刹那/菊田
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鶴見率いる第7師団は早朝に宿を発ち、移動手段を陸路から海路に変え、
律は甲板に立ち、薄らと見えてきた大泊港を眺める。ちらりと隣に目をやると、鶴見も真っ直ぐ陸を見つめている。その表情からは温度が感じられない。鶴見の凍りつく様な眼差しに、律は本能的に身震いをした。
「律君、君は駆逐艦に残りなさい。」
伺う様な律の視線に気づいた鶴見は、努めて穏やかな微笑みをたたえて言った。
律は「はい」とだけ答えると、鶴見から目を逸らしてまた陸を見る。
今からアイヌの金塊の鍵を握ると言う少女を保護する手筈になっているらしいが、どうも雲行きが怪しい。一筋縄では行かないのかもしれないと、律は周囲の空気から察する。
間も無く、駆逐艦が大泊港に到着した。鶴見を筆頭に、兵士達は港に降りてゆく。律は嫌に脈打つ心臓を抑えつつ、それを見送った。二週間程第7師団と共に過ごしたが、今の彼等はこれまでとは違っている。彼等は軍人なのだと、律は漸く肌で感じる。
「何もありません様に。」
鶴見のすぐ後を行く菊田の背中を見つめながら、律はつい呟いていた。ふと肩に重みを感じて隣を見ると、真っ直ぐな目をした鯉登少将の手が肩に乗せられていた。
彼は海軍少将であり、この駆逐艦の艦長だと言う。厳格そうな鯉登少将は、しかし優しい目をしている。
律は一度情けない表情で笑って見せると、今度は背筋を伸ばして鶴見達の背中を見送った。
「鯉登閣下!連絡船を追って下さい!」
程なくして戻ってきた鶴見達は、慌ただしく船を出航させた。騒然とした空気に律は気圧される。兵士達が戻って来てから、辺りには血と火薬の匂いが一気に立ち込めた。
遠くに菊田の姿を見とめ、律は安堵する。汗だくになって疲弊しているが、菊田が傷を負っている様子はない。
「宇佐美さん!?」
顔面が腫れ上がり、血がこびり付いている宇佐美を見つけ、律は駆け寄る。
「何、心配してくれんの?大丈夫だよこのくらい。」
悲痛な表情で顔に手を伸ばしてくる律に、宇佐美はなんでもない風に軽く言ってのける。それでも眉を下げ、白いハンカチを額に当ててくる彼女に、宇佐美は大人しく甲板の手摺りに寄りかかった。固く結ばれた彼女の口元に、つい指で触れる。驚いて見つめてくる律に、宇佐美はぱっと手を離した。
「はは、甲斐甲斐しいじゃん。大丈夫だって。ここ、切れちゃうよ。」
宇佐美が自身の唇を指差したのを見て、律は初めて自分が下唇を噛んでいることに気づいた。
辺りを見回せば、宇佐美より重症な兵士もちらほらいる様だった。悲惨な光景と血の匂いに、律は口元を押さえる。胃の底から込み上げて来そうになるものを必死に堪える。
「・・・ごめん。」
目を見開き俯いて、口元を押さえてえずく律に、宇佐美は小さく呟いた。
「律は中に入ってなよ。」
宇佐美は律の頭にぽんと手を置く。しかし勢いよく顔を上げた彼女の形相に、ついその手を引っ込めた。
「この状況で自分だけおめおめ引き込もってられる訳ないだろ!」
周りの兵士達が振り返る。目をかっぴろげ、鬼の様な形相で宇佐美に啖呵を切る律に、周囲は唖然とする。宇佐美も目を見開き、その口は半開きのまま。
律はハンカチを宇佐美の胸元に勢いよく押し付けると、他の重篤な兵士の元へと駆け寄って行く。
「・・・なんだ、案外強いじゃん。てか口悪。」
必死に兵士達の処置に当たる律を見ながら、宇佐美はくつくつと笑った。
同じく少し離れた場所から見ていた菊田も、情けない顔で笑った。自分の愛した女は、こんなにも強かったのかと。強いとは思っていたがここまでかと。しかし兵士達の処置をする律は、なんとかぎりぎりのところで平静を保っている様に見えた。
律は必死に兵士の止血をする。正しい処置の仕方など分からない為、周りの手を借りる。何も出来ない自分に怒りが湧いてくる。震える手を押さえながら、なんとか命を繋ごうと自分に出来る事をこなしていく。
「すみません、手を貸して頂けませんか。」
律に声を掛けた男は、月島と名乗った。鎖骨のあたりに刃が刺さったままの青年を抱えている。
「っ。軍医に診せましょう。運んでください。」
処置など見よう見まねの律には手に負えないその青年を、月島と共に軍医の元へと運ぶ。律はこの二人の事を知らなかったが、今はそんなことを考えている暇はない。
「後は頼みます。」
「はい。」
重篤な青年を軍医の元へと運ぶと、月島は甲板に戻って行く。
律は軍医の手伝いをした。刃を抜き去り縫合し、どうにか処置を終えた。
「すまない。」
「喋らないでください。出血します。」
律が縫合部を圧迫していると、青年が口を開く。息も絶え絶えの青年は、小さく鯉登と名乗った。
「鯉登・・・鯉登少将の・・・。」
「あぁ、あの人は私の父だ。」
鯉登少将はあの時、この人の事を想っていたのだろうか。律は自身の肩に手を置いた鯉登少将の、真っ直ぐな目を思い出した。
「ご無事で良かった。」
律は急に緊張が解れた様に、力無く笑った。
鯉登は律が何故此処に居るのか、何者なのか、気になる事は多々あったが、その心から安堵した様な表情に胸がじわりと温かくなった。
「無事では無いがな。」
鯉登が半目で茶化す様に言うと、律は確かにと眉を下げ、笑った。
不思議な女だと鯉登は思った。震える手で処置をしてくれた彼女は、きっと戦場などほど遠い場所に居たのだろう。それでも必死に見知らぬ男を助け、容体が落ち着けば心から安堵して見せる。初めて会った筈なのに、何故か心が安らぐ。
その時、地響きの様な大きな音と共に、船体が大きく揺れた。びくりと驚いた彼女は、しかし震える手で傷口をしっかりと押さえる。
「砲撃だな。」
鯉登は横たわったまま腕を上げると、律の頭を自身の胸元に引き寄せた。
「大丈夫だ。」
優しく労わる様に囁く鯉登に、律は傷口を押さえながらされるがまま。
律の震える身体を落ち着ける様、鯉登は彼女の背中を撫でてやる。
恐怖を和らげようとしてくれる鯉登の体温に、律はほんの少し心を落ち着けた。