短編
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「すみません、ちょっとお手洗いに。」
佐倉律は会社の飲み会に参加していた。そこそこに気心の知れた女性社員数人と固まって飲んでいたはずが、皆酔いが回ってくると思い思いに席を移動し始め、いつの間にか上司のお酌係や、つまらない自慢話の
下心見え見えの男性社員に酒を飲まされそうになったりとそろそろうんざりして来た頃に、律は愛想笑いを浮かべて、手洗いを口実に席を立った。
「はぁ。ダル。」
化粧室で軽く化粧を直しながら、鏡の中のうんざりした表情の自分と見つめ合った。
「偉いぞ佐倉。あんたはよくやってる。後少しの辛抱よ。」
誰もいないのをいい事に、鏡の中の自分に激励を飛ばし、次の瞬間には阿呆らしくなって乾いた笑いが
そう言えばあの子は上手くいってるかなーなど、この飲み会で進展を得たいと意気込んでいた同僚の恋の行方に思いを馳せたりしながら、律は化粧室を出た。
「あ、佐倉ちゃん。」
化粧室を出るとすぐ、二〜三つ先輩の男性社員に声を掛けられた。たまたまを装っているが、まるで自然では無いその様子に、正直溜め息が出そうになったがぐっと堪える。
「お疲れ様です。」
軽く口角を上げて応えその場を去ろうとすると、男性社員に腕を掴まれた。ぞわぞわとした感覚が、掴まれた腕から背中を通り、首筋へ抜けていった。
「あ、大丈夫かなと思って。結構飲まされてたでしょ?」
事実、そこそこ飲まされていた律は、ややフラフラしている。しかし意識ははっきりしているし、この丁度いい酒回りのまま、この飲み会をお暇したいと思っていた。
「大丈夫です。ありがとうございます。」
律はさりげなくその男の手を離そうと腕を引いたが、そのまま今度は手を取られてしまった。正直不快感がすごい。仕事上話をする分には全く問題ないが、こちらにその気がない以上、必要以上に触れられたりするのは話が違ってくる。
「酔った佐倉ちゃん、可愛いから、心配で・・・」
握られた手とその発言に、卒倒しそうになる。眉間に皺が寄りそうになるのを堪えはしたが、きっと今の自分の作り笑顔は引き攣りまくっているだろうと律は思った。
「よぉ、偶然だな。」
突然、後ろから低い声がしたかと思ったら、左肩を掴まれ、後ろに引かれた。予期せぬ力に身体はぐらりと揺れ、声の主に寄りかかってしまった。突然の事に、男性社員の手は離れた。驚いて振り向くと、知らないスーツ姿の男が、寄りかかった律を受け止めていた。
律は内心(誰・・・?)と思ったが、にこりと笑うその男の助け舟に乗らない手は無かった。
「わ、久しぶり。」
「折角だから少し話そうぜ。・・・あぁ、もしかしてお取り込み中だったか?」
にこにこと胡散臭い笑いを浮かべていたその男は、先程まで律の手を握っていた男性社員を睨みつけた。男はガタイが良くそれだけでも充分な威圧感だが、その様相はおぞましく、すぐ側で見上げていた律は、自分へ向けられたわけではないのに竦み上がる程だった。案の定、それを一身に受けた男性社員は引き攣った顔をして「あ、いえ、お知り合いなんですね。」と後ずさって行くと、足早に化粧室に逃げ込んでいった。
「ははぁ、情けねぇな。」
助け舟を出してくれたその男は、ツーブロックに刈り上げ、前髪から頭頂部のあたりだけ伸ばした髪を撫で付けて笑ってる。その表情は読み取りづらいが、愉快そうなのは伝わって来た。
「あの、ありがとうございました。助かりました。」
頭を下げると、男は「ふふん」と前髪を撫で付けながらドヤ顔をしている。なんだか捕らえた獲物を飼い主に見せつけている猫みたいだな、などと律は失礼なことを考える。
「ああ言っちまったからな。怪しまれると面倒だろ、ちょっと外出ようぜ。」
律が丁寧にお礼を言って席に戻ろうとすると、男はそう言って律の背中を軽く押し、店の外へ
誘われるまま外へ出ると、灰皿が設置してあった。「吸ってもいいですか?」と律は煙草を取り出す。「あぁ、吸うのか。俺も吸う。」と男も煙草を取り出した。
律は煙草に火を点けると、ゆっくりと煙を吐き出した。ふと隣に目をやると、男は火の点いていない煙草を咥え、あちこちポケットを
「火、貸してくれ。」
目が合うと男は律に言った。律が「勿論」とまた煙草の箱をポケットから取り出そうとすると、男にそれを制された。
「?」
律はよくわからず男を見上げると、男は律の咥えている煙草を指差し、そのあと自分の咥えた煙草を指差した。
意味がわかった律は動揺して、呆気に取られた表情しか出てこなかった。男は咥えたままの煙草を指で摘み、そして反対の手で律の顎に手を添え上を向かせる。男は煙草と煙草の先を合わせると、息を吸い込み、貰い火をする。伏せてあるその長い睫毛に、煙草を咥えた形のいい唇。それらがジリジリと音を立てる煙草の火を受けて、夜の闇に艶やかに浮かび上がった。
男は火を受けると、屈むようにしていた体勢からゆっくりと起き上がり、律の顎から手を離した。
律は一瞬の出来事にその男から視線を逸らせないでいた。
「ふぅっ」と煙を吐き出した男は、額に落ちてきた一束の前髪をかきあげながら律に視線をやると、口角を上げた。
「尾形百之助」
名乗られたのだと気づいた律は我に返った。
「あ、佐倉律です。」
律は、この尾形という男はなんとまぁ色っぽい人だろうと、不意に笑えてきた。
「さっきはタメ口だっただろ。タメ口でいい。」
「さっき・・・?あぁ、一芝居打った時。」
「あれは面白かった。」
「ははぁ」とまた愉快そうに笑う尾形に、律も先ほどの光景が思い出されて笑った。
「律。」
下の名前で呼ぶのかとなんと無しに思っていると、尾形はスラックスの尻ポケットから携帯を取り出した。
「近々飲み行こう。」
成程、連絡先かと思い至り、律は自身の携帯を取り出し、連絡先を交換した。初対面だったが、助けられたこともあり、ナンパのような事をされても不思議と嫌では無かった。もしかしたらお礼に奢れという事なのかとも考えた。
「尾形さん。」
「百之助。」
「百之助さん。」
「さんはいらん。」
初対面で名前を呼び捨てにするのはなんだか気が引けたが、望まれているならいいのだろう。
「百之助。」
「なんだ。」
「いや、忘れないように呼んだだけ。」
煙草を吸いながら、尾形は律をじっと見つめた。
「戻らなきゃダメか?」
真っ直ぐに見つめてくる尾形に、律は自惚れそうになる。
「会社の飲み会だからなぁ。」
尾形はふっと笑うと、煙を吐き出した。
「真面目だな。」
律は面倒な酒の席を思い出し、遠い目をする。
「そうでしょ。百之助は誰と飲みにきたの?」
「腐れ縁の男共。むさ苦しくて敵わん。」
きっと仕事終わりに、飲みに来るほど仲がいいのに?と、言葉には出さなかったが、律は笑った。
律が煙草を一口吸うと、ふと反対の手に、するりと尾形の手が伸びてきた。手を掬い上げられ、手の甲を親指で撫でられるその感覚が、律はなぜか嫌では無かった。
酔っているのかもしれない。
律は、撫でられている手をぼんやり眺めている。
「律。連絡する。」
その言い聞かせるような優しく低い声に、律が顔を上げると、尾形の優しくも射抜くような視線と交わった。
「そんな事言っておいて、連絡来なかったら怒るから。」
律にじとっと睨まれると、尾形は満足そうに笑った。しかし次の瞬間には何か考えるような顔になり、自身が持ち上げている律の手を見つめる。
「・・・いや、ダメだな。」
「はぁ?」
律は眉間に皺を寄せた。やっぱり彼女がいるとか言い出すのだろうかと、手を引こうとすると、尾形はその手をぐっと引いた。
「ちょっ」
バランスを崩し、引き寄せられた律が見上げると、すぐ側に尾形の顔があった。尾形は律の掌に自身の掌を重ね合わせ、するりと指を絡ませる。
「先延ばしにしたら確約がないだろう。付き合おう。」
「え。」
短くなった煙草の灰が落ちた。
「また会いたい。それじゃダメか。」
ダメじゃない。ダメじゃないが、あまりの唐突さに言葉が出てこない律に、尾形は絡めた指に力を込める。
「次に会うまでの間に、他の男に取られたくない。」
あまりに真っ直ぐ目を見ていう尾形の整った顔につい見惚れ、律は言葉を紡いでいた。
「うん、わかった。付き合おう。」
尾形は満足のいく返答に「ははっ」と笑うと、片手は煙草、もう片手は律と指を絡めたまま、律に触れるだけの口付けを落とした。
煙草の香りのするその口付けは、なぜか甘く感じた。
その後尾形は煙草を灰皿に捨てると、律とは別の席へ戻った。
「ちょっと尾形ちゃん遅くない!?てかさっきの美人さん誰!?」
「彼女が出来た。」
「はぁ!?お前なにさらっとナンパしてんだよ!俺が先に目付けてたのに!」
白石と杉元が騒ぐ中、尾形は「ははぁ」と前髪を撫で付ける。
「俺が可愛いなってさっき話してただろ!」
「ははぁ、さっさと行かないのが悪い。」
「尾形ちゃんずるい!なんでそんな事になったのか教えてぇ!」
尾形は残っていたビールに口をつけると、少し離れた席に戻った律を見る。作り笑いで男の話し相手をしているその姿に、嫉妬心が芽生えた。と同時に、確約を得ておいて正解だったと思った。
「必要な時に助けに行けなかったのが敗因だな、杉元。」
「絡まれてたのか。」
悔しそうに拳を握る杉元を無視して、白石がずいっと尾形に詰め寄る。
「でもさ、この短い時間で付き合っちゃうってことは、よっぽどグッときたって事だよな!?」
そう、たったの煙草一本分。
熱に浮かされたような甘いあのひと時は、およそ五分くらいの出来事だった。
「あぁ、そうだな。」
珍しく穏やかに笑う尾形に、白石と杉元は顔を見合わせた。
「手ぇ出すんじゃねぇぞ。」
睨みつけて制する尾形に物怖じしない二人は、律をちらりと見る。
「それは尾形次第だな。」
「隙見せたらわかんないよ〜。」
コイツらは案外モテる。なるべく近づけないようにしなければと、尾形はそう思ったのだった。