刹那/菊田
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「二組も要らないよな。」
二人が秘湯から旅館の部屋に戻ると、布団が二組敷いてあった。ぴったりと並べて敷いてあるそれに軽口を叩く菊田を、律はじっとりと見てやった。
「わ、美味しい。」
「変な組み合わせだけどな。」
律と菊田は窓側のソファにテーブルを挟んで座り、晩酌をする。老婆、もとい女将に用意してもらった熱燗と共に、菊田が買ってきていた団子を頂く。定食屋への土産は、しっかり律の分も準備されていた。
「あとこれも。」
そう言うと、菊田は懐に手を入れ、取り出した物をテーブルに置く。それは小さな巾着だった。首を傾げる律に、菊田は開ける様促す。
律が促されるまま巾着を開けると、中には掌に収まる程の陶器の入れ物が入っていた。陶器の蓋には紅い菊の花があしらわれている。上品で美しいその模様を、律は指でそっとなぞる。
自分がその指で慈しまれているように錯覚しそうになりながら、菊田は蓋を外す様促した。
容器の内側には、紅色の染料が塗ってある。
「綺麗。紅ですか。」
掌に乗せたそれに魅入る律に、菊田は目を細める。
「化粧っ気が無かっただろ。つけて見せてくれ。」
「・・・あの、」
おずおずと見てくる律に、菊田は思い当たった。菊田は笑うと、薬指にちょんと酒をつけ、その指で紅をほんの少し掬う。そしてテーブルに手をつき身を乗り出すと、律の唇に触れた。
優しくなぞられる感触に、律は目を伏せる。酒と煙草の香りが、律の鼻先を掠めた。
「・・・こりゃ駄目だな。」
「えっ。」
仕上がりを見て眉を顰める菊田に、律は愕然とする。そんなに可笑しいだろうかと。
そんな律の表情を見て、菊田はソファに腰掛け、手拭きで指を拭きながら笑った。
「似合ってるよ。ただ良過ぎて男が寄って来かねん。」
ふざけて言う菊田は、内心穏やかでは無かった。紅を引いただけでこんなにも艶やかな”女”になるのかと、目の前の彼女につい見惚れる。
僅かに熱が込もった菊田の視線に、律は少し目を伏せた。
「こんな高価そうなもの、貰っていいんですか。」
「その為にしつらえたんだろ。」
菊田は頬を緩め、柔らかな声で答える。
「・・・ありがとうございます、大切に使います。」
律は紅の器を、両の掌で大切そうに包み込んだ。その様子に目を細め、満足気に笑った菊田は、自分のと律のお猪口に酒を注ぐ。
「律。」
菊田は酒を一口呑むと、真剣な目をして律を見た。
「はい。」
雰囲気の変わった菊田に、律は心構えをする。この小旅行はきっと、これからある話の為のものだろう。
「近々登別を発つことになった。暫く会えなくなる。」
「・・・はい。」
「驚かないんだな。」
「療養が終われば、お仕事があるのは分かっていましたから。」
そう言って寂しそうに笑う律に、菊田は目を伏せる。
今日は初めから心が落ち着かなかった。律は菊田の優しすぎる眼差しに、心がざわついていた。目が合っても、彼はどこかもっと遠くを見ている様だった。まるで”これが最後”だと言われている様な、そんな気がしていた。
「どのくらいですか。」
「分からねぇ。年単位になるかもしれねぇな。」
「年単位・・・。」
そもそも律は、いつまでこの時代にいるのだろうか。帰れるんだろうか。帰りたいんだろうか。帰りたくないのだろうか。二人は口には出さないが、ずっと同じことを思っていた。それでも、互いの想いを受け入れる覚悟をしたと言うのに。
同じ時代にいても共に在るのが難しいということが、明治の世の厳しさを物語っている。
「大丈夫、大したことはねぇ。必ず戻るよ。」
嘘を吐いているのだと、直感が告げる。”必ず”だなんて、つける必要があっただろうか。律は表情を曇らせた。
「そんな顔するなよ。」
菊田は甘く優しい嘘を吐く。それが何より残酷だと分かっていながら。なんて狡くて、酷いのだろう。
でもその嘘に気づかないふりをしてあげられない自分も、大概狡いと律は思う。彼が自分の事を忘れぬ様に、引きずる様にと、それが痛みとしてでもいいからと。この汚れた思いは、きっと罪になるだろう。
でもそれは彼も同じこと。菊の花の紅を見る度に、自分を思い出させようとしているのだから。
「嘘吐き。」
律は菊田を見据え、呟いた。その声や表情は淡々と、しかしどこか優し気に。彼が嘘を吐いたことに、罪悪感を持てばいいとすら思って。
「・・・おいで。」
菊田は椅子を引き、両手を広げて見せた。少しの間の後に律が傍に来れば、菊田は彼女を引き寄せ膝に乗せる。その間静かに見つめてくる律の視線から、菊田は逃れる様に、正面からゆっくりと抱き締めた。すり寄る様に抱き締め返す律に、腕の力を強める。
二人はそのまま暫く、言葉も無くただ抱き締め合う。この時間が物語っている。これから菊田は危険に晒される事。それを律は察している事。
今はただその温もりを記憶に刻もうと、二人は互いの存在を確かめ合った。