短編
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「はぁ、情け無い・・・。」
律は風邪を引いていた。船に乗り、樺太の玄関口である大泊港に辿り着いたのは今朝のことだった。
網走監獄の一件があり、確かに相当疲弊していた。挙句アシリパ達とは散り散りになり、杉元は頭に銃弾を受けて重傷を負い、鶴見の手中に収まっての休養期間は休まった気がしなかった。それからの慣れない船旅で、律は体調を崩してしまった。常に探るような視線を向けてくる鶴見からようやく離れられたことに、安堵したことも原因かもしれない。
今は借りた宿の部屋に布団を敷き、律はそこに横になっている。
「ごめんね律さん、色々と大変だったよね。俺たちは聞き込みに行ってくるけど、ゆっくり休んでて。宿には律さんが休んでること言ってあるから、何かあったら宿の人を呼ぶんだよ。」
横になる律のすぐ傍らに、杉元が座っている。杉元は彼女の額に置いてあった手拭いを取ると、枕元に置いてある桶の水に浸した。
「佐一くん、ごめんなさい・・・。私も動けますから、私に気を遣わず進んでくださいね。足手纏いにならないようついて行きますが、駄目なら捨て置いて下さい。これは遠慮ではなく、お願いです。」
「律さん・・・。」
杉元はぐっと口元を結ぶと、律の額にそっと手を乗せ、「熱い・・・」と呟いた。
「・・・うん、そうするよ。それを律さんが望むなら。今回の旅は月島軍曹や鯉登少尉がいるから気を張っているかもしれないけど、俺にくらいは少しは甘えてほしいな。」
「佐一くん・・・。」
杉元は苦しそうに眉間に皺を寄せながらも、目一杯優しい顔で微笑んだ。律は居た堪れなくなって手を伸ばすと、杉元の頬にそっと触れた。にこりと微笑む彼女に、杉元は思う。
なんの因果か120年ほど先の未来から時を越え、自分達と出会った律。元いた時代は戦もなく平和なのだと言う。生活もずっと良くなっているらしい。そんな彼女がこの時代で、ましてや森の中を移動したりなど、きっと想像を絶する過酷さだろう。いつ死ぬかわからぬような慣れない暮らしに手いっぱいなはずの彼女が、自分の事よりも何よりも、アシリパや自分達のことを最優先に考えている。それが意地らしく愛おしくも、寂しいと思わずにはいられなかった。
杉元は自身の頬に添えられた律の手を、自身の手で上から包み込んだ。
「律さん。俺はアシリパさんを助けたい。それは絶対だ。でもね、同じくらいに、律さんのことも大切に想っているんだよ。だから律さん、俺からもお願い。俺を頼って。」
律の手から自身の手を離すと、律も布団の上に手を下ろした。杉元は離した手をそのまま伸ばすと、彼女の髪を撫でる。熱に浮かされる律は、その心地よさに目を細め、微笑む。
「私もね、アシリパちゃんも、白石くんも、谷垣さんも、もちろん佐一くんも。みんなとても大切なの。何もわからない私を助けてくれて、本当に感謝しているの。でもそれだけじゃなくて、みんなの事を知っていくうちに、いつの間にか愛おしくなってた。」
「白石と同列かぁ。」
軽口を叩くが、杉本は堪らなくなって、律の髪を撫でていた手をその頬へと滑らせる。熱い。本当はこのまま傍に居てやりたい。親指で律の頬を撫でてやると、彼女は恥ずかしそうに少し目を伏せた。
「さあ、行って。」
心を見透かされたのかと思った。伏せていた目を力強く上げた律に、杉元は頷く。杉元は水桶から手拭いを掬い上げ固く絞ると、律の額に乗せてやった。
「行ってくるね。ちゃんと休んで、待ってて。」
「ふふ、行ってらっしゃい。」
部屋の襖の前でその一部始終を聞いていた鯉登と月島は、杉元が出てくる前に静かにその場を去った。
律は、額に触れたひやりとした感覚で目を覚ました。夕暮れらしく、部屋は
「鯉登少尉・・・?」
自身の額に乗せられているのが鯉登中尉の手であることに驚き、律は目を丸くする。
「すまない、起こしてしまったか。」
真面目そうな凛とした表情で此方を見下ろす褐色の美丈夫を、夕日が照らしている。律はそれを美しいと思いつつも、鶴見の部下である鯉登に、僅かに身体が強張った。
それに気づいた鯉登だが、気付かぬふりをして几帳面にシャツの袖を捲っていくと、桶の水に浸した手拭いを絞った。多少は下がったようだがまだ熱もあり、目の前の光景に頭のついていかない律は、ぼおっとそれを眺めている。
「不死身の杉元は馬鹿力で固く搾りすぎだ。繊細さの欠片もない。」
鯉登は「フンッ」と鼻で笑いながら、程よく絞った手拭いを律の額に乗せてやった。ひやりと湿った手拭いが心地よく、緊張に強張っていた律の身体からほんの少し力が抜ける。その様子に、鯉登はふっと口元を緩めた。
「あ、あの、お手を煩わせてすみません・・・ありがとうございます、鯉登少尉。」
「構わん。」
じっと律を見つめる鯉登は、先程の杉元とのやり取りを思い出していた。
「随分彼女に入れ込んでいるようだな、不死身の杉元。」
「あ?」
杉元と律のやり取りを盗み聞きしていた鯉登と月島は、宿の外で待機していた風を装い、杉元を迎えた。鯉登の挑発に、杉元は額に青筋を浮かべて喰らいつく。
「彼女の想いも知らねぇで、よくもそんな口が聞けたな。」
「何?」
「律さんはな、俺やアシリパさんだけでなく、鯉登と月島、お前らの身も案じてるんだぞ!誰も傷つきませんようにって。」
鯉登と月島がこっそりと部屋を離れた後、そんな話をしていたとは。鯉登と月島は何も言えなくなる。
「誰も傷つかないなんて無理な話だって分かってるんだよ。分かった上で律さんは、少しでも関わってしまった人達の無事を願わずにはいられねぇんだよ!」
荒々しく歩き出す杉元の背中を眺めながら、鯉登は心拍数が上がっていくのを感じていた。月島はそんな鯉登の様子に気付き、「鯉登少尉、行きますよ。」と声を掛ける。しかし月島も心を乱されているのだと、鯉登はその目を見て確信した。
「律。」
「は、はい。」
鯉登に初めて下の名前を呼ばれ、律は驚いた。今までは鯉登は、律を上の名前で呼んでいた。
「第七師団と杉元は、今こそ手を組んでいるが、いつ敵になるともわからん。だが、私はお前を憎く思ってはいない。この旅を共にするんだ。律のことは私も護ろう。」
「え・・・」
「護られているのは性に合わんかもしれんが、私がそうしたくてするんだ。まだ信用がないかもしれんが、私の事も頼って欲しい。」
鯉登は、布団に投げ出されている律の手を取ると、その一回り大きなごつごつとした手で優しく握った。
「鯉登少尉・・・ありがとうございます。」
初めて、気を許してもらえたようなその微笑みに、鯉登はどくどくと鼓動が早くなり、顔に熱の集まるのを感じる。今が夕暮れ時で良かったと思った。
「・・・お前は・・・いや、いい。」
「なんです?」
「いや・・・」
「いつか元いた時代へ帰ってしまうのか?」などと、鯉登にそんなことは聞けなかった。帰る方法はまだわからないと聞いていたから。網走の後暫くの療養中、律から元いた時代の話を聞いたことがあったが、彼女はなんでもないように振る舞っていた。今聞いても、辛いことを思い出させてしまうだけだろう。彼女はいったいどんな思いで、今、ここにいるのだろうか。その苦悩は計り知れなかった。
それなのに己の身まで案じていると言うこの女性を、どうして護らずにいられるだろうか。
鯉登は握っているその華奢な手を、今一度ぐっと握り直した。
「鯉登、さん?」
熱の込められたその視線と、握られた手の温もりに、律は風邪とは別に顔に熱が集まるのが分かった。
「あ、あの、鯉登さん・・・」
律が握られた指先をぴくりと動かすと、鯉登はびくっとその手を離し、大きくのけ反った。
「すすすすまんっ!おなごに触るっなどどうかしちょった!なんとお詫びしたやよかか、悪かった!許せ!」
「キエェェェ!」と猿叫しながら鯉登はペコペコ頭を下げると、ものすごい勢いで部屋を出て行った。
「ふ、ふふ・・・」
一人取り残された律は呆気に取られたが、次の瞬間にはつい笑いが溢れた。
「可愛い人。」
部屋の外で呼吸を整える鯉登はその言葉を耳にしてしまい、血が湧き上がるかと思うほど、身体がカッと熱くなった。
鯉登は壁に背中をつき、ズルズルと崩れ落ちていく。
「はぁ、おいん方が先に出会うちょったら・・・。」
呟いた言葉は、誰にも届かず消えていった。