短編
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
律は一人、Bar『兎』のカウンター席で飲んでいた。店の一番奥、カウンターの一番左端。そこが律の好む席だった。店には長いカウンターと、小さなテーブルが二つ。客はまばらに入っている。そのこじんまりとした店は、学生時代の同級生である宇佐美時重が経営しているBarだった。
律と宇佐美は学生時代に特に親しかったわけでもなく、面識があるくらいだった。律はある時たまたま、女友達と二人で立ち寄ったBar『兎』で宇佐美と再会し、思い出話に花を咲かせたのだった。
それからというもの、律の会社から近いのもあって、一杯飲んで帰りたい時に時々立ち寄るようになっていた。
正直、律は学生時代は宇佐美のことをあまり得意ではなかった。宇佐美は顔こそ綺麗で、細やかな性格も相まってよくモテたものの、棘があり喧嘩っ早く、律からしたら怖い印象が強かった。正直近づき難い男だった。しかし再会した時は雰囲気が随分と柔らかくなっており、一緒にいた友達なんかは随分と宇佐美にご執心なようだった。大人になったんだなと、律は感心していた。
「どう?口に合った?」
律の顔を覗き込んだ宇佐美は、柔らかい笑顔で尋ねた。
「うん、美味しい。これ好き。」
どちらかといえば酒には弱く、詳しくもない律は、その日の気分でフレーバーをオーダーし、あとは宇佐美にお任せしてカクテルを作ってもらっている。今日はさっぱり甘めでというと、桃はどうかと提案された。それに頷くと、出て来たのはピーチソルベの様なカクテルだった。
「よかった。律は甘いのが好きだね。」
目を細めてふわりと微笑む宇佐美に、律はつられて微笑み返した。学生の頃は怖かったのに、今はこの時間が心地いい。
カランカランと、店のドアベルが鳴った。
「こんばんは。お好きなお席にどうぞ。」
ふと宇佐美が声をかけた方を見ると、律の会社の上司がそこにいた。
「あ」
「お?」
律はその上司、菊田と目が合った。菊田は律が新入社員の頃から何かと助けてくれる、頼りになる先輩だった。
「会社の人?」
この店が律の会社から近いことは宇佐美も知っており、律に尋ねる。
「うん、上司。部長なの。」
何度もこの店に通っているが、律がここで会社の人と鉢合わせるのは初めてだった。
「会社近いもんね。」
「そういえばそうだった。」
菊田は律の方に近づいてくる。
「お疲れ。隣いいか?」
「あ、はい、どうぞ。お疲れ様です。」
菊田は宇佐美にハイボールを頼みながら、律の隣に座った。
「こんなところで佐倉と会うとは思わなかった。酒飲めたのか。」
「弱いんですけど、彼が優しいお酒を作ってくれるんです。」
「彼?彼氏か?」
菊田はチラリと、美しい所作でハイボールを作る宇佐美を見た。
「ふふ、違いますよ。同級生なんです。」
「ふぅん。随分綺麗な顔してんな。」
「確かに学生時代はモテてたみたいです。」
すっと、菊田の前にハイボールが滑る様に差し出された。
「律の彼氏候補、と言ったところです。今の所。」
宇佐美は「ね、」と律に微笑みかける。菊田は頬杖をつき、様子を窺う様に黙って二人を見ている。律はというと、少し離れたカウンター席の女性二人の鋭い視線に縮こまっていた。
「宇佐美君は本当、そういうところ。」
「違うの?」
「今初めて聞いた。」
律が困った様にじとっと宇佐美を見ると、宇佐美はくすくすと笑っている。律は菊田に向き直り、グラスを持ち上げた。
「お疲れ様です。」
「お疲れ様。」
軽くお互いのグラスを合わせ、律と菊田は一口酒を飲む。その間にも先ほどの女性たちに話しかけられた宇佐美は、にこやかに会話をしつつも、律と菊田の様子を窺っている。その事に菊田は気付いている。
「ここにはよく来るのか?」
「うーん、時々、珍しくお酒が飲みたくなった時は寄りますね。」
「へぇ。意外だな。飲み会なんかではほぼ飲んでないだろ。」
「そうですね、お酒を飲んだら体調が悪くなるか、調子が良くてもすぐ眠くなっちゃうので・・・でも宇佐美君は私が弱いのを知った上で優しいのを作ってくれるので。しかも美味しいから、さらっと飲めちゃいます。」
「これは?」
また頬杖をつきながら、菊田は律のグラスをつんと突いた。
「今日は桃です。」
「一口いい?」
「え?甘いですけど、それでも良ければ。」
ドキッとしつつ、律が自身のグラスを菊田の方へずらすと、菊田はそれを少しだけ口に含んだ。
「甘いな。こりゃジュースだ。」
くくっと喉を鳴らして口角を上げる菊田の目は揶揄いを含んでおり、律はグラスを奪い返す。
「馬鹿にしましたね。私には充分なんです。」
「はは、悪い悪い。怒るなよ。」
むすっとしてみせる律の背中をポンポンと叩くと、菊田は優しく笑った。
「こっちも飲んでみるか?」
「ハイボールですか?あまり飲んだ事ないかも・・・」
一杯飲むには律には強いが、一口なら興味があった。菊田に差し出されたハイボールを一口飲む。炭酸と、少しほろ苦い様なキリリとした味に、ふわりと柑橘の香りが鼻を抜けた。
「どう?」
「あ・・・美味しいかも・・・」
「一歩大人になったじゃねぇか。」
また揶揄う様に小さく笑っている菊田は、右手で頬杖を付き、律のことを見つめている。その色っぽい仕草に戸惑いながらも、律はグラスを菊田に押し付けた。
「もう、子供扱いしないでください。」
菊田は一瞬黙る。口角こそ上げたままだが、その目は静かに律を捉えた。
「してないよ。」
菊田は頬杖をついていない方の左の手を、滑らせる様に、律の太腿の上に置いた。
「子供扱い、してない。」
律は突然の事に、顔に熱が集まるのがわかった。心拍が上がる。折角優しいお酒を作ってもらったのに、酔いが回って来たのがわかった。職場では見たことのない、菊田の色っぽい視線と甘い声は、律の身体をじんと痺れさせる。僅かに残っていたカクテルを、律は誤魔化す様に一口で飲み干した。
「大丈夫か?酔ってる?」
律は力の入らない目で、菊田を見る。
「・・・ちょっと、酔ってるかもしれません。」
菊田は熱っぽい目で微笑み律を見ると、その太腿に置きっぱなしになっていた左手の親指を、撫でる様にするりと動かした。自身の視線に囚われて逸らせないでいる律の色っぽい瞳に、菊田はぞくぞくとしたものを感じた。ふとその手を離すと、菊田も残りのハイボールを一気に飲み干し、「会計」と宇佐美に声をかけた。
「もうお帰りですか?」
全てではないが、律と菊田とのやり取りを目の端に捉えていた宇佐美は、菊田に静かで、且つ刺す様な視線を送った。
「あぁ。二人分。」
「あ、いえ、私の分は——」
慌てて財布を出そうとする律を、菊田は制した。
「こういう時は上司に奢られとけ。」
「じゃあ・・・お言葉に甘えて。ありがとうございます。」
(上司、ね。)
宇佐美は笑顔で会計を進めるが、そのやや伏せた目は冷たい色をしている。会計が終わると、宇佐美はいつもの優しい顔に切り替え、律の顔を覗き込んだ。
「律、酔った?裏で休んでいく?」
心配そうな顔の宇佐美に、律は慌てて手を振る。
「ううん、大丈夫、ありがとう。また来るね。」
「・・・そっか、気をつけてね。まってる。」
笑顔で返されると宇佐美はそれ以上なす術がなく、辛うじて笑顔を取り繕った。律がそのやや上気した顔でその男と帰るのかと思うと、宇佐美はのんびり構えていた自分に苛立った。
「美味しかったよ。ご馳走様。」
余裕のある笑みで振り返りながらいう菊田は、しっかり律をエスコートしながら店を出て行った。宇佐美はそれをその場から見送ると、額に手を当て、はぁとため息をついた————。
店の外に出ると、律と菊田は隣り合い、夜道をゆっくりと歩く。律の歩みは、おぼつかないとは言わないまでも、普段よりもふわふわとしている。
「危なっかしいな。」
菊田は律の手を取ると、そのまま指を絡め、その手を引いて歩く。
「菊田ぶちょ・・・」
律が言い終わる前に、菊田は振り向き、律の唇にキスを落とした。
「んっ」
律は突然の事に目をぱちくりさせ、次の瞬間には恥ずかしそうに目を伏せる。菊田は繋いだ手を持ち上げると、律の指先に唇を寄せた。
「嫌なら今のうちにそう言ってくれ。」
菊田の行動に律は顔を赤くして俯き、そして小さく首を横に振った。職場では見られない彼女の表情に、菊田はどことない優越感と、湧き上がる支配欲を覚える。
「いいんだな。」
繋いでいた手を解くと、菊田は律の両肩に自身の両手を置く。そのまま腰を折る様にして、彼女の目を覗き込んだ。
「はい。」
身長差のせいで自然と上目遣いになるその瞳は、羞恥心と酔いとで潤んでいる。扇情的なその表情に、菊田はたまらずもう一度口付けた。わざとリップ音をたてて唇を離すと、菊田は自身の唇を舐めた。
「うち、来るか?」
菊田の煽る様な色気のある表情に、律は釘付けになる。
「帰りたくない・・・。」
「おまっ・・・はぁ。明日休みだろ。知らないからな。」
散々攻めておいて、いざ攻められると一瞬たじろいだ菊田は、目を逸らして頭を掻いた。そしてまた律に手を差し出した。律はその手を取り、また指を絡めると二人は歩き出す。ふと菊田は律の耳元に唇を寄せ、囁いた。
「律、好きだよ。」
ぞくぞくと小さく震えた律は身を捩った。
「私も、菊田さんが好き。」
一生懸命言葉を紡ぐ彼女を見る菊田の目は、これ以上無いほど優しい目をしていた。
因みに菊田がBar『兎』に入ったのは偶然ではなく、先に入っていく律を見かけて後を追ったからだった。その事実を彼女が知るのは、まだ少し先のこと。きっとお互い意識し合っているであろうことには薄々気づいていたが、菊田は決め手に欠けていた。そんな中に舞い込んだチャンスを逃すまいとした菊田のこの押しの一手は、見事成功を収めたのだった。
ただBarでは予期せぬ宇佐美の存在に、菊田は冷や汗をかくこととなったのだが。
律の手を引く菊田は、内心ほっと胸を撫で下ろしていたのだった。