短編
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律がちらりと目線を上げると、壁に掛かっている時計の針は22時を指していた。そのまま視線をずらすと、少し離れたデスクでパソコンに向かう菊田が、皺の寄った眉間をほぐすように摘んでいる。
「帰れそうか?」
「へ、あ、ぼちぼち、ですかね。」
つい菊田を見つめていた律は、見ていた方とは反対側から声を掛けられはっとする。このオフィスに残っているもう一人である月島は、仕事を終えたようだった。
「手伝おうか?」
「いえ、私ももう少しなので。」
礼を言えば、月島はそうかと離れて行った。そのまま菊田の方へ行き同じやり取りを繰り返すと、帰り支度を始める。
「菊田さん、あなた今日誕生日なんですよね。」
「ん?おぅ。」
身支度を整えながら投げ掛ける月島に、菊田はへらりと笑った。朝一番、杉元が持ち前の大きな声で祝っていた為、既に出勤していた面々には聞こえていただろう。
パソコンに向き合っていた律も顔を上げると、二人の方を見た。
「あなたがこんな時間まで残業しなくても。」
上司からの無理難題を菊田が一人で引き受けていた事に、月島も律も気づいていた。そしてそれを今、三人で手分けして捌いているところだった。菊田はいつも、さらりと面倒な仕事を引き受ける。面倒見が良く苦労人である菊田の助けになりたいと思うからこそ、月島も律も今日の残業を買って出た。
「誕生日を祝うような歳でもねぇよ。」
「もっと社員に振ればいいじゃ無いですか。」
「まあなぁ。二人ともさんきゅーな。」
菊田がにこりと笑うと、月島ははぁと溜息を吐いた。そしてちらりと律の方を見ると、また一つ溜息。意味ありげな視線を寄越す月島に、菊田は笑顔を崩さずにいる。
「まったく・・・今度珈琲くらい奢りますよ。」
「そりゃいいな。」
「じゃあ、お先に失礼します。」
月島が出て行くと、オフィスには律と菊田の二人だけになった。
マグカップを手に取り、すっかり冷えてしまった珈琲を一口飲むと、菊田は律の方を見る。
「お前も帰っていいぞ。」
「いえ、もう終わるので。菊田さんは終わりそうですか?」
「あぁ、俺ももう終わる。」
菊田は目を細めて笑うと、パソコンに視線を戻した。律もパソコンに向き直ると、煩い心臓を落ち着けるように、残りの仕事に集中する。密かに思いを寄せる菊田と二人。残業なんて苦にならなかった。
「ふぅ。」
漸く残りの仕事を片付け、律は一つ大きな伸びをした。
「終わったか?」
「はい。菊田さんは?」
「俺も終わった。」
菊田は首を横に倒し、小さくくぐもった声で唸った。その仕草でさえも色っぽく、律はつい見惚れる。視線に気づいた菊田が「ん?」と微笑むものだから、律はなんでもない風を装い、小さく微笑み返す。
「お疲れ様です。」
「お疲れ様。帰ろうか。」
二人は身支度を整えると、並んでオフィスを出る。他愛も無い話をしながら歩いていたが、会社の玄関で足を止めた。
「雨・・・。」
「結構降ってるな。」
二人は一応屋根の下まで出てみたが、予報に無かったその雨は無視出来ない程降っている。自動ドアが開いたり閉まったりしていた為、二人は自然と横へ移動しつつ、止みそうにない雨を眺めた。
「お誕生日なのに災難ですね。」
律は建物の壁に背をもたれ、空を見上げながら言った。しかし返事が返って来ない事を不思議に思い隣を見ると、ちょうどこちらに向けられた菊田の視線とぶつかった。
「そうでも無いよ。」
目を細めて言う菊田は、どこか艶やかで。いつもとは違う低く甘い声色に、律はどきりとした。
「そう、ですか。」
薄く微笑んだままじっと見つめてくる菊田から、律は目を逸らせずにいる。強く打ち付ける雨音は周囲を遮断しているかのようで、この空間には二人だけなのではないかと錯覚させる。
「月島にはバレてたな。」
「何が・・・?」
困ったように笑う菊田に、律は首を傾げた。
「分からない?」
菊田は小さく笑うと手を伸ばし、指の背で律の指先に軽く触れた。
「き、くたさ・・・」
「下心。」
触れていた指先をほんの少し絡めると、菊田は律の顔を覗き込んだ。色を含んだその視線に、律は身動きを取れずにいる。
「嫌?」
「・・・嫌じゃないです。」
目を伏せる律に満足気に笑うと、菊田は指先をしっかりと絡め直した。まるで恋人のように繋がれたその手に、律の頬は染まってゆく。
残業も雨も何もかも、今に繋がっていたのなら悪くない。多少謀った部分もあったのだが。そう思う菊田は上がる口角を抑えられず、軽く握った手で口元を隠した。
優しく二人を包み込む雨の音は、まるで祝福している様で。
目の前で頬を染める彼女に、菊田は柔らかく目を細めた。
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