刹那/菊田
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律が鶴見に自身の境遇を話してから数日が経った。あれから鶴見は以前に比べて律への興味が薄れた様で、探るような視線を向けることは無くなった。
律は気持ち程度に鶴見の身の回りの世話をして過ごしているが、最早鶴見が自分を第7師団に置いておく理由は無いのではないかと考える。そのうち放り出されるのでは無いのかと。
そんな中、今日は久しぶりに街で休めることになった。兵士達は羽を伸ばし、各々自由に過ごしている。
「律〜、買い出しこれで終わり?」
「えぇ、私が頼まれた分は。」
律は鶴見から物資の調達の一部を任され、それに宇佐美が同行している。とは言っても鶴見の個人的な物ばかりで、整髪料や酒といった
「律は何か欲しい物ないの?ついでに買っちゃえば?」
「そうですね・・・じゃあ一つだけ。」
「何?」
きょろきょろと店を探すそぶりを見せる律に、宇佐美は顔を覗き込む。
「化粧水です。乾燥が辛くて。」
「あー成る程ね。そう言えば律ってさ、化粧っ気ないよね。」
「そうですかね。」
目ぼしい店を見つけて入っていく律に続きながら、宇佐美は彼女の顔をまじまじと見た。
「定食屋で働いてた時だって、薄く紅を引いてたくらいでしょ。」
顔を覗き込んでくる宇佐美を相手にせず、律はヘチマ水の瓶を手に取ると、美しく着飾った女性店員に勘定を頼む。
「全然悩まないじゃん。こういうの好きじゃないの?」
「嫌いじゃないですよ。ただそういう余裕がないだけです。そもそも軍に同行するのに、めかし込む必要がありますか。」
「手厳しいな。」
珍しく悲し気に笑った宇佐美は、律を押しやるとヘチマ水の料金を支払った。そのまま袋に入れられた商品を受け取ると、店を出て行ってしまう。
「宇佐美さん、代金。」
「攫って来たお詫び。」
後を追って代金を差し出してくる律に、宇佐美は袋を手渡した。代金を受け取る様子の無い宇佐美に、律は戸惑いつつも袋を受け取る。
「お詫びになんてなりませんから。」
「はは、わかってるよ。」
「でもありがとう。」
純粋に礼を言う律に、宇佐美は「うん」とだけ返すと、鶴見の待つ宿へと歩き出す。
お詫びだなどと言われると、流石の律も調子が狂った。
宇佐美は鶴見への忠誠心が強すぎるが故に非人道的な言動はあるが、律を粗雑に扱ったことは無い。軍人という肩書はあるが、よく考えてみれば彼はまだ青年で。
平和な時代に生きていた律は、胸が締め付けられる。だからと言って攫われた事実は消えないが、同情が無い訳でもなかった。
隣で何でも無い会話をする宇佐美に、律は少しだけ優しく接してしまった。
「律君、今日は久々に羽を伸ばすといい。とは言え明日はまた早いから、程々に。」
鶴見に買い出しの品を届けると、律にも自由時間が与えられた。逃げ出すなら今晩なのではと不穏な考えが頭を過ったが、大勢の兵士が滞在するこの街でそれは不可能に近く、鶴見もそれを分かっている様だった。
律はこのまま第7師団と行動を共にする意味を考えもしたが、どうせ逃げられないなら考えるだけ無駄だろう。今は只、鶴見が一人部屋を取ってくれた事に感謝することにした。久しぶりに一人でゆっくり眠れるという事実を、有り難く受け止めようと。
「律ー!オムライス作って!」
自由時間を得ると、律はまず銭湯へ向かった。久々の風呂は、身も心も解してくれる。ほくほくとした気持ちで出てくると、二階堂に見つかった。
「しょうがないなぁ。でも何処で・・・。」
「宿の料理場、使っていいって!」
律はもう少し一人の時間を楽しみたかったが、約束した手前、断ることが出来ない。ちゃっかり宿に交渉を済ませている二階堂の根回しの良さに、律はつい笑った。
「材料は?」
「買ったー!早く行こ!」
二階堂に引きずられる様にして、律は宿へ戻った。宿の女将に借りた割烹着を身に付けると、台所に立つ。
余程待ちきれなかったのか、二階堂はすでに米を炊いていたらしく、料理場には仄甘い米の香りが漂っている。
「あんまり期待しないで下さいね。」
米と混ぜる為に玉ねぎをみじん切りにし、バターで炒める。隣で嬉しそうに覗き込んでいる二階堂に、律は困った様に笑った。
「いい匂いしてんな。」
ふと後ろから声がする。律と二階堂が振り返ると、菊田が料理場を覗き込んでいた。
「オムライス作ってもらってるの!」
嬉しそうに言う二階堂に、菊田は二人の方へ近づいて来る。
「へぇ、俺のもある?」
「作りますよ。」
律は菊田と二階堂に挟まれ、覗き込まれながら、玉ねぎと炊き立ての白米を混ぜていく。二人ともあまりにぴったりとくっついて見てくる為、律は若干のやりづらさを感じながらも料理を進める。
「はい、じゃあお二人とも、自分の食べる分だけご飯をよそってください。」
「はーい。」
簡易バターライスの入った
律はその間にオムレツを焼き始める。
「二階堂くん、お皿を頂戴。」
律は二階堂の皿を受け取ると、バターライスの上にオムレツをそっと乗せた。
「うわぁー!」
「召し上がれ。」
「向こうで待ってる!」
二階堂はオムライスを大切そうに受け取ると、食堂の方へ慎重に運んで行く。待つと言った二階堂に、奔放な彼でも規律が染み付いているのかと、律はつい笑った。
「俺のは?」
隣に立っていた菊田が、台所に手をついて言った。律を通り越して置かれた手は、彼女の腰を抱いている様にも見える。微かに触れ合う菊田の腕と胸板に、律は小さく肩を揺らした。
「菊田さん。」
眉を下げて見上げる律に、菊田は「誰も居ないよ」と囁き目を細めた。
久しぶりに触れた菊田の体温と、鼻を掠めるその香りに、律は泣き出しそうになるのを堪えた。
「律。」
菊田は優しく律の名を呼ぶと、ゆっくりと顔を近づける。律が少し顎を上げ目を閉じると、唇同士が触れ合った。
「杢太郎さん。」
額と額を合わせ、近距離で見つめ合う。小さく名前を口にする律に、菊田は胸が打ち震えた。
「足りねぇな。」
菊田は困った様に笑った。
「二階堂くんが待ってます。」
律は名残惜しそうに離れると、菊田の分のオムレツを作る。それを隣から覗き込んでいる菊田は、このまま彼女を抱き締めてしまいたいという衝動に駆られたが、ぐっと堪えた。
「美味しい!」
律の作ったオムライスを、菊田と二階堂と三人で食べる。
「良かった。」
二階堂の笑顔に律はほっとした様に笑うと、自分もオムライスを食べ始めた。
「美味いよ。」
菊田も目を細めて同意する。美味そうにオムライスを食べる菊田を、律はつい眺める。ふと目が合うと、菊田は律に優しく微笑んだ。
菊田は想像する。素朴な一軒家で、律と二人暮らす未来を。軍人、しかも諜報を任される身である以上、そんなものは夢物語だと半ば諦めながらも、つい想像してしまう。
律が第7師団と行動する事になってしまったのも、元を辿れば自分のせいだと、菊田は胸が締め付けられた。
卵とバターと、彼女から仄かに香る石鹸の匂いに、菊田は胸が一杯だった。