短編
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「菊田さん、今日お誕生日でしたよね」
「ん?」
第七師団の兵舎。廊下を歩いていた菊田は、背後から掛けられた声に立ち止まった。
彼女は遠く遠く、百年以上も先の時代から来たと言う。菊田はそんな彼女の言葉を初めこそ信じられなかった。しかしその人懐こい人柄にいつの間にやら絆されていて、笑顔の魅力的な彼女の時折見せる物憂げな瞳に、いつしかその絵空事のような話を信じてしまうようになっていた。
彼女と菊田が出会ったのは、菊田が第七師団に配属されて少し経った頃だった。洋装のような、それにしても奇妙な格好をした女が街中に現れたとの情報を得た鶴見と共に、現場へと向かった。そこに呆然と立ち尽くしていたのが彼女だった。あらかた事情聴取を終え、特に害は無さそうだと判断したらしい鶴見に命を受け、月島と共に世話役と称した監視役を担っていた。
「あれ、今日じゃありませんでしたか?」
接するうちに、彼女へ情が湧いてしまった。元いた便利な時代とは勝手の違う生活に、しかし懸命に適応しようとする彼女に。人の感情の機微を察し、労わる癖のある彼女に。わざわざ人の居ないところを選び、声を押し殺して涙する彼女に。
「そう言えば今日だったな」
「良かった。この時代ではお祝いする風習がないんですもんね」
「あぁ」
ふわりと笑った彼女は、襟の合わせに手を差し込んだ。そして懐に隠してあったモノを取り出すと、菊田へ差し出した。
「お誕生日おめでとうございます」
彼女の手には、普段菊田が愛煙している煙草の箱があった。
「いいのか・・・・・・?」
生まれた日を祝われるだなんて変な感じがして、菊田は目をぱちくりさせている。しかし胸の奥がじわりと温かくなって、どこか気恥ずかしくて、彼女の目を見ることが出来ない。代わりに視線は煙草の箱へと落とされたまま。「勿論です」と彼女が微笑むのを感じながら、その箱をそっと受け取った。
「ささやかですが」
「なんだか悪いな」
嬉しそうに、しかし困ったように眉を下げる菊田に、彼女はまたふわりと笑った。
「これが私の時代では普通なんですよ」
そうか、普通なのか。何も特別なことはないのか。そう心の中で納得する菊田は、しかしほんのりと残念にも思う。
「ありがとな」
「いいえ。良い一日になりますように」
柔らかい微笑みを残し、彼女は何事もなかったかの様に、軽やかに、元来た方へと立ち去っていった。手元には彼女に貰った煙草の箱。いつも吸っている銘柄のそれは、何となく特別に見えた。何か返してやらなければと思いつつ、暫くその箱から目が離せないでいた。
そしてその煙草を吸い終える前に、彼女は忽然と姿を消してしまった。誰もその行方を知る者はいない。きっと元の時代に戻ったのだろう。中にはうまいこと逃げ出したんだろうと言う者もいたが、そうは思いたくなかった。なんとなく、彼女に貰った煙草の最後の一本を吸えないまま、未練がましく取っておいてしまった。
*
「あ゛ぁ゛ー」
場所は水曜日のオフィス。時刻は定時を大きく回り、二十時を過ぎている。
「まだ週の真ん中だなんて信じたくありませんね」
自席で伸びをし、なんならバキバキと肩首を鳴らしている菊田に習い、律もぐっと腕を天井に伸ばした。
「お疲れさん」
「菊田さんも帰れます?」
「あぁ、もうちょいしたら帰るよ」
眉間を指で摘んで答える菊田に、律は小さく溜息を吐いた。
「今日くらい早く帰ったら良かったのに」
「ん?」
呟く彼女の声は、離れた席にいる菊田には届かなかった様だった。身支度を済ませた彼女は彼のデスクに近づくと、パソコンモニターを覗き込む。
「遅くまでありがとな。気にせず帰ってくれ」
草臥れた顔でふと口元を緩ませる菊田に、彼女はその顔を覗き込んだ。
「菊田さん、今日お誕生日でしたよね」
「ん?・・・・・・あ」
卓上のカレンダーに目をやって間の抜けた声を出す菊田に、律は呆れた様に、今度は大きな溜息を吐いた。
「やっぱり忘れてましたね。明治じゃないんですから」
「・・・・・・は?」
彼女は明治と言っただろうか?菊田はぽかんとこれまた間抜けな顔で彼女を見上げる。そんな彼を他所に、彼女は鞄を漁り、予め準備してあったモノを取り出す。
「お誕生日おめでとうございます」
菊田に差し出されたのは、彼が普段好んで吸っている銘柄の煙草だった。嬉しい。その筈なのに、胸の辺りがざわりと、そしてちくりとした。それを不思議に思いつつも、彼女の手から箱を受け取る。
「さんきゅーな。覚えててくれたのか」
目を丸くして言う菊田に、彼女はやや目を伏せた。しかしそれはほんの一瞬で、次にはふわりと微笑んで見せた。
「良い一日になりますように」
今度は悪戯っぽく笑って、「あと数時間ですけど」と言葉を残し、彼女はオフィスを出て行った。
菊田は彼女から貰った箱に視線を落とす。誕生日を忘れるなんて、自分も歳を取ったなと思いつつ、何故かその箱から目が離せないでいる。脳裏には彼女の柔らかな笑みが焼き付いている。煙草の箱を見ているようで実際は、どこか寂しげに見えたその笑みを見つめている。
「明治・・・・・・?」
どこか発言のおかしかった彼女に違和感を覚える。どくどくと心拍が上がってゆく。何かが胸につかえている。胸がじわりと熱くなるのは、鷲掴まれたようになって、ちくりと痛むのは何故なのか。
気づけば菊田の目からは、涙が一筋溢れていた。
「何だ、これ・・・・・・」
ふわりと微笑む彼女。手渡された煙草の箱。柔らかなおめでとうの声。遂に吸うことの出来なかった一本の──。
がたりと大きな音を立て、弾かれたように立ち上がる。何を考える余裕もなく、菊田はオフィスを飛び出した。手には煙草を握りしめたまま。
エレベーターを待つ時間も惜しく、一気に階段を駆け降りる。いい歳をした男が、足がもつれそうになりながらも、三階から一階めがけて急ぎ走る。運動不足をひしひしと感じ、息も絶え絶えにロビーへ出ると、丁度彼女が自動ドアをくぐるところだった。
「佐倉っ!」
呼び止めようとした筈が、息を切らした菊田から出たのは嗄声のみで。何とも情け無い声に、しかしそれを気にする余裕など無く。後を追い半ばぶつかりそうになりながらも自動ドアをくぐり抜けると、彼女はすぐそこに居た。慌ただしい足音に気づいたらしい彼女が振り向くより早く、その肩を掴んだ。
「ひっ」
驚き振り向いた彼女の頬には薄らと涙の跡が光っていて、どきりとした。
「わ、え、どうされたんですか?」
半ば虫の息、満身創痍の菊田を視界にとらえ、彼女は更に目を丸くする。
「はぁ、は、佐倉、お前・・・・・・ち、ちょっとタンマ」
大きな身体を屈めて両手を膝につき、菊田は呼吸を整えている。
「だ、大丈夫ですか・・・・・・?」
「・・・・・・最後の一本、」
「・・・・・・え?」
膝に手をつき俯いたままぽつりと呟く菊田に、律は首を傾げた。
「あの時くれた煙草、最後の一本がどうしても吸えなかった」
「・・・・・・」
今まで彼に煙草を贈ったことなどあっただろうかと、律は記憶を辿る。しかしどうしても辿り着くのは、唯一、あの明治での──。
「最期まで、未練がましく持ってたよ」
ふと彼女へと視線を寄越した彼は、自傷気味に笑っていた。
「菊田さん、それって・・・・・・」
「急に居なくなるもんだから、引きずっちまったじゃねぇか」
非難がましく見つめてくる彼はしかし、それは優しく目を細めるものだから、彼女は胸がきゅっと締め付けられる感覚がした。
「・・・・・・菊田さん、記憶があったんですか」
彼の言葉の真意を探っているらしい彼女の瞳は、美しく揺れている。
「たった今、思い出した」
菊田は言いながら、彼女の頬に手を伸ばした。いつの間にか彼女の瞳を濡らしていた涙を、ゆっくりと親指で拭い取る。
「誕生日を祝うのが当たり前だなんてのは、嘘だったけどな」
「う、嘘じゃ・・・・・・」
「誰のでも祝うのか?」
彼女の方へと一歩近づいた彼は、彼女の頬に手を添えたまま、探るようにその顔を覗き込んだ。妙に真剣なその目に、彼女は小さく震える。何も言えずただ見つめ返している彼女のその瞳は、ゆらゆらと潤んでいる。菊田はその瞳に吸い寄せられるように、顔を傾け、ゆっくりと近づけてゆく。
「菊田さん、あ、待って、ここ、会社の前」
突然のことに頭が回らない彼女に、彼は有無を言わさず唇を押し当てた。
心臓が壊れてしまうのではないかと思う程に速鳴っている。柔らかな彼の唇は、少しカサついている。冷え込むようになってきた風に吹かれながら、そこだけ燃えるように熱い。律はくらりとしそうになりながら、食むように求めてくる彼を受け入れ、そっと目を閉じた。いつの間にか腕の中に閉じ込められ、後頭部を押さえ込まれ、彼の熱に溶かされている。
漸く唇が離れたかと思えば、彼は存外、苦しそうな顔で彼女を見ていた。
「社員が見てます・・・・・・」
真っ赤に染まった顔を両手で隠して言う彼女に、菊田は悪い顔で口角を上げた。
「好都合」
「なに・・・・・・」
頑なに顔を隠したままの彼女の耳元へと唇を寄せると、菊田は低い声で囁く。
「牽制だよ」
彼の吐息に擽られ、彼女の耳が熱を持つ。
「最悪・・・・・・」
「何とでも言えよ」
くつくつと笑いながら、菊田は自動ドアの内側からこちらを見ていた若い男性社員に視線をやった。薄らと口角を上げてやれば、その社員はどきりとした顔を見せた。慌てて自動ドアを潜り、足早にその場を離れてゆく。
「もう出勤できない・・・・・・」
「ごめんごめん」
全く悪いと思っていない風に言う菊田は、彼女を丁寧に抱き締め直した。それはどこか、縋るような素振りで。
あの時菊田は、生まれてきて良かったのだと言って貰えた気がした。大切な者を失い、あやふやな立場に身を置いていた自分にとって、彼女の微笑みは救いに思えた。前世では引きずり続けたこの想い、今度こそ──。
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