短編
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「そろそろ金木犀香りますかね。」
「キンモクセイ?何ですかそれは。」
律と月島は、買い出しの為に街を歩いていた。ふと思い出した様に言う律に、月島は首を傾げる。
律は百二十年程先の未来から、この明治の時代に来てしまったと言う。理由はわからず、帰り方も分からないと。そんな彼女の口からは、こうして時々知らない単語が出て来る。
「え、もしかしてこの時代には無い・・・?いや、もしかしたら北海道に無いのかも・・・。」
考え込む律から説明があるまで、月島はじっと彼女を見つめる。その視線に気づいた律は、穏やかに微笑んだ。
「金木犀って言うのは、花の咲く木のことです。花をつけるのが丁度秋頃、冬の入り口頃で、とても甘い香りがするんです。」
「花ですか。」
聞いてみれば、人の背丈よりも少し高いくらいの木には、足の小指の爪程の、小さな橙色の花が鈴生りに咲くと言う。
「遠くから香る分にはとても素敵な香りなんですが、あまり近くで嗅ぐと、噎せ返る様な強い香りで。」
「そんなに。」
月島は知らぬ金木犀の香りに思いを馳せながら、律と同じものを共有出来ないことをもどかしく思った。
「でも金木犀の香りがすると、あぁ、今年も金木犀の季節だなぁって。嬉しい半面、ちょっと哀愁を誘うと言うか。」
「何ででしょうね?」と笑う律は、少し寂しそうに微笑んだ。
「・・・帰りたいですか?」
月島はつい、口を開いた。声に出してから、失敗したと思った。帰りたいのなんて当たり前なのに。しかし月島はもう、律の居ない生活を考えたくなかった。
「・・・どうでしょうね。帰ったら変わらない毎日が戻って来るでしょうね。あ、でも無断欠勤してる職場とか、借りてる部屋の家賃とか、出しそびれてた可燃ゴミとか・・・そう言うのを考えると恐ろしいです。」
可笑しそうに、そして困った様に笑う律に、月島は合わせる様にして笑った。しかし心は重く、どうか帰る方法が見つからないでくれと願ってしまう。
「律さんお帰り。」
律と月島が病院へ戻ると、杉元が律に声を掛けた。網走監獄の騒動の後、杉元やインカラマッ達の療養の為に、鶴見率いる第七師団とその他数名は暫くこの病院に身を寄せている。
「杉元さん、出歩いて大丈夫?」
病院に入ってすぐの待合。長椅子に腰掛けていた杉元は勢いよく立ち上がると、律に駆け寄った。
律は元々、杉元やアシリパ達に拾われて共に旅をしていた。月島などは今回の滞在で、初めて律と関わるようになった。
杉元は月島から引き離す様に、律の腕を引く。
「もう大丈夫だよ。」
そう言う杉元のこめかみ辺りに貼られたガーゼに、律はそっと触れる。その手首を優しく掴むと、「心配させてごめんね。」と呟いた杉元は、そっと律を包み込んだ。律の肩越しに、杉元は月島に敵意の込もった眼を向ける。
「無理しないで・・・。」
杉元の背中を優しく撫ぜる律から目を背け、月島は二人の傍を離れる様に立ち去った。
「月島さん、一本戴けませんか。」
夜も更けた頃、病院の外のベンチで煙草を吸っていた月島に律が声を掛ける。
「吸われるんですか。」
「えぇ、元の時代では。」
月島は面食らったが、煙草を一本取り出すと律に差し出した。律はそれを受け取りながら、月島の隣に腰掛ける。
「ありがとうございます。」
律が煙草を咥えると、月島は火を点けてやる。慣れた様子で深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す律を、月島は意外そうに見つめる。気怠そうに煙草を吸う律に、これが本来の姿なのかもしれないと月島は思った。
「こっちは星空が綺麗ですね。」
「元居た時代とは違うのですか。」
こっちというのは、この時代のことを指すのだろう。煙を吐き出しながら空を仰ぐ律を、月島はぼうっと眺める。
「そうですね。街がとても明るいので、星明かりなんかはこれの半分以下も見えません。街から外れれば見えますが。」
「そうですか。少し寂しいですね。」
「えぇ、便利ではありますが、寂しいです。」
夜空を見つめる律の目は、星明かりを受けて輝いている。
月島はこれまで、杉元一派と遭遇する度に律を見掛け、その存在は知っていた。この療養期間で初めて直に話す様になり、月島が律に惹かれるまでそう時間はかからなかった。始めは時々話してくれる未来の話に興味を持った月島だったが、いつからか彼女の物寂しい目が気になり出した。
平和な時代を生きていたと言う彼女は、敵味方という関係にしっくりきていないらしく、誰にでも優しい。強いて言うなら、行動を共にして来た杉元達には気を許しているくらいで、誰かに敵意を向けるような事は無かった。逆に言えば、誰かを贔屓することもあまり無かった。
「寒いですか。」
「流石に冷えますね。」
月島は着ていた外套を脱ぐと、震える律の肩に掛けてやる。
「月島さんが冷えてしまいます。」
「鍛えていますので。」
月島は慌てて外套を返そうとする律の手を握った。彼女の冷えた手を、煙草を持っていない方の手で揉むようにして温める。
「・・・月島さんは優しいですね。」
律は握られている手を眺めながら、小さく呟いた。
「そう思いますか?」
律が顔を上げると、月島と目が合う。その目はどこか熱を帯びているようで、律は小さく身じろいだ。月島は持っていた煙草を地面に落とすと、律の手から煙草を抜き取り、同じく落とす。二つの煙草の火を靴底で踏み消すと、月島は律を抱き寄せた。
「月島さん・・・?」
「ただの優しさで、こうして貴女に触れているとでも?」
驚く律を他所に、月島は抱きしめる腕に力を込める。意地悪く言う月島に、律は小さく身体を震わせた。
「困りますか?」
月島は囁くと、抱き締めたまま律の髪を撫でる。その手をゆっくりと移動させると、律の耳を軽く摘んだ。
「っ。」
すりすりと耳を弄られる感覚に、律は肩を揺らす。その様子に小さく笑った月島は手を下ろすと、少し身体を離し、律と目を合わせた。
「俺は貴女に触れていたい。いけませんか。」
「そ、れは、そう言う・・・。」
月島は、眉を下げた律の、紅く色づいた頬に手を伸ばす。
「はい。」
月島はゆっくりと律に顔を近づける。彼女が目を閉じたのを確認すると、月島はその唇に口付けを落とした。律はおずおずと月島の首に腕を回す。それを合図に、月島は律を抱き締め、後頭部を引き寄せると、角度を変えて何度も口付ける。
漸く唇を離すと、律は月島の胸に顔を埋めた。
「律さん、好きです。」
「私も、月島さんが好きです。」
何となく、お互いに惹かれあっているような感覚はあった。しかし誰にでも平等に接する律に、月島はその真偽を考えあぐねていた。漸く手に入れた彼女を離すまいと、月島はその身体をきつく抱き寄せた———。
月島は、閉じていた瞼をゆっくりと開ける。
見慣れたアパートの一室。夜は更け、外には闇が立ち込めている。換気をしようと開けた窓からは、柔らかな風に乗って、金木犀が香っている。何故か残っている前世の記憶に、月島は未だに心を掻き乱される。
律はあの後結局、元の時代に戻ってしまったのだと思う。金塊争奪戦が終わると共に、彼女は忽然と姿を消した。何の前触れもなく。先程までいた筈の律を振り返ると、もうそこに彼女は居なかった。
月島は家を出ると、すぐ傍の緑道を歩き出す。ゆっくりと歩みを進めながら、どこからか漂う金木犀の香りを胸一杯に吸い込んだ。
前世の月島は金塊争奪戦の後、東京で初めて金木犀を見た。渡来してきたばかりだったそれは、北海道ではあまり育たないらしい。漸く知った金木犀の香りに、今なら律の話に共感出来るのにと、胸が締め付けられた。
その感情は、前世から今この瞬間まで、月島を蝕み続けている。
そう言えば、今の自分はあの頃と同じ歳になる。月島は、律と想いを確かめ合った夜の記憶を思い返す。
ふと、金木犀に混じって煙草の匂いが鼻を掠めた。いつの間にか俯いていた月島が顔を上げると、少し先のベンチに人影が見えた。それは女性の様で、月島の心臓は大きく跳ねる。ゆっくりと煙草の煙を辿る様に、その人影の方へと足を進める。すぐ傍まで来ると、月島は足を止めた。
「一本、戴けませんか。」
気怠げに煙草を吸っていた女性が顔を上げる。月島はその表情に確信する。
「本当にこの時代は、星が見えないんですね。」
「えぇ、そうでしょう。」
静かに涙を流す彼女は、煙草の火を消した。月島はベンチから立ち上がった彼女の頬に手を添えると、親指で涙を拭ってやる。折角拭ってやっても、涙は後から後から溢れてくる。
「困りますか?」
そう言いうと月島は、ゆっくりと彼女に顔を近づけていく。答える代わりに、彼女は静かに目を閉じた。
金木犀の木が、二人のすぐ傍にある。
噎せ返る様な甘い香りが、二人を包み込んでいた。