刹那/菊田
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「は、初めて乗りました。」
二人の男女を乗せた馬が、山道を緩やかなペースで駆けている。まだ辺りは薄らと明るく、ひらけた場所を通っている為、松明は辛うじて使わずに済んでいる。
手綱を握る菊田に背後から包まれる様にして、律は馬に横乗りしている。
自身の胸に身体を預け、すがる様に腕を回して来る律に、菊田の口角はどうしても上がる。
「役得だな。」
片手は手綱を握ったまま、もう片方の手で律の腰を引き寄せた菊田は、彼女の頭に唇を寄せた。
落馬への恐怖か、はたまた菊田の温もりによるものか、律の心臓はばくばくと落ち着かない。ちらりと菊田を見上げれば、真っ直ぐに前を見据えるその表情は、どこかいつもより凛々しく見えた。
十五分も走れば着くという菊田の言葉を思い返し、律は揺れる馬の背の上でバランスを取る事に集中した。
「着いたぞ。」
そこは小さな旅館の様だった。
先に馬から降りた菊田は律に腕を伸ばし、抱き止める様にして彼女を降ろしてやる。
辺りはすっかり闇に覆われ、空には無数の星が瞬いている。
菊田は小屋に馬を繋ぐと、律を暖かな明かりの灯る宿へと
旅館のロビーには、小さな暖炉に焚べられた薪がぱちぱちと音を立てている。その前のソファに深く沈み込み、うたた寝をしている老婆がいた。小さな老婆は、着物の上からフリルのついたエプロンをつけている。
「すみません。」
菊田が声をかけると、老婆はぱちりと目を覚ます。老婆は菊田を見ると、「あぁ。」と納得したように頷いた。
「お待ちしておりましたよ。お部屋にご案内致しましょう。」
老婆はゆっくりとした動きでソファから降りると、穏やかに笑った。
旅館は小さく古いが、手入れが行き届いている。丁寧に磨かれた調度品や家具たちは、控えめでセンスが良く、心が落ち着いた。
「素敵なところですね。泊まるんですか?」
老婆は二人を2階の和室に通すとにこりと笑い、ゆっくりとした動作でお辞儀をして戻って行った。
菊田と律は、外套を脱いでコートハンガーに掛ける。部屋は和室だが、石油ランプやステンドグラスの装飾などがモダンな装いを凝らしていた。窓の傍には床板が敷かれ、そこには向かい合うように小さなソファが二つ置かれている。
「泊まろうか。」
部屋の中を歩き感嘆の声を漏らす律に、菊田は笑いを含んで言った。
その妙な言い回しはまるで子供をあやすかの様で、律は可笑しくなる。
「すぐ側に秘湯があるんだよ。」
菊田は言いながら窓際のソファに腰掛けた。
「温泉ですか!」
律が通っている銭湯にも登別温泉の湯が使用されているらしいが、律は実際に沸いている温泉に浸かれることに胸を高鳴らせた。
「・・・混浴ですか?」
「不満か?」
菊田は元着ていた浴衣のまま、律は旅館の浴衣に着替え、歩いて五分ほどの秘湯へ来た。来たのだが。秘湯は勿論一つしかなく、これまた小さい。
律の反応に「そりゃそうだろ」と笑う菊田は、隊服の上着を脱ぐと、浴衣の帯を解き始めた。
「初めて見るわけでもあるまいし。」
「・・・それはそれです。」
秘湯を前に立ち尽くし菊田に背を向ける律に、菊田はやれやれと、唯一の明かりである石油ランプを吹き消す。
「これでいいだろ。」
「・・・はい。」
##NAME##は菊田と人一人分の距離を空けて湯に浸かる。その様子に、菊田は律と出会った日の事を思い出した。
「律、おいで。」
暗くてよく見えないが、どうやら両腕を広げているらしい菊田に、律は戸惑う。しかし一向に腕を下げようとしないその男に根負けし、結局律はその腕に収まった。
律は菊田の胸に寄りかかる様にして、後ろから抱き締められながら湯に浸かる。少し熱めの湯温に、すぐに逆上せてしまいそうだと律は思った。
温泉には明かりが無い分、月と星とが綺麗に見えている。
「杢太郎さん。」
「んぇ!?」
突然に、初めて下の名前で呼ばれた菊田は、びくりと肩を揺らした。
「覚えてますよ。」
「・・・有古め。」
有古が律に何を話したのか察してしまった菊田は、恨めしい気持ちと感謝の気持ちとがせめぎ合っている。しかしくすくすと笑う律に、菊田は感謝しとくかと小さく笑った。
「もっかい。」
「杢太郎さん。」
「ん。」
菊田は抱き締めている律の肩口に顔を埋める。その菊田の頭に、律も頭を傾けて寄せた。