刹那/菊田
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「律さん、銭湯へ行きますが。」
「あ、私も行きます。」
病院に風呂は無い為、律は月島と共に銭湯へ行くのが日課になっていた。月島は護衛なのか、はたまた見張りなのか、風呂に行く際はこうして毎回律に声を掛ける。
二人は風呂桶を抱え、病院の外へ出た。雑談をしながら歩いていると、敷地内に馬が繋いである。律は見たことの無いその馬につい足を止め、馬の顎を撫でた。
「こんな所に馬がいるなんて、初めてですね。」
律は言いながら振り返り、ぞくりとした。先程まで穏やかに会話していた月島が、ぞっとする様な形相で馬を睨んでいる。月島は律の言葉には答えず、病院を見上げた。
「つ、月島さん・・・?」
「律さん、風呂は後です。部屋で待っていてください。」
月島は低い声でそう言うと、病院の中へと走って行ってしまう。
背中に汗の伝う感覚を覚えながら、律は先程月島の見上げていた方を確認した。どくんと、心臓が嫌に脈打つ。血の気が引いていく感覚に眩暈がしそうになりながら、律は月島の後を追って駆け出した。
あの辺りはインカラマッの部屋があった筈。インカラマッのお腹の子の父親は、鶴見中尉の部下であり、しかし裏切り行為を働いたと聞いた。そして許される代わりに、鶴見中尉の命令で、金塊の鍵を握る少女"アシㇼパ"奪還の為に駆り出されたと。
あの大泊での騒動の後、インカラマッの妊娠を知り、迎えに来たのだとしたら・・・それが裏切り行為だと見做されるのだとしたら・・・?その可能性があることは、インカラマッや家永から聞いていた。その兵士の子を宿しているインカラマッは、最早人質だった。
律はお腹の子の父親について愛おしそうに語るインカラマッを思い出しながら、無我夢中で走った。廊下の途中で投げ出された風呂桶が、大きな音を響かせる。
その音に気づいて病室から出て来た鯉登に声を掛けられたが、律は気づかなかった。
律が廊下の角を曲がろうとした時、大きな影とぶつかった。勢いよく走っていた律は、吹き飛ばされる様にして廊下に転がる。はっとして顔を上げると、そこには額から血を流した図体の大きな兵士と、インカラマッが立っていた。
「インカラマッさん・・・」
やはりそうだった。この人、名前しか聞いたことのなかった谷垣という人が、インカラマッを連れ出しに来たのだと、律は理解した。必ず迎えに来てくれると、インカラマッはいつもこっそり律に話していた。
律は泣きそうになりながら、「逃げて」と二人に言った。
「律さん・・・。」
インカラマッは切な気に顔を歪めたかと思うと、次の瞬間には律の背後に視線を移し、表情を強張らせた。谷垣はインカラマッを背に隠すと、同じ方を見て息を呑む。
律も背後を振り返ると、そこに拳銃を構えた鯉登が居た。
「鯉登さ———」
「行け。」
逡巡の末、ぐっと口元を結び、鯉登は二人にそう言った。
インカラマッと谷垣は廊下を走って行く。律の隣を通り過ぎる時、インカラマッは眉を下げ微笑んだ。
鯉登は拳銃を仕舞うと、律に駆け寄った。
「大丈夫か。」
廊下に手をついたままの律を、鯉登が抱き起こす。
「あ、つ、月島さんは・・・。」
「律っ!待て!」
自身の腕を抜け、インカラマッ達が来た方へ走り出す律に、鯉登もその追った。インカラマッの部屋での一部始終を聞いていた鯉登は、その光景を律に見せるわけにはいかないと思った。しかし一歩遅く、律はインカラマッの部屋の前で足を止めた。
「い、えなが、さん・・・?」
部屋の前で血溜まりの中に倒れる家永に、律は崩れ落ちる。
血に濡れることも厭わず息の無い家永を抱き起こす律を、鯉登は背後から引き剥がし抱き締めた。律をきつく抱き締めながら、片手で彼女の目元を覆う。
律はうわ言の様に、家永の名前を繰り返し口にしている。律の目元を覆う鯉登の手を、彼女の生暖かい涙が濡らした。
その時、すぐ傍で銃声が響く。部屋にいた月島が、外にいる谷垣達に銃を放った音だった。
鯉登に視界を遮られている律は、びくりと身体を震わせた。音の方を見ようとしたが、よりきつく抱き締められ、目元を抑えられ、それを阻止される。
家永に薬を打たれた月島は動かない身体を無理やり動かし、谷垣達の後を追う。一瞬鯉登と律に目をやるが、足を止めることは無かった。
遠ざかる足音を聞きながら、律は目元を覆う鯉登の手を握り締めた。
「鯉登さん、大丈夫です。」
律の震える声に一瞬迷ったが、鯉登は彼女に掴まれた手を下ろした。
「強がるな。」
「・・・鯉登さんには情けない姿を見せてばかりですね。」
律は震える手で横たわる家永の瞼にそっと触れると、薄く開かれていたその目を閉じた。
月島の後を追うという鯉登に懇願し、律も同行する。最初は渋った鯉登だったが、「月島は鶴見から自分を護るよう言われている」「何か役に立てるかもしれない」と、真っ直ぐな目で言う律に気押された。
本当に鶴見が律を護るよう月島に言ったのかは分からなかったが、律は可能性があるなら賭けたかった。盾にでもなれるなら、と。
馬に跨る鯉登に引っ張り上げて貰い、律も鯉登の前に収まった。
鯉登は馬を走らせ、月島の姿が見えるか見えないかの距離を保ち後を追う。
「本当は連れて来るべきではないんだろうが・・・どんな結末になるか分からんぞ。」
「・・・はい。」
馬に横乗りになり、鯉登にしがみつく律の身体は未だ震えている。気丈に振る舞う彼女の瞳は強くあるが、しかし混乱し、憔悴しているのは明白だった。この状態の律を一人残してはおけなかったというのが、連れて来た最大の理由だった。鯉登は片腕で律の肩を抱き寄せると、眉間に皺を寄せた。
「人の死を見るのは初めてか。」
「・・・いえ。でも、ああいうのは・・・。」
"ああいうの"と言うのは、死に方の事だろう。戦場など見たことの無かった律の事だ。殺された人間を目の当たりにしたのは初めてだったのだろうと鯉登は察した。
「そうか。」
鯉登が律の肩を抱く腕に力を込めると、律は顔を隠す様に、鯉登の胸に額を預けた。きっとまた泣いているのだろうと、鯉登は思った。彼女はこの時代に合っていない。本当なら元居た場所に戻してやりたいが、どうすることも出来ず、鯉登はもどかしさを感じた。
「お前はいつも震えているな。」
律の後頭部を掴み、自身の胸元へ押し付けると、鯉登は苦しそうに笑って呟いた。
「言い過ぎです。」
小さく笑って言う律に、鯉登は眉を下げた。