刹那/菊田
名前変換
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菊田と律が心を通わせた夜から、一週間と数日。菊田が律の元へ顔を出す事はなかった。しかしその間二度程、有古が様子を見に来てくれた事で、律は菊田との繋がりを感じることができている。
「律、変わりはないか。」
昼前頃。玄関の戸を叩く音がして開けてみれば、有古が顔を覗かせた。
「大丈夫。わざわざありがとう。」
律は有古を招き入れると、茶の準備をする。有古は慣れた様子で部屋に上がると、ちゃぶ台の前に胡座をかいた。
「頼むから、戸を開ける前に相手を確認してくれ。」
有古の切実な表情と物言いに、律は素直に頷く。ただ物騒だからという訳ではなさそうだったが、律はそれについて言及しない。
有古は菊田の任務について具体的な内容を口にすることはないが、その表情や言葉の端々から、きっと危ない橋を渡っているのだろうと律は察する。有古が端々で言葉を濁すということは、きっとそういうことなのだろうと。
「そう言えば、名前を覚えてくれていないんじゃないかと嘆いてたぞ。」
「え?菊田さんが?」
「あぁ。覚えてないのか?」
「覚えてるけど・・・。」
ちゃぶ台を囲んで茶を啜っていると、有古が思い出した様に聞く。"菊田さん"で定着してしまっていた為、確かに名前で呼んだ事はないなと律は思い返した。
「やきもちを妬かれて困る。名前で呼んであげてくれ。」
有古は菊田に腹いせで殴られた、肩の辺りをさすって言った。
「やきもち・・・。」
目を丸くする律に、有古は気になっていた事を聞く事にした。
「菊田特務曹長殿とは、その、恋仲なのか?」
「えっ。」
更に目を見開き固まる律の顔は、みるみるうちに赤くなっていく。その様子に有古は確信を得る。
「そうか。」
それだけ言って優しく笑う有古に、律は動揺を誤魔化す様に茶を啜った。
暫く雑談をしたのちに帰って行く有古を見送ると、律は仕事の為に家を出た。
「いらっしゃい。」
律が定食屋の炊事場で洗い物をしていると、入り口の戸が引かれる音と共に、女将の声が聞こえてくる。律がそちらを向くよりも先に、「律!」と女将の呼ぶ声がした。洗い物の手を止めて店先の方へ顔を覗かせると、そこにいた菊田が頬を緩めた。
「菊田さん!」
つい顔を綻ばせる律に、女将は休憩だと言って、追いやる様にして菊田と合席させる。ついでに律が着ていた割烹着も剥ぎ取って行った。
外套を脱いだ菊田は、律と向かい合う様にして座る。着流しに軍服のジャケットを羽織っているその姿に、律はつい見惚れた。
「愛されてるな。」
女将とのやり取りを見てくつくつと笑う菊田に、律も釣られて恥ずかしそうに笑う。この様子なら心配ないなと、菊田はひっそりと目を伏せた。
「この間はご馳走様でした。」
菊田は注文をとりに来た女将に、何やら包みを手渡した。
「あらあらまぁまぁ。ここの美味しいのよねぇ。主人の大好物だわ。あんた!軍人さんから!」
台所にいる店主に、女将は包を持ち上げる様にして見せる。
「そりゃいいや。」
「詰まらせんでくださいよ。」
「老いぼれと思って舐めるんじゃねぇよ!」
軽口を叩く菊田に、店主は台所からにかっと笑った。その様子につい律が笑うと、菊田は片目を閉じて見せる。この間の酒のお返しにと、律から店主の好物だと聞いた団子を買ってきたのだろう。
「来られなくて悪かったな。」
女将が運んできた定食に箸をつけながら、菊田は口を開いた。
「いえ、お忙しいとイポㇷ゚テから聞いてましたから。」
「ふぅん。浮気すんなよ。」
菊田は面白くなさそうに箸を持った手で頬杖をつくと、口角をあげて律を見つめる。
「菊田さんこそ。」
「お前で手一杯だよ。」
不貞腐れた様に言う律に、菊田は口元を緩め、目を細めた。律の照れ隠しはあっさりと見抜かれてしまったらしい。
「私もです。」
律は呟く様に言うと、目を伏せて味噌汁の椀に口をつけた。
「律、食べ終わったら今日はもう上がりなさい。久しぶりなんだろう?」
少し離れた卓を拭いていた女将は、タイミングを見計らった様に律に声を掛ける。まだ上がるには早い時間に、律は「でも」と言いかけるが、客も少ないし大丈夫だと押し切られてしまった。
食事を終え、律と共に店を出ようとした菊田は振り返った。
「女将、明日一日、律をお借りできませんか。」
唐突な申し出に、律は小首を傾げて菊田を見上げる。
「勿論、貴方のでしょう。」
見送りについてきた女将は、口元に手を添え上品に微笑んだ。律は顔に熱が集まるのを感じ、ついちらりと菊田の顔を盗み見る。手の甲を口元に当てている菊田の耳は、赤く染まっている様に見えた。律の視線に気づき顔を逸らすと、菊田は女将に礼を言って外へ出てしまう。
取り残された律は目を丸くして、女将と目を合わせる。女将は悪戯っぽく笑って見せると、律の背中をぽんと押した。
「あの、菊田さん。」
女将に背中を押されるようにして店から出た律は、こちらに背を向けている菊田に声を掛ける。
「そういう設定だった筈が、本当になっちまったな。」
菊田は気まずそうに振り向き律の手を取ると、その手を見つめて呟いた。
眉を下げ、照れた様な菊田の表情に、律の鼓動は速くなる。初めて見せるその表情は、律の心を満たしてゆく。
「さて、行こうか。」
連れて行きたいところがあると言うと、菊田は律の指に自身の指を絡めて歩き出した。
空は夕暮れを少し過ぎ、薄らと星が瞬き出していた。