短編
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「律ちゃん、ごめんねぇ・・・」
隣のデスクで半べそをかき、上目遣いで律に謝っているのは杉元佐一。顔にある傷跡は派手で生々しいが、それを加味しても相当整った顔立ちをした好青年である。律と杉元はこの会社の同期であり、同じ部署に属している。
「仕方ないなぁ、佐一くん一杯奢ってね。」
「勿論!奢る!飲みのために頑張れそう!」
「もっと早く頑張ってくれてれば、もう飲みにいけてたんだけど〜。」
これから杉元の残業を手伝わされることになってちくちくと小言を言う律と、それに縋る様に謝る杉元。会話の内容ほど空気は重くなく、寧ろ周囲からは仲睦まじく見え、戯れ合っている様にさえ見える。
「さー、何時に終わるかなー。」
「佐倉も残業か?」
律がぐっと伸びをした所に、月島課長が声をかけた。割と要領が良く、よっぽどのことがない限り残業をしないことに定評のある律が、杉元の業務を手伝おうとしているのには気づいていた。大体、社員たちは皆要領がいいので、普段はあまり人の業務を手伝う様なこともない。言わばホワイト企業である。ただしデスクワークの苦手な杉元は例外。
「たまには残業でもして稼ぐことにします。」
じとっと杉元の方を見ながら薄ら笑いを浮かべる律に、杉元は照れた様に笑う。
「いや、杉元、照れる所じゃないだろ。いいのか佐倉。俺がやっておくから帰っていいぞ。予定とかあるんじゃないのか?」
厳格で仕事の出来る月島は一見とっつきにくく見えるが、その実は思いやりに溢れた人だと知っており、律は部下として慕っていた。
「え?予定?無いですよ。久しくそんな充実した生活は送ってません。」
軽く笑い飛ばす律に、一瞬、月島と杉元の目がギラリと光った。
「え、律ちゃん彼氏いなかったっけ?」
「え?あー、1ヶ月くらい前に別れたよ。言ってなかったっけ?」
ガタガタっと前のめりになる杉元と月島に、律は居心地が悪くなり、手で振り払う真似をする。
「ちょっと、いいじゃないですかこの話は。別に傷心でも無いし。さ、早く終わらせて飲み行こ!」
「俺も手伝おう。」
「え?」
「三人でやった方が早く終わるだろ。そして俺も杉元に奢ってもらおう。」
「え!ちょ、そんな約束して無いですって!一杯ですからね!」
奢る奢られるのやり取りまでしっかり聞いていた月島は、便乗しようと杉元の手元の資料に目を通し始めた。
「せっかくデートだったのに・・・」
不貞腐れる杉元に、「ふん」と口角を上げる月島と、「馬鹿なこと言ってないで仕事しろ」と顎で合図する律と、結局三人で残業することとなった。律が必要なデータを選別し、杉元がデータを元に資料にまとめ、それを月島がチェックし修正していく。思ったよりもその量は重く、いつの間にか一時間が経過していた。
「んんー、疲れた・・・」
残り半分と言ったところで、律が伸びをする。今までまとめたデータ分で、暫くは杉元の作業に追いつかれないだろうと立ち上がる。
「一服してきます。コーヒー淹れてきましょうか?」
煙草を吸う動作をして見せて、律は月島と杉元に問いかけた。
「おねがぁい。ミルクたっぷりで。」
「あぁ、頼んだ。ブラックで。」
「了解です。」
だからお前は何回言ったらわかるんだと月島課長に怒られている杉元を尻目に、律は喫煙所へと向かった。
「ふぅー」
まだ他の部署はちらほら人がいる様で、行き交う社員たちをガラス越しにぼおっと見ながら、律は煙を吐く。すると、コンコンとガラスを叩く音がして、二つの影に覗き込まれる。
「あ」
律が見知った顔に軽く頭を下げると、外の二人は喫煙所の扉を開けて入ってきた。
「お疲れ様です、菊田部長、尾形係長。」
菊田と尾形は入ってくるなり律を挟む様に陣取り、それぞれ煙草に火を点けている。
「お疲れ佐倉。部長なんてつけなくていいって、堅苦しい。珍しく残業か?」
菊田部長は
「ふふ、これでも分別はつけてるんですよ、自分なりに。今は同期の尻拭い中です。」
「ははぁ、杉元だな。同期で部下の面倒を見るのは大変だなぁ、佐倉主任。」
というのも、律と杉元は同期ではあるものの、律の方は主任に昇進していた。尾形はあえて主任という言葉を強調して言い、律のことを揶揄っている。律はその様子に不貞腐れた顔を向けて見せるが、前髪を撫で付けてこちらを見下ろす尾形の色っぽさに、なんだか尚更腹が立った。尾形は歳は近く、律が新入社員の頃からの先輩だ。当初から何かと気にかけてくれてはいたが、いかんせんこの性格だ。捻くれている。
「尾形係長、主任呼びはやめてください。なりたくてなったんじゃないです。」
はぁ、と煙を吐きながらため息をつく律を、菊田と尾形は面白そうに笑って見ている。
「ほらな、名前に役職つけられるの嫌だろ。なぁ尾形。」
「人によりますな。」
「まぁ確かにそれまでの関係性はあるわな。」
「尾形さんは私に役職で呼ばれるのはどうなんですか?」
「鬱陶しい。」
「酷い。素直に尾形さん呼びがいいですって言えばいいのに。」
律がムッとした顔で尾形めがけて煙を吐くと、煙草を持っている方の手首を尾形に掴まれた。
「上司に煙を吹きかけるとはいい度胸だな。その意味を知ってやっているのか?」
意味深な笑顔を称えた尾形にずいっと顔を近づけられ、律は一歩後ろに下がろうとするが、掴まれている手首はびくともしない。
「ご、ごめんなさい〜」
冷や汗をかく律の両肩に、菊田が後ろから支える様に両手を乗せる。
「前からこういうやつだろ、諦めろ佐倉。」
「はぁ・・・」
ようやく尾形の手が離れると、律は二本目の煙草に火を点けた。
「チェーンかよ。」
菊田に突っ込まれながら、律は煙を吐き出す。
「尾形さんのおかげでストレス溜まったので。あとまだ一時間くらいは働かなきゃなので吸い溜めです。」
尾形から一歩距離をとりつつ、律は乾いた笑いをこぼした。
「菊田さんたちはミーティングですか?」
「ああ、今抱えてる案件のな。今終わったとこ。」
「なるほど、お疲れ様です。」
二人のやりとりを聞きながら、尾形も二本目の煙草に火を点けている。
「何だよ、じゃあ俺も・・・」
菊田が二人に倣ってもう一本吸おうとすると、それを尾形が静止する。
「菊田部長はまだ仕事があるのでは?」
「ぐっ」
菊田は恨めしそうに尾形を見ると、取り出そうとしていた煙草を箱に戻し、頭を掻いた。
「しょうがねぇな。佐倉、あと一時間で終わるんだろ?終わったら久々に飲みに行くか?」
お猪口を煽る真似をして言う菊田に、律は一瞬目を輝かせたが、次の瞬間には考え込む。
「今日は上がったら佐一くんの奢りで飲む予定なんです。月島さんも。一緒に行きます?」
「あ?月島もいるのか。仕方ねぇな、今日は杉元に奢られてやるとするか。」
一瞬不貞腐れたような顔をした菊田だったが、次の瞬間にはニコニコと笑顔で「後で連絡してくれ」と手をひらひら振りながら喫煙所を出て行った。
尾形と二人取り残された律は若干気まずく思いながら、尾形にチラリと目をやった。
「尾形さんも行く?」
「行く。」
尾形はまた前髪を撫で付けながら愉快そうに笑っている。
「まだ一時間くらいかかるけど、待てます?」
「残念ながら、仕事はやろうと思えばいくらでもあるからな。」
「はは、おっしゃる通り。」
律が煙草を消して喫煙所を出ようとすると、尾形もまだ吸い終わらない煙草を消してその後をついて行く。
「もういいんですか?」
「あぁ。」
首を傾げる律を他所に、尾形は給湯室までついて来た。
「尾形さんもコーヒー?」
「ん。」
「仕方ないなぁ」
律は杉元、月島、尾形、ついでに菊田と、自分の分を含めて五杯分のコーヒーを入れる羽目になった。律がその愛想の良さで経理部を落として手に入れたドリップ式のコーヒーを準備していると、ふと背中に温もりを感じた。後ろから囚われるように、尾形の両手が律の身体を挟んで、目の前の流し台に置かれている。
「お、尾形さん!?何っ、てか危ない!」
尾形は黙って律の肩口に顔を埋めている。
「え、な、何ですか?どうしたの?」
混乱する律に、尾形はその体勢のまま答えた。
「疲れた。」
疲れているのは本当だろう。今日は尾形は外回りだったはずだ。帰って来て後処理をし、さらには菊田とミーティングをしていたのだから。だからと言って、恋人でもない律に対しての行動にしてはおかしかった。
「甘やかせ。」
「えぇ・・・」
おかしいとは思いつつも、その掠れた声は色っぽく、律は少し絆されてしまっている。
「しょうがないな・・・」
やれやれと尾形に向き直ると、律は尾形の頭を撫でてやる。
「頑張りましたね。えらいえらい。」
いつもよりどこか真剣な目でじっと見つめられると、なんだか気恥ずかしくなってきて、律は少し視線を逸らした。すると腰を引き寄せられ、尾形に抱き締められる。
「ちょっ」
「おい!!!!何してやがる尾形!遅いから心配して来てみれば・・・こんなこったろうと思ったよ!」
急に大きな声がして、律はビクッと肩を揺らした。給湯室の入り口に顔を向けようとしたが尾形は腕を緩めることはせず、寧ろ律の後頭部を押さえ込み、それを阻止した。
「おがっ」
喋ろうにも律の顔は尾形の胸に押し付けられている。化粧が・・・と律はそんなことを思ってしまった。
「無粋だぞ杉元。」
声だけでわかる。律は、ニヤついた顔をした尾形の顔が目に浮かぶようだった。その腕から逃れようとすると、別の手に両肩を掴まれ、尾形から引き剥がされた。
「セクハラだぞセクハラ!律ちゃん、大丈夫!?他に変なことされてない!?」
律の両肩に手を置いてやや屈み、杉元は心配そうに顔を覗き込んでいる。
ふと、律は杉元越しに、額に青筋を浮かべた月島課長が目に入った。
「あ、ご、ごめんなさい、遅くなっちゃって・・・」
月島は謝る律の腕を引き、その肩に優しく手を置いた。律は自身に向けられた月島の優しい顔にホッとしたが、次に尾形に向けられた顔はギョッとするような、額に青筋を浮かべた笑顔だった。
「尾形、お前も手伝うんだな。」
半ば月島に引きずられるようにして給湯室を出ていく尾形は、呑気に「ははぁ」と前髪を撫で付けていた。杉元は律を気遣っていたが、律に「大したことない」と追い返されてしまえば、ちらちらと振り返りながらも大人しく去っていく。
律は誰もいなくなったことを確認すると、「はぁぁ」と大きく息を吐きながら、その場にしゃがみ込んだ。
「なっっっっにあれ。なっにあの色気・・・!」
尾形は律が新入社員の頃から、時々ああやって揶揄うようにちょっかいをかけていた。が、ここ一ヶ月は拍車がかかっているように思える。律が元恋人と別れてからだ。揶揄われている事にも腹が立つが、律はそれに心を乱される自分にも腹が立っていた。
律は一つ大きく呼吸をして心を落ち着かせると、気を取り直して立ち上がった。濃く出過ぎてしまったコーヒーに少しだけ湯を足すと、五杯分のコーヒーを盆に乗せ、給湯室を後にした。
人手が増えたこともあり、仕事は一時間とかからずに終わり、一同は無事に(?)酒にありつけた。華金の今日はどこも賑わっていたが、そこは抜かりない月島がいつのまにか個室を予約してくれていた。尾形はというと、律から一番遠い席に座らされ、やや不機嫌そうに酒を煽っている。後から事情を知った菊田も含めた、男性陣によっての采配だった。次の日が休みということもあり、酒は深くなっていく。何なかんやあっても、結局は楽しい宴会となった。結局、会計はいつの間にか菊田によって支払われており、明日は美味しいコーヒーを淹れてあげようと思う律だった。
宴会が始まる前、律の隣に誰が座るのかと水面下では静かに火花が散っていたのだが、それは律には知りようのないお話。