刹那/菊田
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ガタガタとした揺れに目を覚ますと、そこは馬車の様だった。律はまだぼおっとする頭で起きあがろうとするが、誰かの手に肩を押し返される。意識が浮上してくると、漸く誰かに膝枕をされていることに気づいた。
「起きたかね。」
びくりと揺れた律の肩を、その男は落ち着かせるように優しくさする。
男から反対を向く様に寝そべっている律は、その顔をまだ見ていない。しかし一見優しい猫撫で声は、どこか冷たくぞくりとした。
「部下が手荒な真似をした様で申し訳なかったね。あぁ失礼、申し遅れた。鶴見だ。」
言いながら肩をさすり続ける手に、律は鳥肌が立つ感覚を覚える。ねっとりとした触り方はその声同様、この男の性格を表している様に思えた。
「あの、もう平気ですので。」
何が平気なのかと心で
「いけないよ、無理をしては。」
鶴見と名乗った男は態とらしく心配する様に微笑むと、律の肩を抱いて引き寄せた。
身体に力の入らない律はされるがまま、鶴見の肩にもたれ掛かる。
「どういう、ことですか。」
律は回らない口で、なんとか言葉を紡ぐ。
「あぁそうだった、説明しなくてはいけないね。今は
「樺太・・・。」
律は朧げな記憶を掘り起こす。確か樺太は北海道より北にある島で、ロシア領だったと記憶している。
「私の部下が君を大層気に入ってしまってね。どうしても同行させたかったらしい。普段はそんな事をする男じゃないから驚いたよ。」
鶴見は愉快そうに笑いながら、肩を抱き寄せているのとは逆の手で、律の顎を掴み上を向かせた。
律は漸く鶴見と目が合う。目元の傷は生々しく、変わった額当てが不穏さを演出しているその男は、しかし元の顔立ちが良いせいか品がある。
「悪いようにはしない。私の身の回りの世話をしてくれないか。」
怪しく光る鶴見の目に、律は断ることなど出来ないのだと悟った。申し入れの様にも聞こえるが、これは命令なのだと。
「・・・はい。」
律が小さく答えると、鶴見は満足した様に彼女の顎から手を離した。
「よかった。さぁ、まだ意識がはっきりしていないんだろう。もう少し休んでいなさい。」
鶴見は脱力する律を横たわらせると、再度自身の膝にその頭を乗せる。
鶴見の手が律の目元を覆う。同時に口元に布が当てられ、律はそのまま闇の中へと落ちていった。
暫くすると、律と鶴見が乗っている馬車が止まった。程なくしてコンコンと音がして、馬車の扉が開く。
「鶴見中尉、ここで一度休憩を・・・」
扉を開き中を覗いた菊田は、目を見開いた。
「何故、定食屋の娘がここに居るんです。」
鶴見は愉快そうに笑い、人差し指を口元に当てる。まるで眠る律を気遣っているかの様に。
「菊田特務曹長も顔見知りだったそうだね。」
「えぇ、まぁ・・・。」
「宇佐美が大層気に入ってしまった様でね。連れて来てしまったらしい。困ったものだよ。」
全く困っている様には見えない鶴見に、菊田の心臓ははどくんと大きく脈打った。嫌な汗が背中を伝う。連れて来たなんて、生優しいものでは無いだろう。彼女が自らついて来るとは思えない。
「面白い物も持っていた様だし、監視も含めて私の世話をして貰うことにした。」
「面白い物、と言うと?」
「服だよ。なかなか奇妙な服を隠していたらしくてね。気になるじゃないか。」
押入れの奥底に仕舞ってあったはずの服が、簡単に見つかるわけがない。家探ししたのだと菊田は察する。
鶴見は自身の膝の上で眠る律に視線を落とすと、その頭を慈しむ様に優しく撫でた。律の眉間には皺が寄っている。
菊田は怒りに震えそうになりながらも、鶴見から見えない位置で拳を握り、どうにか堪えた。
「服、ですか。」
「しかも聞いたら最近ふらっと現れたそうじゃないか。興味が沸いてしまってね。」
菊田に向けられた愉しそうな視線は、怪しげに光っている。
まだ定かではないが、この一連の成り行きは、自分への牽制の可能性があるのではないかと菊田は思った。自身が中央から鶴見の元へ送られたスパイであることがばれており、そんな菊田にとって、律が大切な存在だと気づかれていたとしたら。
しかし律を誘拐するなど回りくどい事をしているうちは、まだ確かな情報は掴めていないのだろう。
もしくはただ菊田の弱みを握ろうとして律に辿り着いた宇佐美が、本当に彼女に興味を引かれただけなのか。
情報将校の鶴見であれば、気になるものを徹底的に調べ上げるのも頷ける。ましてや菊田や宇佐美の弱みになり得る律を手元に置くのは、鶴見らしいやり方かもしれない。
菊田は考えを改めると、今後の立ち回りを考えなければと気を引き締めた。
「宇佐美の奴、一般人を巻き込むだなんて感心しませんなぁ。」
「一般人ならな。」
頭を掻いて呆れた様子で言う菊田に、鶴見はまた律を見る。
「まぁ華やいでいいじゃないか。危険が及ばぬ様護ってやれ。」
「はっ。」
敬礼する菊田を尻目に、鶴見は律の頬をするりと撫でる。「ん」と小さく身じろいだ律に、鶴見は口角を上げた。
「私は彼女を起こしてから行こう。樺太へはまだ長い。菊田特務曹長も今のうちに休んでおけ。」
菊田はもう一度敬礼をすると、静かに馬車の扉を閉めた。
断腸の思いで、律から離れたというのに。もう二度と会えないと思っていた律と、こんな形で再開することになるなんてと、菊田は両の拳を固く握る。
菊田は適当なところまで歩くと、煙草を取り出し火を点けた。
「あれだけ起きないってことは、薬でも嗅がされたか。」
菊田は呟き、吐き出す煙を眺めながら、なんとか怒りを鎮めようとする。
「・・・言われなくても。」
護れだなどと言われなくとも、この命を賭してでも。
菊田は煙を睨むと、煙草を落としその場を去った。