短編
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「今日の飲み会行くか?」
定時になると、律は身支度を整え始めた。書類を持って後ろを通った菊田は、足を止めて律に聞く。
「行きますよ。菊田さんも参加ですよね?仕事上がれそうですか?」
律は菊田の手元の資料に目をやった。
「あぁ、乾杯までには間に合わせる。」
「手伝えることありますか?」
「いや、すぐ終わるからナマ頼んどいてくれ。」
資料を手の甲で軽く叩くと、菊田は笑った。
「分かりました。待ってますね。」
この後飲み会があるということで、社員たちは今日は残業をせず、定時になるとちらほらと会場に向かい出す。律も飲み会に合わせて業務を調整し、定時に上がった。
「律先輩、もう行けますか?」
「うん、行けるよ。」
帰り支度バッチリの杉元が律の傍までくると、一緒に会場に行こうと誘う。律が二つ返事で誘いに乗ると、二人は一緒にオフィスを出て行った。
菊田はちらりと二人を見ると、また書類へと目を落とした。
「かんぱ〜い!」
昔ながらの古い居酒屋。座敷席は社員たちで埋まっている。
部署の業績が良かったと言う事で開かれた宴会は、明るいものだった。職場から少し費用が下りることもあり、社員たちは楽しく酒を呑んでいる。
「菊田さん間に合わなかったね・・・やっぱり手伝えば良かった。」
律は少し離れた場所にある空席を見つめる。泡の減ったビールは、菊田に頼まれたものだ。
「菊田さん優しいですよね。」
「本当にね。曲者揃いの職場には、なくてはならない存在よね。」
笑いながら杉元に返す律は、ちらりと向かいの尾形を見る。
「あ?誰が曲者だ。」
「誰も尾形のこととは言ってないでしょ。」
「目が物語ってましたね。」
「ちょっと杉元くん、しー。」
「しーじゃねぇ。」
尾形が身を乗り出して律の頭を叩いた時、菊田が遅れてやって来た。
「おいおい、コンプラ的に駄目だろ叩いちゃ。」
後ろから律の両肩に手を置き、菊田は大袈裟に「大丈夫か?」と心配した風に顔を覗き込む。律は「あ、菊田さん。」と一瞬驚くが、これまた大袈裟に悲しい顔を作って見せる。
「酷いですよね、私訴えます。」
「そうか、その時は俺も証言しよう。」
「菊田さんのはセクハラじゃないんですか?」
団結して弄ってくる二人に、尾形はむすっとする。
「これは優しさなのでいいんです〜。」
「ねー」と笑顔を向けて来る律に菊田は笑顔を返すが、内心ドキッとした。正直セクハラと言われても仕方がない程度には、下心しかなかった。それに気づいている尾形は、じっとりとした目で菊田を見る。その視線に気づかないふりをして、菊田は周りを見回した。
「あ、菊田さんの席はあっちですよ。ビール頼んだんですけど、泡が・・・頼み直しましょうか。」
律が差した方を見ると、鶴見の隣に空席があり、そこに泡の無いビールが置かれていた。
「ありがとな。あれでいい。」
菊田はそう言うとその場を離れ、鶴見の隣へと座った。鶴見や周りの面々と二言三言交わすと、乾杯する。菊田は泡の無いビールを口にするが、律が頼んでくれたと思うと美味しく感じた。
程々に酔いの回って来た頃、菊田が律の方を見ると、相変わらず杉元と尾形と話している。後輩である杉元の話を微笑んで聞く律を、菊田はぼーっと眺める。その優しげな目元に、惹き込まれるように。
ふと、視線に気づいたのか律と目が合った菊田は、反射で目を逸らした。手遅れである事は明確だった。一度目があったのに逸らすなど、心を曝け出しているようなものだろう。菊田は内心動揺しながら、誤魔化すように何杯目かのビールを煽る。
「見過ぎだ。」
菊田が声の方へ顔を向けると、隣で鶴見がニヤリと笑っていた。
「・・・何がですか。」
「そんな無粋な事は言わんよ。いいじゃないか、応援しているよ。」
部内の事なら何でも知っている鶴見だが、ここまで来ると恐ろしい。にっこりと笑う胡散臭い鶴見に、菊田は頭を抱えた。
「律さん?」
急に他所を見て会話が途切れた律に、不思議に思った杉元が声をかける。
「あ、ごめん、何だっけ?」
笑顔で杉元に向き直る律から、尾形は先程彼女が見ていた方へと視線をずらした。なにやら鶴見に揶揄われている菊田の様子に、尾形はピンとくる。それを踏まえた上でもう一度律を見ると、どこかそわそわしているようで、尾形は面白くなかった。酔いのせいだけではなさそうな、色づいた頬も気に食わなかった。
「おい、煙草付き合え。」
尾形は席を立つと、律に向かって煙草の箱を持つ手を挙げた。
「え、杉元くん置いていけないから・・・」
「あ、俺も行きます。偶に吸うんです。」
杉元が鞄から煙草の箱を取り出すと、三人は店の前の灰皿がある場所へ向かった。
「あの、律さんって彼氏とかいるんですか?」
三人は煙草を吸いつつ雑談をしていたが、ふと杉元が伺うように尋ねる。
「彼氏?いな————」
「見てわからんか。」
律の言葉を遮り、尾形は彼女の腰を引き寄せた。律は呆れて尾形を押し返す。
「セクハラ。」
「ちょっと尾形さん、マジで訴えられますよ。」
杉元はほっとしつつ、律の肩を抱いて尾形から引き剥がす。
「尾形は黙ってればモテるのにね。」
「黙ってなくても案外モテるぜ?」
「あぁ、俺らの代でも人気ありますよ。あー俺ちょっと便所。先戻ってますね。」
杉元は煙草を灰皿に押し付けると、店内へ戻っていく。それを見送ると、尾形はオールバックを後ろへ撫で付けて「ははぁ。」とドヤ顔をする。
「ほらみろ。俺はモテる。」
「可哀想に。騙されて・・・。」
「お前なぁ。」
尾形は煙草を咥えたまま、両手で律の頭をわしわしと乱す。
「ちょっとやめてよ!あーあー・・・。」
尾形の手を振り払って、律は髪を直す。尾形は彼女の肩に腕を回し、ぐっと引き寄せると、耳元で囁いた。
「案外モテるんだぜ?」
急に低く甘い声で囁く尾形に、律はぞくりとする。抱き締められている様なその態勢に身を捩りながら、尾形を押し戻そうとするがびくともしない。
「ちょ、何・・・。」
じっと目を見つめてくる尾形に、律の鼓動は早くなっていく。いつも憎まれ口ばかり叩く尾形の、どこか色っぽい表情に充てられる。律の肩を抱き寄せる腕は、未だ力強くがっちりと掴んで離さない。
「はは。少しは意識したか。」
尾形はぱっと律から離れると、満足そうに笑った。
「たらし。」
「誰にでもやるわけじゃねぇ。」
頬を染めて睨む律に、尾形は笑いながら煙草を消すと、先に店内へ戻っていく。
杉元と尾形から遅れて戻って来た律の表情を、菊田は真剣な目で見ていた。
「いやぁー、明日仕事ないっていいっすね!二軒目行きますか?」
「俺は寝る。」
「ごめん私も帰る。」
「えぇー!律先輩が帰るなら俺も帰ろうかなぁ。」
一次会を終えてもまだまだ元気な杉元だが、尾形と律は帰り支度をする。
「分かりやすいなお前。」
「だって律さん可愛いじゃないですか。」
「えー嬉しいありがとう。でも帰る。」
笑いながらいう律に、杉元はがっくりと肩を落とした。
「おい杉元、お前が律ちゃんを口説こうなんざ100年早いんだよ。」
「うわ、白石さん!待って、俺律さんと一緒に・・・」
せめて律と一緒に帰ろうと慌てて身支度を整える杉元だったが、白石にガッチリと肩を組まれる。
「尾形ちゃんも帰さないよ〜⭐︎律ちゃん、今度デートしてね!」
白石から逃げようとしていた尾形も杉元と共に、呆気なく二次会へ連行されていく。
「また月曜日〜。」
にっこりと笑う律は、店を出ていく三人に手を振った。うるうると見つめて来る杉元と、恨めしそうに見て来る尾形を無常にも見送ると、律は靴を履こうと座敷の段差に腰掛けた。すると照明が遮られ視界に影が落ちる。目の前に革靴が見え、顔を上げると、そこには菊田がいた。
「帰るのか?」
「そうですね、終電ありますし。菊田さんは二次会に行かれるんですか?」
「いや、俺も帰る。」
靴を履き終えた律に、菊田は手を差し出した。どきりとしつつ、「ありがとうございます。」と呟いた律がその手を取ると、菊田は手を引いて立ち上がらせる。恥ずかしい様なむず痒い様な、何とも言えない空気の中、二人は並んで店を出た。
「あんまり喋れなかったな。」
「え?」
駅まで5分くらいの距離。菊田と律は、示し合わせたかの様にゆっくりと歩く。少し冷たい夜風が、酒で火照った身体を撫でてゆく。
「まだ時間あるか?コーヒー奢るよ。」
菊田はすぐそこにあるコンビニを差した。律は時計を確認する。
「いいんですか?」
二人はコンビニに入り、レジでホットコーヒーのカップを受け取ると、それをレジ横のマシンにかける。
「ありがとうございます。」
「付き合わせて悪いな。」
「いえ・・・。」
コーヒーが注がれるのを待っている間、律は置いてあるそれ用の蓋を二つ取り、手で弄ぶ。(嬉しいです)という言葉を飲み込んだ律は、菊田の優しげな目の意味を図りかねていた。
コーヒーが注がれたカップにそれぞれ蓋をすると、二人はコンビニを出て、すぐ側の緑道にあるベンチへと腰掛けた。先程までちらほら見かけていた社員達はもうおらず、木々に覆われた緑道は静かだった。
肌寒い空気の中コーヒーを一口飲むと、じわりと内側から温まる。
「飲み会楽しめたか?」
「えぇ、まぁ・・・。」
律は笑って答えたが、喫煙所での尾形のことを思い出し、つい虚空を見つめた。
「何かあったのか?」
何となく思い当たる節のある菊田は、じっと律の横顔を見つめる。
「あー、いえ・・・」
「尾形か。」
「え?見てたんですか?」
顔を上げた律は、真剣な表情の菊田と目があった。
「見てはないが、煙草から帰って来た時、ちょっと様子が気になってな。」
「あぁ、成程・・・。」
流石に内容までは言えないが否定もできない律は、眉を下げて小さく笑うだけだった。
「口説かれたか。」
「・・・どうなんでしょうね。本気かどうか分かりませんし。」
核心を突く菊田に、律は曖昧に答える。しかしそれは確実に肯定を示しており、菊田は内心焦る。
「俺も口説いていいか?」
「へ?」
唐突な菊田の言葉に、律から間抜けな声が出た。しかし熱を持った菊田の視線に、律は顔に熱が集まって来るのを感じる。
「部下を口説くのは骨が折れるんだよ。セクハラになっちまうと困るからな。」
菊田はベンチに置かれた律の指先に触れた。律の表情を見つつ、ゆっくりとその手に自分の手を重ねていく。
「こうやって様子を見つつ、相手が嫌がってないか、注意深く確認しなきゃならねぇ。」
ゆっくりと囁きながら、菊田は律の手首を親指で撫でる。菊田の視線に捉えられて離せないでいる律は、自身の心を見透かされている事に羞恥し、鼓動が早くなっていく。
「尾形が好きか?」
手首を撫でながら聞く菊田に、律は小さく首を振る。
「杉元?」
また同じく首を振る律の目は菊田を見据え、熱を帯び、少し潤んでいる。その瞳にぞくりとしたものを感じた菊田は、やや口角を上げた。
「俺は?」
律の目は更に潤む。ふるりと身体が震えたのが、触れた手から菊田に伝わって来る。
「ん?」
愉しそうに笑う菊田は、律の目を覗き込む。律は菊田に捕らえられていない方の手の甲で目元を隠した。
「い、意地悪しないでください・・・。」
か細い声で言う律に、菊田は頭に血が上り、くらりとする。
「否定しないなら良い方に捉えるぞ。」
菊田は言いながら律の目元を隠す手を取り横へずらすと、顔を近づける。
「いいんだな?」
近距離で目を合わせる菊田に、律は小さく頷いた。菊田はふっと笑うと、律の手を解放し、そのまま彼女の頬に手を添える。律を優しく見つめた後、菊田はその唇にキスを落とした。
「好きだよ。」
律を抱き締めると、菊田は彼女の耳元で囁く。
「嬉しいです・・・。」
律は菊田に身体を預け、その大きな背中に腕を回す。ひんやりとした空気に、その体温が心地良い。
しばらくお互いの温もりを感じていると、不意に菊田が口を開いた。
「終電あるか?」
律は勢いよく菊田の腕から離れると、時計を確認して唖然とする。その様子を、菊田はくつくつと笑って見ている。
「図りましたね。」
「お困りならちゃんと家まで送り届けるよ。残念だが。」
「・・・狡いです。」
「知らなかったか?」
優しく髪を撫で、額に唇を寄せてくる菊田に、律は絆される。その少し悪い笑みは、心臓に悪かった。
「・・・明日予定ないです。」
「そうか、嬉しいね。俺もだ。」
菊田はもう一度律を抱き締めると、「うちに帰ろうか。」と囁いた。
二人がタクシーを拾おうと立ち上がった頃、飲みかけのコーヒーはすっかり冷めていた。しかし指を絡ませあい、しっかりと繋がれた手は熱い。
二人はこれからの時間に思いを馳せ、高鳴る期待に胸を膨らませた。