短編
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「お腹空いた・・・。」
とあるオフィス。佐倉律は空腹に耐えていた。そろそろ昼休憩だと自身を奮い立たせながら、なんとかパソコンに向かっていた。
「佐倉。これ、よく出来てた。このまま準備進めてくれ。」
「菊田部長。ありがとうございます。」
菊田は律のデスクまで来ると、午後の会議に使う資料を手渡した。
「腹減ってんのか。」
「聞かれてましたか・・・。」
優しい目で笑う菊田に、律はばつが悪そうに笑い返す。「あと少し頑張れ。」と律の背中を優しく叩くと、菊田は自分のデスクへ戻って行く。律はその背中を見送ってから返された資料に目を落とすと、途中のページに付箋が貼ってある事に気がついた。資料をめくって付箋を見てみると、"終業後、いつもの店で"と菊田の字で書かれている。
律が菊田の方を見ると、デスクに戻った彼と目が合った。菊田は悪戯っぽく小さく笑うと、手元の書類に視線を落とす。律は浮つく心を落ち着けながら、午後の会議に向けて、資料の印刷をしようと席を立った。
「佐倉、これ確認頼む。」
「はいはい、いつまで?」
コピー機には先客がいた。律と同期の尾形は、厚みのある資料をコピー機の上に置いた。律が手に取ると、刷ったばかりのそれは温かい。
「午後までに欲しい。」
「は!?午後まで!?もうすぐ12時だけど!?何時!?」
「13時。」
唖然として何も言えなくなった律は、せめてもの抵抗をと尾形に出来るだけ最上級のメンチを切る。
「そう怒るなよ。俺だって先方に無茶言われて午前中に仕上げたんだ。」
確かに尾形は疲弊しているようで同情したが、でも何で自分なんだと複雑な表情をする律。
「お前なら確実だし早いだろ。」
そんな律の心情を読み取ったのか、尾形は疲れた顔で微かに笑い、前髪を後ろへ撫で付けて言った。
「・・・しょうがないな。」
煽てられては仕方がない。げんなりして言う律に、尾形は「ははぁ。」と笑った。
「俺もまだ昼の間にやる事がある。昼飯奢るから頼んだぜ。」
「ほんと?任せて。」
「現金な奴だな。この前気になるって言ってた店連れてってやるよ。」
急にやる気を見せた律に笑うと、尾形は彼女の肩をぽんと叩き、自分のデスクに戻って行った。
二人の様子を離れたデスクから見ていた菊田は、表情にこそ出さなかったが、面白くなさそうに頬杖をついていた。
「はい、内容いいと思う。付箋貼ったところ、誤字と改行ミスだけマーカーしといた。」
「助かった。」
本来昼休憩中のオフィスには、律と尾形のみ残っている。
「これ直して送るまで少し待ってろ。」
「頑張れー。」
早速パソコンに向かって修正を始める尾形に、律は隣のデスクの椅子を引いて座る。頬杖をついて横からモニターを覗き、修正内容の確認をしているらしい律をちらりと見ると、尾形はマウスを操作しながら器用に彼女の頭をぽんぽんと叩いた。
「はぁ。お陰様で間に合った。行くか。」
程なくして先方にメールを送り終えた尾形は、一つ伸びをして立ち上がった。
「お腹すいた・・・。」
「あぁ、流石に腹減ったな。」
二人は会社を出て、律の気になっていた喫茶店に向かう。
「わぁ、素敵。」
「悪くねぇな。」
「素直にいいって言えないの?」
こじんまりとしたその店には珈琲の良い香りが立ち込めており、古き良き喫茶店といった風合いだった。ところどころ散りばめられたステンドグラスは、店内の静かな照明をゆらゆらと反射している。
「会議の準備は終わったのか。」
「ほぼほぼね。あとは資料のホチキス留めだけ。」
「手伝ってやるよ。」
「ほんと?ありがとう助かる。」
仕事の話をしながらランチを取り終えると、律と尾形はホットコーヒーを口に一息つく。
「はぁ、もうそろそろ戻らないと・・・。」
「このままバックれちまうか。」
「それいいねぇ。」
時計を確認する律に、尾形は笑いながらふざけたことを言う。
「いいぜ、デートするか。」
「何言ってんの。」
頬杖をついて言う尾形を律は軽くあしらう。しかし尾形は笑うのをやめると、いつに無く真剣な目で律を見つめた。その視線に気づいた律は、誤魔化すように珈琲を飲み干すと「ほら、行くよ。」と席を立った。
会社に戻った律と尾形は、会議室で資料のホチキス留めをしていた。作業が終わると、律は資料をとんとんと揃えながら尾形に言う。
「ありがとう、助かった。このままセッティングしちゃうから戻ってて。」
尾形は「あぁ。」と短く返した。ふと、隣にいた律の腰にするりと腕を回すと、その身体を引き寄せる。
「わっ・・・尾形・・・?」
突然密着した身体に驚き、律が隣を見上げると、尾形は色気を含んだ顔で笑った。
「デート。気が向いたらいつでも言えよ。」
それだけ言うと、尾形はあっさりと律から離れ、会議室を出て行ってしまった。尾形の不意打ちに驚いた律は、顔に熱が集まるのがわかった。しかしそれを振り払うように頭を振ると、資料を机に並べ始める。
尾形が会議室を出ると、扉の外に菊田がいた。扉には細長い窓が嵌め込まれている。きっと菊田は、律と尾形のやり取りを見ていたのだろう。壁に背を預けている菊田と目が合うが、尾形はそのまま歩き出す。
「油断してたら攫いますよ。」
尾形は振り返らずに言った。菊田は一瞬怪訝な顔をするが、薄く笑みを作って尾形を見る。
「奪えるもんならな。」
冷静な声で返す菊田に、尾形は反応せず歩いていく。尾形の背中が見えなくなると、菊田は会議室の扉を開けた。中に入ると、机に資料を並べていた律が顔を上げる。
「菊田部長。」
「律。」
どこかどぎまぎきしている律に近寄り手首を取ると、菊田は彼女を壁際に引っ張っていった。戸惑う律を他所目に、菊田は彼女をきつく抱き締める。
「き、菊田さん、ここ会社・・・!」
扉側の壁際にいる二人は人から見られない位置にいるとは言え、会社では恋人同士の触れ合いをしない約束だったはず。律は焦るが、それでも菊田は抱き締めた腕を緩めようとしない。
「いつも通り呼べよ。」
低い声で囁く菊田はどこか怒っているようで、律の心臓は嫌な風に早打っている。
「律。」
もう一度、低く静かに名前を呼ばれた律は、呼び慣れたはずの名前をたどたどしく口にした。
「杢太郎、さん・・・。」
菊田は律の背中を壁に押し付けると、彼女のシャツの襟をぐいっと開き、その首元に噛みついた。
「いっ」
ぎりぎりシャツで隠れるあたりに歯形をつけると、その跡をべろりと舐める。
「あっ、杢太郎さんっ」
律は菊田の肩を押しやろうとするが、びくともしない。
「浮気か?」
「え・・・。」
菊田は冷たく言うと、律の首筋をねっとりと舐め上げる。声を抑え、小さく震える律は煽情的で、菊田はぞくぞくと背中に這い上がってくるものを感じた。その冷えた目には、僅かに熱が篭った。
「う、浮気なんてしてなっ」
律が言い終わる前に、菊田は彼女に噛み付くようなキスをする。律の口内に舌を侵入させ、荒々しく掻き回していく。
律は初めて見る菊田の様子に身体を強張らせる。しかし同時に、普段は優しく大人な菊田が、こんな一面を持っていたのかと悦びに似た感情も覚えた。
「っは。尾形に口説かれてたろ。」
短く息を吐き顔を離すと、菊田は濡れた律の唇を親指でなぞった。菊田の目はまだ冷たさを残すものの、熱を大きく孕んでいる。その鋭い視線に、律の鼓動は早くなっていく。
「見てたの・・・。」
初めて見る菊田の獣のような表情に、律はぞくりとした。律の瞳には欲情が滲み、熱っぽく潤んでいる。しかしそこに怯えが垣間見え、菊田ははっとする。
「・・・悪い。嫉妬した。」
「私が好きなのは杢太郎さんなのに・・・。」
菊田は眉間に皺を寄せて、律の頬を優しく撫でる。その余裕の無い表情が自分のせいなのだと思うとやるせ無くなり、律は菊田の背中に腕を回した。愛しい恋人の体温をもっと感じようと、菊田は包み込むように抱き締め返した。
「律にその気がないのはわかってる。でも隙があるんだよ。男はそう言うのに弱いからな。俺もやられたクチだからよく分かる。」
「隙・・・。」
律も温もりを感じようとしているのか、自身の胸元に頬を擦り寄せる姿に、菊田は目を細める。
「会社では上司と部下でいようって約束だが、もう少し、男がいる事を匂わせてくれ。」
菊田は自分の男なのだと改めて言われたような気がして、律はカッと顔が熱くなった。
「うん・・・不安にさせてごめんなさい。」
律は菊田の胸に顔を埋めて言った。菊田は律の顔を覗き込むと、どこか愉しそうに、意地悪な笑みを見せた。
「そうだな、お仕置きが必要だな。」
「え。」
呆気に取られている律の耳元に唇を寄せると、菊田は低く色を含んだ声で囁いた。
「仕事が終わったらうちに来い。」
「店は辞めだ。」と口角をあげる菊田の色気に、律は眩暈がしそうになる。
「お預け状態だからな。」
菊田は困ったように小さく笑うと、優しく、丁寧に、律の唇に触れるだけのキスを落とした。ちゅ、と小さな音を立てる。
「杢太郎さん・・・好き。」
眉を下げ、控えめに言う律に、菊田は堪らなくなる。
「おい、煽るなよ。」
はぁ、と大きな溜息を吐いた菊田は、律の頭をぐっと自身の胸に引き寄せた。
「愛してるよ、律。俺がお前の男だって事、今夜嫌と言うほど教えてやる。」
菊田はその夜、宣言通りに律を愛した。ひたすらに優しく甘かった今までとは違い、それはまるで所有欲を満たすような、情熱的な愛し方だった。
(これじゃ俺の女だと分からせてるようなもんだな。)
菊田は自分に呆れて笑う。しかしいつにも増して甘く乱れる恋人に、理性が働くはずもなく。
菊田は欲望のままに律を抱き、翌日の休みは目一杯甘やかしてやることにした。