短編
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会社を出て帰路につき、少し歩いたところで雨が降り出した。予報に無かった雨に、準備の良い方で無い律は傘など持っておらず。次第に強くなる雨足に駅まで向かうのを諦め、すぐ傍にあった喫茶店の軒下に駆け込んだ。髪やコートに付いた水滴を払ってから古びた扉を押し開くと、カランコロンと心地よいベルの音が鳴る。時々ランチに利用するそのカフェは、昼間とは違って客はまばらだった。残業をしてきた為、店内の振り子時計は20時を指している。初老夫婦二人で切り盛りしているらしいその古き良き喫茶店は、間接照明のみが店内を灯し、落ち着いた雰囲気を醸し出している。「お好きな席へどうぞ」と初老の女性に声を掛けられた律は何となく一番奥のソファ席に着くと、ホットのカフェラテと、ついでに食事をとナポリタンを注文した。注文し終えて一息ついていると、再び店内にベルの音が響いた。つい入口の方へ目をやると、先程会社で別れたばかりの上司がそこに立っていた。背が高く体躯の良いその男は律に気づくと、驚いた顔をして近づいてゆく。
「菊田さん。」
「雨宿りか?」
「はい。派手に降られましたね。」
「あぁ、参った。」
普段しっかりと固め撫でつけられている髪は額に落ち、水滴が滴っている。菊田が濡れた前髪を掻き上げる様子に、律はどきりとした。
「ここ、いいか?」
「どうぞ。」
「断りづらいよな」などと笑って言いながら、菊田はコートを脱ぎ鞄と共に椅子に置くと、律の目の前の席に腰掛ける。丁度カフェラテを運んで来た店員に注文を聞かれた菊田は、メニューを開きながら律の方に目をやった。
「食事は?」
「頼みました。」
「じゃあ、ホットコーヒーと・・・カレーライスを。」
注文を受け去ってゆく店員を見送ると、菊田はふぅと息を吐き、手の甲で首元の水滴を拭う。その様子を見ていた律は、鞄からタオルハンカチを取り出すと菊田に差し出した。
「良かったら・・・あ、でも使ったやつだから・・・」
思い直してハンカチを持った手を引っ込めようとする律に、菊田は引き留めるようにその手首を掴む。
「いや、助かるよ。有難う。」
綺麗に微笑む菊田に目を奪われている間に、律の手からハンカチが抜き取られる。菊田は気まずそうにする律を他所に、ハンカチで額や首筋を拭っていく。その所作が厭に艶やかで、律はつい魅入ってしまった。
「悪いな、洗って返す。」
「いえ、寧ろ綺麗なものじゃなくてすみません・・・髪もしっかり拭いてください。風邪引きますよ。」
「あぁ。」
少し俯いて髪を拭く菊田を眺めていた律は、ふと目を上げた菊田と視線が交わる。次の瞬間、菊田はにっと口角を上げた。律は答えるように小さく微笑んで見せたが、そわそわと落ち着かずに視線を逸らす。正面からふっと声が聞こえた気がしたが、気づかない振りをした。
二人は運ばれて来た食事に手をつけながら、愚痴を織り交ぜた仕事の話など他愛も無い会話をする。菊田の低く落ち着いた声と話し方に律は心地良さを感じ、その空気感に身を委ねている。菊田も同じように感じているのか、会社にいる時よりも随分とリラックスしているように見える。因みに先程のハンカチは問答の末、しっかりと菊田の鞄に仕舞われてしまった。
食事を終え、菊田は一言断りを入れるとテーブルに置かれていた灰皿を引き寄せ、煙草を取り出して火を点けた。ゆっくりと吐き出された煙がゆらゆらと立ち登り、溶けるように消えてゆく。
「明日の予定は?」
互いに二杯目の珈琲とカフェオレを飲んでいると、不意に菊田が口を開いた。
「明日ですか?特に無いのでのんびり過ごすつもりです。」
「いいな。」
「菊田さんは予定があるんですか?」
「いや、俺もそうするかな。」
ふふと笑って「いいですね」と答える律に、菊田は口元を緩める。煙草を持った手で口元を隠すと、彼女のカップを持つ手元へと視線を落とした。
「雨、止んだみたいですね。」
律の声に菊田も窓の方へ視線を移すと、外を行き交う人々はもう傘をさしていない。心地良い時間を名残惜しいと思うのは自分だけなのだろうかと、菊田は気づかれぬ様、煙草の煙に溜め息を乗せて吐き出した。
「出るか?」
「そうですね。」
あまり上司に付き合わせるのも気を遣わせるだろうと声を掛ければ、目の前の彼女から仄かに名残惜しそうな香りがする。いつも通りにも見えるが、ほんの少し。都合の良い思い違いなのかもしれないが、どうしたって期待してしまった。
「すみません、ご馳走になってしまって。」
「ハンカチのお礼だって言ったろ。」
店の外へ出ると、雨上がり特有のしっとりと冷たい空気が肌を撫でる。二人は並んで駅への道を歩き出した。雨宿りの為のひと時は、なんだか夢心地だったと菊田は思う。
「冷たっ」
間の抜けた声と共に立ち止まった律に菊田がそちらを見ると、どうやら電線から降って来た水滴が頭に落ちたらしかった。雨を含んで額に張り付いた彼女の前髪に、気づいたら手を伸ばしていた。人差し指で髪を掬うようにして額から剥がしてやれば、彼女の瞳は大きく見開かれる。そこで漸く行きすぎた行動を取ってしまったことに気づいた菊田は、しかしゆらゆらと街明かりを映し出すその瞳から目が離せないでいる。そのまま頬に滴った水滴を指の背で拭ってやれば、律は静かに視線を落とした。もう少し、いいだろうか。菊田はその手を彼女の頬に添えると、滑らかな肌を親指でゆっくりとなぞる。それでも何も言わずされるがままの律の目は、伏せていても揺れているのがよく分かった。
「明日、」
漸く口を開いた菊田に、律は視線を上げた。戸惑い下げられた眉と、どこか潤んだ様な瞳に、菊田はぞくりとする。
「良かったら付き合ってくれねぇか?」
気になってる喫茶店があるんだよと呟く様に言う菊田に、律は消え入りそうな声で「はい」と答えた。静かで掠れた様な彼の声に、律は顔に熱が集まっていくのを感じる。頬に触れている菊田の手には、きっとその熱が伝わってしまっているだろう。
交わされた約束の意味を確かめる程、二人は野暮ではないようで。このもどかしい感情ですら慈しむように、再び並んで歩き出した。