刹那/菊田
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一度は月島に追い詰められそうになった谷垣とインカラマッだったが、そのうちコタンと呼ばれるアイヌの集落に辿り着いたらしく、月島もその後を追って行った。
鯉登と律が追いついた頃には、チセと言う小屋の入り口で、月島が谷垣とインカラマッに銃口を向けている所だった。
「月島ッ!」
鯉登が月島を説得するうちに、月島はぽつりと、大切なものを捨てて来たと言った。たくさん殺した自分は、後戻りできないとも。そこまでさせる鶴見中尉に、律はぞっとした。
月島が矛を収めようとしている中、インカラマッの陣痛が強まった。アイヌの女性に手伝う様言われ、先程まで牽制し合っていた面々はあくせく働き出す。鯉登と谷垣が必要なものを掻き集める中、月島は押し付けられたアイヌの赤子を抱いて座っている。律はそれを横目に見ながら、インカラマッのお産を手伝った。
「可愛い・・・宝ですね。」
「律さん、巻き込んでしまってごめんなさい。」
「いえ、勝手に首を突っ込んだのは私です。無事に生まれて本当に良かった。」
チセの中でインカラマッと谷垣の娘を抱かせて貰っている律を、病院から来た面々が囲んでいる。彼女の表情は慈しみに満ちているが、取り繕うことができないほどやつれている。
代わる代わる赤子を抱いた後、鯉登と月島はチセから出て行った。このチセの主である老婆、フチはアシㇼパの祖母であり、第7師団の兵士が見張りについていると言う。二人はその兵士に、谷垣とインカラマッの事を上手く口止めして来ると言った。
「律。鶴見中尉には気をつけた方がいい。」
「はい。そのつもりでいます。」
谷垣の言葉に、律は真剣な面持ちで頷いた。
産後一週間ほど、皆はコタンでインカラマッの回復を待つ事になった。その間律と谷垣は、鯉登と月島の目を盗み、互いの身の上を語り合った。
「俺はアシㇼパや杉元達に恩がある。フチにもな。だがお前は自分で見極めるといい。」
「私は第7師団から離れることはできないでしょうから・・・でもありがとう。身の振り方は自分で決めます。」
「・・・一緒に来るか?」
谷垣は真っ直ぐな目で律を見る。赤子を抱いているインカラマッも、真剣な顔で頷いた。
「・・・いえ、私は。」
律は驚いた顔をした後、目尻を下げて笑った。しかしどこか切な気な表情に、二人は顔を見合わせる。
「離れられない理由があるのですね。」
全て見透かした様に言うインカラマッに、律は困った様に笑った。きっと以前、占いができると言うインカラマッに千里眼で見て貰った時から分かっていたのだろう。
「以前も言いましたが、良くないものが見えると言っても?」
鋭い目を向けて来るインカラマッを、律は真っ直ぐに見つめ返す。
「でもインカラマッさんも、それを捻じ曲げたんでしょう?」
微笑む律に、インカラマッは目を伏せた。自身は死ぬ運命だと占いに出ていたのに、谷垣と出会った事でそれが捻じ曲がり、今こうして生きている。運命は変えられるのだと、それが律にも適用されて欲しいと、そう願う他なかった。
「二人とも、ありがとう。」
谷垣とインカラマッがコタンを発つ前の夜。
律は外の丸太に座り、星を眺めている。菊田のことを思い浮かべ、無事を祈るのが日課となっていた。律は着物の懐辺りに手を添えると、そこに入れてある物を確かめる。
暫く夜空を眺めていると、チセから出て来た月島が律の隣に腰掛けた。律が驚き月島の顔を見ると、月島は律を一瞥し、目を逸らす様に前を見る。
このコタンでの一週間で、月島とまともに話すことは殆どなかった。最低限の話をすることはあっても、以前の様に雑談をすることは無い。
「・・・貴女は、一番に入れた珈琲を人に与え、自分は出涸らしを飲む様な人です。」
「・・・え?」
ぽつりぽつりと呟く様に、月島は口を開く。
「そういう優しさを持つ貴女を、俺は傷つけた。」
「・・・貴方に傷つけられた覚えはありません。」
困った様に言う律に、月島は彼女の両肩を掴んだ。力任せに掴んだ肩に指がめり込む。
「いっ」
「何故そんな風に言えるんですか!俺は家永を殺し、谷垣やインカラマッを殺そうとしたんです!」
痛みに顔を顰める律に、しかし月島はその手を離さず声を荒げた。
「・・・何故それで、私に負い目を感じるんですか。」
律は自身の肩を掴む月島の腕に触れる。
静かに、しかしどこか優しく見つめて来る彼女に、月島は眉を下げた。
「・・・律さんは、あんなもの見るべきじゃなかった。貴女には見せたく無かったのに。」
そう思っていたのに自分が見せてしまうなんてと、月島は律の肩から手を下ろし、俯いた。
「月島さんは、優しいんですね。」
「っ。」
優しく目を細める律に、月島は大切なあの子の面影を重ねる。月島は彼女の肩に額を乗せ、その背に腕を回した。
律は一度小さく肩を揺らしたが、そっと月島の背中に手を回す。
「人懐っこすぎるって、言いましたよね。」
「そうですね。」
優しくあやす様に言う律に、月島は抱き締める腕に力を込めた。
「人の忠告を無視ですか。」
「忠告は聞いた上で、その後は私の意思で決めることです。」
月島は胸が締め付けられた。一緒に珈琲を飲んだ時、信用しすぎるなと言った筈だった。しかしその忠告を聞いた上で、距離を置くことをしないのかと。自分を慰めるに値する人間だと判断したのかと。
「・・・貴女は馬鹿ですか。」
「そんなことを言いに来たんですか。」
律は心外だとでも言う様な声で言った。しかしその手は時折、月島の背中をとんとんと叩いている。まるで赤子にする様に。
「この時代に居る以上、強くならなきゃいけませんね。」
小さく笑って呟く律に、月島は「させません」と呟いた。首を傾げる律から身体を離すと、力強い目で彼女を見据える。
「貴女が今のままでいられる様に、俺が護ります。」
「・・・鶴見中尉の言いつけですか?」
「どうであれ、俺が決めることです。」
真っ直ぐ目を見て言う月島に、律は目を伏せた。
「負担にはなりたくありません。」
「それも俺が決めることです。」
月島は律の手を握る。
「俺がそうしたいだけだ。」
熱の込もった視線に、律は小さく息を呑んだ。贖罪にしては真っ直ぐすぎるその視線に気付かないふりをして、律は何も答えず目を伏せた。
律に想っている人がいるという事に薄々気づいている月島は、それでも護るくらいは許されるだろうと、彼女の手を強く握り直した。