短編
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年に一度の一大イベントに、社内は朝からそわそわと浮き立っている。しかし律はバレンタインなど年甲斐も無いと、少し気恥ずかしく思う。他の人が楽しむのを見る分にはいいのだが、それはやや自傷気味な感情なのかもしれない。チョコレートは好きだが、普段の感謝を込めてなどという会社での建前上のやり取りにも、そろそろ疲弊してきた。学生時代はあんなにキラキラしたイベントだったのに、自分も歳をとったなとノスタルジーにやや沈み、乾いた笑みを溢してしまった。
「ちょっと、バレンタインデーにそんな顔見たくないんですけど。」
律がデスクでパソコンを立ち上げていると、後輩の宇佐美が顔を覗き込んできた。
「どんな顔よ。」
「冷めた顔。」
「失礼な。」
デスクに手をつき未だ律の顔を覗き込んでいる宇佐美は、「それで?」と期待した様な表情をする。
「もう既に随分貰ってるみたいだけど。」
少し離れたところにある宇佐美のデスクに目を遣れば、ラッピングの施された箱や袋たちがいくつも置かれている。きっと本命もひとつやふたつでは無いことは、想像に難くなかった。
「それはそれ。律さんからのチョコが欲しいんですよ。」
艶めかしく弧を描く唇に、律は観念して鞄に手を伸ばす。
「どうぞ。」
「わ、これ美味しいやつじゃん。でも一粒だけとか色気無さすぎ。」
「返してくれてもいいんだけど?」
味も値段も程々なそのチョコレートは、ちょっと贅沢をしたい時に好んで食べるもので。個包装になっており配るのに丁度いいと、詰め合わせを鞄に忍ばせていた律は、そこから一粒取り出して宇佐美に渡した。案の定文句を言う宇佐美だが、奪い返そうとする律からそのチョコを遠ざける。
「お返し何がいい?」
「えー、ハワイ旅行かなぁ。」
「いいですよ。」
「え?」
にこりと笑って言う宇佐美は、律から貰ったチョコに唇を寄せた。
「ただし僕と二人で、ですからね。」
振り切ってキザな行動をとる宇佐美に、律は呆れて笑ってしまう。
「何言ってんだか。」
「はぐらかそうとしたってそうは———」
「そろそろ時間だぞ。」
宇佐美が律に詰め寄ろうとした時、後ろを通りがかった菊田がそれを遮った。菊田は軽く笑って宇佐美の肩に手を置き、そのまま宇佐美のデスクへと連れ去ってゆく。去り際に「おはよう」と微笑まれた律は辛うじて挨拶を返し、その背中を見送った。
菊田の後ろ姿を見つめていた律は、彼の鞄に釘付けになった。少し開かれた鞄からは、赤いリボンがちらりと見えている。普段ならとうにデスクについている筈の菊田が、今日に限って始業ぎりぎりだったのはきっとそういう事なのだろう。律は菊田から目を逸らすように、パソコンのデスクに向き直った。沈んでゆく心に嫌気がさす。バレンタインというイベントに乗らなかったのは自分なのに、この機会を逃さず想いを伝えられる誰かを、羨ましく思ってしまうだなんて。律はもやもやとした感情を振り払う為、仕事に集中する事にした。
菊田はよくモテる。毎年バレンタインデーには、沢山のチョコレートを抱えて帰宅する。今年も例外では無いようで、彼のデスク脇には高級そうな箱や袋が積み重なってゆく。本命だと言って渡されたものがあるのかどうかは分からないが、きっと少なからず、想いの込もったものも混ざっているのだろう。そんな事を思いながら、律は時々
少しの残業を終えて伸びをすると、律は身支度を整えて席を立った。だいぶ日が伸びてきたようで、窓の外はまだ薄らと明るい。鞄の中に入れていたチョコレートは自分でも幾つか食べてしまったが、だいぶ捌けてあと二、三粒になっている。数多の呼び出しに大忙しだった菊田には、一粒すら渡せていない。しかしあれだけのチョコレートを貰っていれば、必要などなかっただろう。分かっていた筈だった。
勝手にいじけた気持ちになりながら廊下を歩いていると、当の菊田の姿が見えた。喫煙所から出てきたらしい菊田は、なんとなく見たことのあるような女性社員に呼び止められている。離れた場所に居る二人の会話は聞こえないが、緊張した面持ちで小さな紙袋を手渡す女性社員に、律は見てはいけないものだと察する。目を逸らす際、紙袋を受け取り微笑む菊田を目にしてしまった。エレベーターに乗る為にはそこを通るか、遠回りをしなくてはいけない。しかし律は心臓を鷲掴まれたような感覚に陥り、柱に隠れるのが手一杯だった。柱に身体をもたれ掛け、心を落ち着けようとひとつ、深呼吸をする。
「何してんだか・・・。」
「何してんだよ。」
すぐ傍で聞こえたその声に、律の肩が大きく揺れた。折角落ち着けようとしていた心臓が、早鐘を打つように脈打ち出す。声の方へ顔を向ければ、背の高い菊田がこちらを見下ろしていた。
「えっと・・・。」
言い淀む律に、菊田は意地悪く笑う。
「覗き見してたな。」
腹が立った。一日中、頭を占めていた目の前の男に、手前勝手とは言え心を乱されるこの男に、そんな風に言われる筋合いは無いと。菊田に怒りの矛先を向けるのが見当違いなのは分かっている。しかしどうしても、やるせない気持ちになってしまう。
「あんな所に居たら、見たくなくても見てしまいますよ。」
なんでも無い風に言ったつもりだが、菊田の目にはどう映っただろうか。驚いたような表情で何も言わずに見つめてくる彼に、律は居た堪れなくなる。
「お疲れ様でした。」
努めていつも通りに振る舞いその場を後にしようとしたが、菊田に手首を掴まれ、それを阻止される。
「菊田さ———」
「見たくなかった?」
どきりとした。高い背をやや屈めて上目遣いに見つめてくる菊田の目は、鋭く光っている。普段温和な彼からは想像できなかったその表情に、律はつい息を呑んだ。喉が閊えて声が出ない。
「どうして?」
畳み掛けるようにして問う菊田の声は、しかし低く穏やかで。優しく促すようなその声に、律は顔がじわりと熱を持つのを感じた。
「どうして、って・・・。」
菊田の視線に捕らえられ目を逸らせずにいる律は、しかし廊下の向こうから響いてくる足音にはっとする。菊田はちらりと足音の方へ視線をやると、律の手首を引き、彼女をすぐ傍にあった資料室へと押し込んだ。
「えっ」
半ば強引に、しかし丁寧でスマートなその動作に、律は思考が追いつかずされるがまま。自らも資料室に滑り込み、後ろ手でドアを閉める菊田から目が離せないでいる。
「な、んですか。」
扉を閉め切った資料室は殆ど真っ暗だった。明かりと言えば唯一、扉に嵌め込まれた小さな磨りガラスから、申し訳程度に光が漏れているのみで。
まだ掴まれたままの手首に、律の心臓は煩く鳴り続けている。
「なんで見たくなかった?」
全てを見透かしたような瞳で律の顔を覗き込み、菊田は薄らと笑った。
「なんでって、それは、人の告白現場なんて・・・。」
「それだけ?」
暗くてはっきりは見えないが、薄らと笑っている菊田は、どこか苛ついているようにも見える。
「・・・何でそんな意地悪言うんですか。」
菊田の、律の手首を掴んでいるのとは逆の手に、小さな紙袋が提げられている。律はどうしようもなくなって、その紙袋と菊田の視線から逃れるように横を向いた。
「・・・俺には無いの?バレンタイン。」
手首を弄ぶようにしてすりすりと揉まれ、握り直されたのと同時に、静かな声が降ってくる。
「今年はくれと言われた人に、一粒ずつしか配ってないんです。」
「あぁ・・・。」
成程と小さく呟いた菊田は、漸く律の手首を離した。
「それに菊田さん、沢山貰ってるでしょう?」
律の視線が自身の手元にある事に気づいた菊田は、バツが悪そうにしてその紙袋を棚の上に置く。
「チョコ、まだ残ってる?」
律に視線を戻した菊田は、真っ直ぐな目で問い掛けた。
「残ってますけど・・・。」
「一日中待ってたんだが。」
「っ、菊田さん、そうやって思わせぶりな態度取るから———」
「待ってたんだよ。」
言いながら距離を詰める菊田は、やはり怒っているように見える。律はつい後ずさるが、背中に壁が当たり、顔の横の壁に菊田の手が置かれた。
「意味、分かるか?」
漸く先程の菊田の言葉を反芻し、律の顔に熱が集まる。暗闇に慣れてきた菊田の目は、彼女の表情を捉えている。菊田は満足そうに、そしてほっとしたように口角を上げた。
「チョコ、くれるな?」
「は、い。」
覆い被さるようにして至近距離で見つめられ、律はやっとの思いで口を開く。鞄の中からチョコレートを一粒取り出すが、冷静でいられず時間がかかってしまった。
「どうぞ。」
「食べさせて?」
低く掠れた声で囁かれ、くらりとする。戸惑う律を他所に、菊田は「あ。」と口を開けて見せた。やっとの思いで包装を解き、チョコレートを摘むと、彼の口元へと運んでゆく。チョコレートを口に含んだ菊田の唇が、律の指に微かに触れた。
「美味いな。」
目尻を下げる菊田から、律は目が離せないでいる。顔の横に置かれたままの手に、その距離は近いまま。チョコレートの香りに、ほんのりと煙草の香りが紛れている。
「本命だよな?」
壁についているのとは反対の手で、菊田は律の頬に触れた。
「ん?」
小さく首を傾げて見せる菊田に、律の目から涙が溢れ出す。
「お、おいおい、悪い、俺の勘違いだったか。」
ぱっと距離を置いて言う菊田に、律の涙が止まる様子はなく。
「勘違いじゃ、ないです。」
勘違いな訳がない。ずっと焦がれていた人に、他の女性に呼び出されている場面を目で追っては、苦しくなってしまう程心奪われていた人に、こうして迫られて嬉しくない筈がない。一日中その想いをひた隠しにしていたせいか、その想いが涙となって溢れ出してしまった。
俯いて涙を拭う彼女に、菊田は一瞬、呼吸を忘れた。漸く手に入る。そう思えば、心臓がどくどくと昂ってゆく。もう一度、壁に背を預ける彼女にゆっくり覆い被さると、濡れた瞳と視線が交わった。親指の腹で頬を濡らす涙を拭ってやれば、律の肩が小さく跳ねる。菊田はそのまま彼女の顎を掬い上げると、その唇に口付けを落とした。ちゅ、と小さく音を立てて離れると、涙に潤み、色を含んだ瞳と目が合う。その美しい瞳が、どうしようもなく好きなのだと伝えてくるようで、胸の辺りが震える。菊田はもう一度唇を寄せると、今度は食むように彼女を味わい出した。
「菊田さん、ここ、会社———。」
「もう少し。」
顔を横に逸らした律の頬を掴むと、強引に口付ける。息継ぎの為に薄く開かれた唇から舌を捻じ込めば、彼女の肩が小さく震えた。いつの間にか胸元のシャツを掴んでいる律に、菊田は頭に血が昇るのを感じる。
「なんでチョコくれなかったんだよ。」
漸く唇が離れたかと思えば、菊田は律を抱き寄せ、少し拗ねたように言った。ワイシャツ越しのしっかりとした肉体にどきどきしながら、律は彼の胸板に頬を擦り寄せ、その背中へと腕を回す。
「菊田さん沢山貰うじゃないですか。その中のひとつじゃ、虚しいだけですから。」
呟くように言えば、律を抱く菊田の腕に力が込もった。
「俺はお前のだけを待ってたよ。義理でも良かった。」
それなのに帰ろうとする律に気づき、ついタガが外れてしまった。菊田はそう言うと困ったように笑った。
「なぁ、週末だろ。飯行こう。」
「はい。」
身体を離して言う菊田に、律は目を合わせられずにいる。しかし菊田に顔を覗き込まれ、その優しい瞳と目が合ってしまった。
「俺と付き合ってくれるって言う認識でいいんだよな?」
優しくも熱っぽい瞳に捕らえられ、目を逸らすことができない。
「・・・はい。」
やっとの思いで頷けば、菊田は愛おしそうに笑った。
「下で待っててくれ。すぐ行く。」
微笑みを残して資料室を出て行く菊田を見送ると、律はその場にへたり込んだ。先程女性社員に手渡されていた紙袋が置きっぱなしになっている。それを見てももう嫉妬も何も湧かない自分に、なんて調子がいいんだろうと思った。
律は立ち上がり紙袋を手に取ると、一向に静まってくれそうもない心臓を手で押さえながら、資料室を後にした。
「菊田さん、シャツ皺になってますよ。」
「ん?あぁ、そうだな。」
オフィスに荷物を取りに戻った菊田は、杉元に指摘され、自身の胸元を見る。先程の出来事に上がる口角を抑えられず、軽く握った手で口元を隠した。
「・・・なんかいいことありました?」
明らかに機嫌の良い菊田に、杉元は何かを察したようだった。
「まぁな。」
「へぇ〜。」
急いで身支度を整える菊田に、杉元はにやにやと無遠慮な笑みを浮かべる。
「お疲れさん。」
「良い週末を〜!」
足速に去って行く菊田の背中に、杉元は声を張り上げた。菊田は軽く睨んでやるが、その口角は上がったまま。
本当はこんな形で想いを伝えるつもりはなかった。半ば強引なやりとりを思い出し、菊田は頭を抱える。しかし朝から宇佐美に口説かれている場面を見てしまったのだ。一日中ヤキモキさせる律も律だろうと、責任転嫁することにした。焦らされた結果、歯止めが効かなくなってしまった。仕方がないと無理やり納得する事にする。今からじっくり想いを伝えればいいと、菊田は律の元へと急いだ。
「今日は帰したくねぇな。」
歳を重ねれば重ねるほど、凝り固まってゆく思考。考えても仕方がない事ばかり考えて、不安に足が竦んでしまう。しかし感情や衝動は、はなかなか抑えられるものではないようで。
一歩踏み出してしまえば大丈夫。素直になれない大人たちは、きっとこれからが本番で、ここからが腕の見せどころ。という事で。