短編
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彼女の元に彼が殉職したと一報が入ったのは、ジリジリと陽射しの強い夏の日のことだった。
なんの前触れもなく訪れた浅黒い肌の凛々しい青年はそれだけ伝えると、美しい所作で一つ礼をして去って行った。よれた一枚の写真と、血に濡れた幾何学模様の首巻き(スカーフ)を残して。
彼女は青年の後ろ姿が未だ見えているうちに崩れ落ち、それらを胸に抱いたまま暫く動くことが出来なかった。けたたましい蝉の声が遠ざかり、全身の血の気が引いてゆく感覚に身体が震えた。
彼と彼女とが二人寄り添うようにして写っているその写真の裏には、それを撮した日付と写真館の所在、そして彼女の名が記されていた。その整いつつも無骨な筆跡は、紛れもなく彼のものだった。
彼女が彼と出会ったのは二年と少し前、登別の旅館だった。戦争で重傷を負った彼は療養の為、彼女の働くその旅館に二年ほど滞在していた。軍人の中でもそこそこの階級である筈の彼はしかしそんな素振りを見せず、彼の部下や、彼女の様な下働きの者たちに対してもおおらかだった。そんな彼の世話を焼くうちに、恋慕の情を抱くのに時間はかからなかった。
「お前さん、好い人はいるのか」
彼の世話を始めて一年程が経った頃、ぽつりと尋ねられた。随分と傷の癒えた彼の部屋へ配膳をしに訪れた時だった。唐突に投げかけられたその言葉に、彼女は動揺を含んだ目で彼を見上げた。そこには真っ直ぐに彼女を捉え、静かに燃えるような瞳があった。その瞳にぞくりと震えた彼女は、ゆっくりと距離を縮めてくる彼に動けずにいた。
「どうなんだ?」
するりと頬に手を滑らせてくる彼に、彼女は小さく身じろぐ。何も答えられずとも、その熱を帯び潤んだ瞳だけで彼にとっては充分だったらしく、運ばれた配膳には目もくれず彼女を貪った。その熱く荒々しい行為に、やはり彼は軍人なのだと認識したことを、彼女は鮮明に憶えている。
*
月日が巡り、一年後の夏の頃。彼女の部屋の隅には小さな台の上に、彼の首巻きと、伏せられた写真が大切に置かれている。そこには線香が添えられている。すぐ傍の開け放された窓から吹き込むぬるい風に、優しくも寂しい線香の香りが煙と共にそよぎ揺れている。今年もまた羽化した蝉たちが懸命に声を上げている。
「狡い人」
彼の遺品の前に腰を下ろしている彼女は、写真裏の彼の筆跡にそっと指を添え呟いた。
はじめは療養中のお遊びなのではと思っていた。自身と戯れるのは、ただ一時の事に過ぎないのではないかと。故に写真を撮ろうと言われた時は驚いた。あれは彼が療養を終え、また軍務に戻ると決まった後の事だった。それなのに彼はとうとう出立の日まで、決して戻って来るとは口にしなかった。今生の別れだとでも言うような慈しみを浮かべたその瞳が、脳裏に鮮烈に焼き付いている。戻って来る気がないのに何故形に残そうとしたのかと、恨めしくすら思った。しかし今になって、彼の気持ちが少し分かった気がした。懇切丁寧に記された日付、場所、そして彼女の名。きっと戻って来られる日は訪れないのだと悟っていた彼は、その時この写真が彼女に届くようにと、そう願ったのだろう。
「なんて」
彼女は目を伏せ、洗っても薄茶の染みの残ってしまった首巻きをぼおっと眺める。そこまで愛されていたのだろうか。しかしこの自惚が事実だとしたら、なんて狡い男なのだろう。夫婦になったわけでも無いのに、これではまるで未亡人の様だと、小さく笑ってしまった。思った以上に未練たらしい男に、しかしそんな部分でさえも愛おしくて。やり場のない気持ちにまた涙が溢れてくる。
「こうして貴方を想っては、未だ涙を流しておりますよ。満足ですか」
「あぁ、大満足だ」
独り呟いたつもりが、思いもかけず返ってきた返事にはっと顔を上げる。その低く柔らかな声色の主は、すぐ傍の窓の外から彼女を見下ろしていた。着流しに軍服を羽織った彼は、以前に比べ
「黄泉の国から舞い戻って来ちまった」
窓枠に腕を掛け戯けたように言う彼に、しかし彼女は目を見開いたまま硬直している。
「おいおい、大丈夫か?」
見開かれた彼女のその瞳から、大粒の涙が溢れ出す。呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、はかはかと上手く空気を吸えずにいる。彼はそんな彼女に眉を下げ、目を細めた。
「律」
苦しそうに呼ぶその声に、律は漸く口を開く。
「菊田、さん・・・・・・?」
未だ彼の帰還を処理できていない風に言うと、彼女は戸惑いつつも立ち上がり、玄関へ向かおうとした。しかし彼はそれより早く窓から上体を乗り出し、彼女を背後から抱き留めた。
「あ・・・・・・」
びくりと身体を震わせた彼女は動きを止める。腹部にがっちりと回された両腕は、記憶の中の彼よりも少し痩せただろうか。
「律」
まるで縋り付くように抱き締められ、名を呼ばれ、彼女はその温もりや感触に漸く実感が湧いてくる。
「菊田さ、菊田さんっ」
「あぁ、ここにいるよ」
彼女は彼に抱き締められながら、堰を切ったようにわんわん泣いた。泣きながら、彼が顔を埋めている首筋に、生温かい雫がぽたぽたと落ちてくるのを感じた。震える声、首筋に感じる熱い吐息、ぬるい涙が、彼が生きているのだということを強く実感させる。
暫くして落ち着いて来た二人は、漸く向き合う。律がゆっくりと振り向けば、菊田はその両手を掬い上げ、包み込んだ。その節くれだった大きな手は、少し薄くなった気がする。この一年、きっと穏やかなものではなかったのだろうと胸を痛めつつ、彼女は菊田の顔を見上げた。やはり少しこけた頬に、しかし柔らかな笑みが浮かんでいる。その瞳は以前と変わらず柔らかで、そして静かに燃えているようで。
「おかえりなさい」
彼に握られている両手を握り返すようにして、彼女はその指先に唇を寄せた。
「・・・・・・うん、ただいま──」
今年も羽化した蝉たちが、懸命に声を上げている。窓からそよぐぬるい風。いつからか力強く握り合う手と手。眩しい程の陽射しを背負い、少しばかり痩せても力強く微笑む彼。そして哀愁漂う線香の香り・・・・・・
「・・・・・・それって俺の仏壇?」
「・・・・・・まぁ簡易的なものですが」
「うん、まぁ、そうだよな・・・・・・」
「・・・・・・手、合わせます?」
神妙な面持ちで提案してくる彼女は、絶対にふざけている。こういう奴だったなと、菊田は全身の力が一気に抜けてゆくのを感じる。
「するわけねぇだろ」
菊田がじとりとした目で見てやれば、彼女はくつくつと笑った。彼女の笑顔を見て漸く、帰って来たのだと実感する。
「とりあえず、入ります?」
「あぁ、追い返されなくてよかったよ」
玄関に向かう菊田に合わせ、律もそちらへ移動する。菊田はやけに少ない荷物を上がり
「でも自分の仏壇に手を合わせるなんて、滅多に無いですよ」
とぼけたように言う彼女はしかし、きっと療養のせいで体力が落ちてしまったらしい彼をしっかりと支えてやる。
「あぁ、うん、まぁそれもそうかもな・・・・・・」
この二、三分後には、簡易的な仏壇の前、神妙な面持ちで手を合わせる菊田がいた。彼女なりの仕返しなのだろうと、甘んじて受け入れることにしたのだった。隣にいる彼女は、何処となくしてやったり顔でこちらを眺めている。自身の身につけていた首巻き(そもそも自分のものでも無い)と、彼女の元へ届くようにと未練たらしく持っていた写真とに目をやる。
「鯉登少尉殿は、しっかり届けてくれんだな」
「あぁ、あの爽やかな・・・・・・」
遺品を届けに来てくれた美丈夫を思い浮かべているらしい律の手首を取ると、菊田はそのまま彼女を自身の胸に抱き寄せた。
「おい、他所見してくれるなよ」
思いの外ドスの効いた声が出てしまったと自分でも驚く菊田だが、反面、彼女はそのまま彼の胸にすり寄るようにして凭れ掛かる。
「死してなお忘れられずにいたのに」
不貞腐れたような物言いとは相反して、律は菊田の腕の中、穏やかに微笑んだ。菊田はそんな彼女に目を閉じて、彼女の頭に頬を寄せた。
札幌の教会で撃たれた菊田にまだ息があるのに気づき、こっそりと遺品を預かってくれた鯉登と、教会の様子が気になって人を遣わしてくれた有古の暗躍によって菊田の今があるのだが、それはまた別の機会に。
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