刹那/菊田
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「珈琲ですか。」
「月島軍曹殿。」
律が病院の給湯室で珈琲を淹れていると、匂いに釣られた月島が顔を出した。
「月島軍曹殿も飲まれますか。」
「戴きます。」
珈琲の粉は、軍のお偉い人であり、発明家だと言う有坂からの土産だった。有坂が珈琲の話をした際に、律が目を輝かせたことを覚えていたらしい。
この時代にはまだあまり珈琲は普及していないと言う。限られた階級の人しか嗜む機会のない珈琲を、月島は飲んだことがある様だった。
律は布を被せた
「そうやって淹れるのですね。」
「えぇ、元の時代での淹れ方を試してみました。」
「あぁ、成程・・・。」
律の手元を覗き込む月島は驚いた顔をした後、一人納得したように頷いた。
珈琲を注ぎ終えた律は二番目に入れたカップを手に取ると、その中身を一口飲んだ。
「うん、大丈夫そうです。薄かったら言ってください。淹れ直しますので。」
「これでいいです。ありがとうございます。」
最初に淹れた珈琲のカップを月島に手渡すと、律は使った分の洗い物を始める。
「・・・?」
立ち去ろうとせずこちらを眺めている月島に、律は首を傾げた。
月島は自身のカップを棚に置くと、律の手から洗い終えた茶漉しを取り、布巾で拭き始める。
「いいのに。」
「いえ。よかったら一緒に飲みませんか。」
「え、えぇ、勿論。」
意外な提案に驚いたが、しかし断る理由もなく、律は洗い終えた布の皺をぴんと伸ばした。
律はならばと、月島を自身の部屋へと招いた。律がベッドに、月島は椅子に腰掛ける。
有坂から珈琲と一緒に貰っていたクッキーを出すと、律は「秘密ですよ」と笑った。
「戴きます。」
人懐こい律に骨抜きの有坂を思い出しながら、月島はクッキーを一つ摘む。
「何故、俺の事だけ敬称をつけて呼ぶんですか。」
「へ。」
そうなのだ。人懐こい律は、鯉登の事はさん付けで呼び、二階堂に至っては君付けで呼ぶ。しかし月島のことは"軍曹殿"と付けて呼ぶ。有坂のことは閣下と呼ぶが、月島を呼ぶときよりももっと軽い口調だった。月島は初めこそ気にならなかったが、共に過ごすうちに、何となく居心地の悪さを感じる様になっていた。
「鯉登少尉のことは鯉登さんと呼ぶじゃないですか。」
「え、えぇ。そう呼ぶ様にと言われましたから。」
「では二階堂は?」
「二階堂くんは、前からあんな調子で、可愛いからと言いますか・・・。」
「か、可愛い・・・?」
確かに薬漬けでおかしくなってはいるが、二階堂が可愛いとは・・・月島は面喰らい、啜っていた珈琲を吹き出しそうになった。否、少し吹き出した。
「だ、大丈夫ですか。」
「失礼しました。」
律がハンカチを寄越そうとしたがそれを静止し、月島は自分のハンカチで珈琲を拭う。
「俺相手だと緊張しますか。」
「そんなことは・・・。」
真っ直ぐに見つめてくる月島に、律は言葉を濁した。
月島はそんな律の様子に眉を下げそうになったが取り繕い、彼女の嘘に気づかないふりをする。
「では、俺のことも敬称無しで呼んでください。落ち着きませんので。」
「そうですか・・・では、月島さんと?」
「えぇ、結構です。」
律はカップに口を寄せた。温かい珈琲が食道を通り、胃の中にじわりと広がってゆくのを感じる。
「しかし美味しいですね。次からは俺も律さんの淹れ方を真似してみます。」
「それは良かったです。珈琲は一杯ずつドリップするのが美味しいらしいですよ。」
「ドリップ?」
「珈琲の淹れ方です。ドリップ自体は、落とすと言う意味だったと思います。」
「成程。」
珈琲のカップに口をつける月島の穏やかな表情に、律は口元を緩めた。こうやって一緒に過ごしてみると、人の印象というものは変わってくるもので。
「それはそうと律さん。」
「はい。」
「貴女は人懐っこすぎます。」
「ひとなつっこ・・・え?」
ぽかんと口を開ける律に、月島ははぁと溜息を吐く。
「貴女の居た時代はそれは平和だった様ですが、ここは明治です。貴女も見たでしょう、駆逐艦での様子を。」
俯いた律の顔に影が落ちる。忘れたわけでは無かった。忘れられるはずがない。今でも鮮明に、血の匂いが鼻の奥にこびりついている。
「すみません、そんな顔をさせたかった訳ではないんですが・・・でもあまり、周りを信用し過ぎないでください。」
「俺の事も」と、月島はどこか寂しげに呟いた。
律は手に持つカップを見つめたまま、「はい」と小さく答える。
目を伏せ薄く微笑む律を、月島はただ見つめた。
戦争を知らず、純粋で人懐っこく温かいこの人が、金塊争奪戦に巻き込まれて命を落とすなどあってはならない。つい皆がその優しさに毒気を抜かれ、癒しを求めている。かく言う自分もそうなのだろうと、月島はどこかで思っていた。
「部屋に男を連れ込むなど、言語道断です。」
「えっ、そ、そんなつもりは・・・。」
「こちらがそんなつもりだったらどうするんですか。平和呆けし過ぎです。」
「平和ボケ・・・。」
慌てる律の頬が薄ら染まった事に、月島は気分を良くする。彼女の様子にふっと笑うと、「気を付けてください。」と目を細め、珈琲を啜った。
「俺の事を全く男として見ていないことは分かりました。」
「い、いえ、そんな・・・?」
肯定するのも失礼かと思ったが、否定するのも何か違う。忙しく視線を彷徨わせる律に、月島は吹き出した。
「冗談です。軍人はお勧めしませんよ。」
一瞬、顔を曇らせた律を、月島は見逃さなかった。ここで踏み込むほど無粋ではないが、頭では色々な可能性を探ってしまう。律は鯉登の傍で過ごすことが多いが、それはあくまで身の回りの世話の為であり、好意を寄せている様には見えない。二階堂の事は子供の様に扱っているから論外だろう。有坂に対しても、特にそう言った素振りは無い。となると、鶴見か・・・と、そこまで考えたところで、月島は考えを放棄した。憶測だけでは限界がある。
特に何も答えずカップに口をつける律に倣い、月島も珈琲を啜った。