を親指でなぞると、菊田は口角を上げた。
「約束ですよ・・・!」
走って行く菊田の背中に、律は声を掛けた。菊田は片手を上げると、元来た扉から出て行った。
しんと静まり返った空間は、かえって遠くで人々が戦っている音がよく聞こえた。
律は懐から小さな巾着を取り出すと、その中身を出した。紅い菊の絵の描かれた陶器の蓋を外すと、薬指の先を舐め、その指で中の染料を少し掬う。薄く唇に紅を引くと、律は気を引き締めた。必ず生きて、また菊田と会える様に。
律はまた紅を懐に戻すと、その上に手を添える。癖になっているその動作は、律の心の安定を保っている。
遠くの喧騒に神経を集中しながら、律は息を潜めた。