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燕子花は愛を語る


4.いずれ菖蒲か、燕子花

「じゃあ雷蔵、また明日な!」
そう言って立ち上がり、手をひらりと振って医務室から去っていく八左ヱ門を、雷蔵は努めて笑顔で送り出した。
あの日、三郎が去ったあとすぐ、少し席を外していたという校医の新野先生と保健委員長の伊作が戻ってきた。ふたりは、三郎がその場にいないことや雷蔵の表情が翳っていることに気が付いて、ほんの少しだけ首を傾げていたが、深くは追求せず雷蔵が必要としていることを教えてくれた。
どうやら、気を失った雷蔵は三郎に抱えられて学園まで戻ってきたらしい。少し足を挫いてはいたものの、ただ疲れから眠り続けていただけで命には別状はないこと。念の為に、足が万全になるまでは医務室で過ごして欲しいことを説明され、雷蔵はただ言われるがままにうなづいた。正直、その時の雷蔵にとってその提案はありがたい話だった。少しだけ、三郎と顔を合わせるのが怖かったのだ。
医務室での生活は、雷蔵が想像していたよりも退屈なものではなかった。放課後になれば、代わる代わる友人たちが顔を見せてくれるし、授業のノートを写させてもらったり、課題に取り組んだりとやることはたくさんあった。それらに集中していると、三郎のことを考えずに済むのも今の雷蔵にはありがたかった。
三郎は、あの日以来一度もその"姿"を見せることはなかった。三郎はどうしているのかと友人たちに聞くと困惑する様子を見せたので聞くのは辞めた。どうやら、雷蔵と三郎は喧嘩をしていると学園では噂になっているらしい。三郎が雷蔵以外の姿にコロコロと変わって授業を受けていること。話しかければ、いつもと変わりないように振舞ってはいるもののどこか元気がないような気がすると風の噂で聞いた。
だが、雷蔵は気がついていた。三郎は"いつもの姿"を見せていないだけである。
ある時は、兵助に。ある時は、勘右衛門に。ある時は、伊作に。誰かの"姿"を借りて、彼は毎日雷蔵の様子を確かめに来ている。そして、決まって帰り際に"また明日"と言うのだ。先程の八左ヱ門は"三郎"だと雷蔵は確信していた。
その匂い、その瞳、そしてその声に含まれるほんの少しの熱が、その人が鉢屋三郎であることを雷蔵に教えてくれた。
――僕は、三郎の何を知っているのだろう
誰よりも近くにいて、誰よりも彼のことを知っている気がしていた。
だが、三郎と共に過ごした時間は彼の人生のたった5年間だけだ。三郎の素顔も、三郎の故郷も、三郎の家族のことも、三郎があの日隠した手紙のことも何一つとして雷蔵は知らない。彼が隠そうとするものを雷蔵は何一つとして知らなかった。悔しかった。三郎のことなら何だって分かるだなんて自惚れていた自分が情けなかった。雷蔵が愛した当たり前の日常は、三郎がそれを望むからそこにあったのだ。どちらかが、手放し、諦めてしまえば崩れさってしまうような脆く、危ういものだったのだと崩れてしまってから雷蔵は気が付いた。それでも、だ。あの夜にほんの一瞬だけ見た三郎の熱が宿った眼差しが忘れられなかった。雨の日に、ただいまと笑った泣きそうな瞳が忘れられなかった。
――ごめん、雷蔵
耳に残る三郎の声がこびりついて離れない。
あの日、三郎は確かに泣いていた。三郎が唯一隠しきれない"雷蔵が唯一知る彼の素顔"は泣いていた。
――その瞳は、雄弁に愛を語っていた。
涙がボロボロと零れ落ちる。何も知らなくてもいい。彼が何者でもそんなことはどうでもよかった。ただ、雷蔵が知っている、その瞳で見てきた鉢屋三郎のことを好きだと思った。
「……不破!?」
ガラリ、と引き戸が開き入ってきたのは、善法寺伊作だった。
「何があった? どこか痛むの?」
動揺したのか自分が持ってきたトイレットペーパーを落として伊作はドスンと大きな音を立てて躓いた。いたたたた……とタンコブを作りながらも伊作はすぐに雷蔵に向き直る。
「……痛むのは、心?」
気遣うように微笑む伊作は、どこかで噂を聞いたのかもしれない。恐らく原因の察しがついているのだろう。先程よりは幾分か落ち着いて見えた。誤魔化すものでもないと、雷蔵はただ静かに頷いた。
「足は順調に治っていると思います」
ただ、これを伊作に相談するのもおかしな話だと思って雷蔵は話を逸らした。伊作は頷くと、手際よく雷蔵の足の様子を観察した。
「確かに、明日明後日には完治するね。身体もすっかり回復してるし、新野先生に診てもらって許可がおりれば部屋に戻って構わないよ。もちろん、授業も」
「……ありがとうございます」
部屋という言葉が重くのしかかる。その様子を見て、伊作が再び口を開いた。
「あのさ、お節介かも知れないんだけどね。あの日、君を連れて帰ってきた鉢屋は、顔面蒼白で取り乱していた。あんな鉢屋を見たのは、はじめてだったよ」
ゆっくりと語る伊作の表情は優しかった。
「雷蔵は助かるのか、何ともないのかって。留三郎たちに手伝ってもらって何とか落ち着かせて……落ち着いたあと、彼は僕や新野先生が止めてもずっと君のそばにいたんだ」
――だから、きっと仲直り出来るよ
僕が話したのは内緒にしてね、伊作はそう言って笑った。

◇◇◇◇◇◇

梅雨らしく、空はどんよりと曇っていた。
久しぶりに見たツバメは仲睦まじく子育ての真っ只中で、親鳥がヒナに一生懸命餌を与えている様子が微笑ましく、雷蔵の心をほんの少しだけ明るくさせる。
「おー! 順調だな~」
満面の笑みを浮かべながら、八左ヱ門が声をあげた。
「ホントだね。このまま上手く育ってくれるといいけど」
「とりあえず、ジュンコたちが近寄らないように気をつけさせないとな~」
生き物のことを考えている八左ヱ門はやはり生き生きとしている。生物委員会の後輩の名前をあげながら、アイツらにも見せてやってもいいか?と尋ねたかと思えば、ツバメの外敵について語り始めたのを雷蔵は黙って聞いた。
「でもまあ、俺たちが出来るのはここまでだな。あとは、人間は手を貸せない」
「え、そうなの?」
「生き物は、最後は自然界で自分の力で生きていけるようにならないといけないんだ。だから、人間が下手に手出しするとヒナの成長を止めてしまうことになるかもしれない」
「あー、なるほど。さすがだね、八左ヱ門。僕も気をつけなきゃ」
そうだ、三郎にも……と言いかけたところで雷蔵は言葉を止めた。授業に復帰して数日経つが、三郎とはまだ話が出来ていなかった。夜もどこで眠っているのか、部屋に戻ってくる気配がなく、雷蔵は悩んでいた。
そんな雷蔵を見て、八左ヱ門も何かを考える素振りを見せる。
「あのさ、雷蔵。三郎のことだけど」
話してもいいだろうかと伺うように視線を感じ、雷蔵は「うん」と相槌を返す。
「これはふたりの問題なんだろうから、俺たちは口を出すべきじゃないんだろうけどさ。でも俺、雷蔵と三郎は一緒にいるべきだと思うんだ。なんて言うか、それが自然というかそれがあたりまえというか……」
何言ってるか分かんないよな、と八左ヱ門が照れくさそうに笑った。
「上手くいえないけど、難しく考えすぎるなよ」
初夏の風がザァっと吹き抜けていくと同時に、少しだけ心が軽くなった気がした。
「八左ヱ門」
「ん? どうした?」
「三郎は、僕と話してくれるかな」
「大丈夫さ。三郎が雷蔵のことを好きなのは、当たり前だって本人が言ってただろ。ふたりが忘れても、俺が覚えてるよ」
――行ってこい
背中をトンと押されて、雷蔵は駆け出した。

その背を見送りながら八左ヱ門はほっと息をつく。少し、手を出しすぎたかもしれないなと反省するが、その気持ちはピィピィと雛たちが唄う声が聴こえてきて吹っ飛んだ。後輩たちを呼んでくるか……ぐっと伸びをして歩き出す。
雲の切れ間からは、日差しが差し込んできた。

◇◇◇◇◇◇

「三郎!!!」
"知らない誰か"の姿をした背中に向かって、雷蔵は叫んだ。八左ヱ門と別れたあと、雷蔵は学園内を文字通り駆け回った。学級委員長委員会が普段から使っている部屋。5年ろ組の教室。三郎が日頃好んで昼寝をしているところ。思いつく限りのところを回って、色んな人に三郎を見なかったかと声をかけて、ようやく最後に辿り着いたのはふたりの部屋だった。結局、雷蔵はスタート地点に戻ってきたのだ。
いつからそこに居たのか。三郎はただじっと自分の机に向かって座っている。その背中を見つめながら、雷蔵は肩で荒く息をした。ずっと走っていたせいで、乾いた咳がこほりとこぼれる。その音に、ほんの少しだけ三郎の肩がピクリと動いた気がした。だが彼は何も答えない。
「三郎、話がしたい」
もう一度、雷蔵は呼びかけた。
それでも、三郎は微動だにしなかった。逃げもせず、ただそこに座っている。
きっと、悩んでいるのだと雷蔵は思った。そして、彼のその葛藤こそが答えだと受け止め、引き戸を閉じて部屋の中に入る。三郎はどこにも逃げなかった。あまりにも静かだった。
「……好きだよ」
言うつもりはなかったのに、気が付けば言葉が零れ落ちていた。
「好きだ、三郎。他の誰でもない。鉢屋三郎、お前のことが」
ぽとり、と涙が机を濡らした音が部屋に響いた。一度溢れ出した涙は堰を切ったようにぽとり、ぽとりと零れ落ちる。
「……その言葉は聞けない」
それでも、三郎は静かに言い放った。
「……っ……どうして!」
思わず、雷蔵は床を蹴り三郎の背中に縋り付く。
「その言葉を、受け取る訳にはいかないんだ」
「嫌だ」
「……分かってくれ、雷蔵」
「嫌だ」
「雷蔵!」
「嫌だ!!!!」
これではまるで幼子だ。分かっていた。でも、止められなかった。衝動的に、三郎の肩を掴み振り向かせる。思った通り、三郎の顔は涙でぐしゃぐしゃに歪んでいた。じっと、その瞳を見つめる。
「僕の目を見て」
互いに視線はそらせなかった。
「僕の目を見て、三郎。僕の目を見て、僕が嫌いだと言えるのか?」
涙でぐしゃぐしゃで視界が歪む。それでも、雷蔵は目をそらさなかった。そっと、三郎の目が伏せられる。そして、彼は身体を震わせながら絞り出すように言葉を零した。
「……嘘でも、言えるわけがない」
互いの視線が再び交わる。
「……私は、君に生きて欲しいんだ。雷蔵」
「僕は生きてるよ、三郎」
「手紙が届いたんだ、実家から」
そう言って、三郎は机の引き出しから手紙を取り出した。それは、いつかの夜に見たものと同じものだった。困惑する雷蔵に、三郎は手紙を開きながらポツリ、ポツリと語り始めた。
曰く、三郎の実家は暗殺や奇襲を得意とする忍の集団で、三郎が日頃から変装の腕を磨くのも一族の方針らしい。今回の手紙は卒業後は里に戻るようにと三郎に釘をさすためのもので、そこには雷蔵のことも書いてあったらしい。
「どうして、僕のことが?」
「私が、君の変装ばかりしているということを聞きつけた者がいるらしい。それで、君が何者なのか嗅ぎ回ろうとしている」
「それは、僕を狙っているということ?」
「すぐに危害を加えようとしているわけじゃない。私が里に戻れば問題はないし、君のことは私が守る」
「じゃあ、どうして……」
「忍務に出て、自分の力不足を痛感した」
三郎の瞳に悔しさが滲んだ。返す言葉が見つからず、雷蔵は黙って続く三郎の言葉を聞いた。
「あの日、雷蔵が私のために引き返したとき血の気が引く思いだった。忍だというのに、雷蔵のことになると平静を失うことに気がついた。それは、雷蔵も同じじゃないのか?」
――それとも、これは私の自惚れだろうか
三郎の言葉に、雷蔵ただ首を横に振った。
「僕も、そうだった」
「私は、雷蔵のことを大事に思っている。でもそれは、忍として生きていく上で君の枷になるかもしれない。それが、怖かった」
互いの姿をして、共にいれば自ずと敵に知られることになる。三郎が言わんとすることは、雷蔵にも痛いほど伝わってきた。だが、同時に雷蔵はそれでも共に居たいと強く願っていた。
「……ねえ、三郎」
語りかける雷蔵の瞳を三郎はじっと静かに見つめてきた。
「僕らなら、その弱みを強みに変えられると思わないか」
「……と、言うと?」
「不破雷蔵あるところ、鉢屋三郎ありさ……なんだろ? なら、鉢屋三郎あるところ、不破雷蔵ありさ、だよ。僕ら一緒にいることが僕らの最大の武器だ」
三郎はきょとんと呆けた顔をして雷蔵の顔を凝視していた。
「三郎、僕から逃げないで。僕ら、一緒に生きていこう。これだけは、迷わないで言える。他の誰でもない、やっぱり、僕は三郎が好きだよ」
雷蔵はもう、思いが通じるだとか通じないだとかそんなことはどうでもいいと思った。ただ、今ふたりが共にいる。それだけで、幸せだと思った。
三郎は、すぐには応えを返さなかった。雷蔵の言葉をただ受け止め、じっと押し黙っている。
「雷蔵」
長い沈黙の末、三郎がポツリと呟いた。
「少しだけ、目を閉じてくれないか」
目を閉じれば、三郎が消えてしまうような気がした。だが、雷蔵はそっと言われるがままに目を閉じた。今、三郎を信じなければと思った。
「いいよ、雷蔵」
目を閉じていたのは一瞬だった。促され、そっと目を開けると、そこには"いつもの"鉢屋三郎がいた。
「三郎……」
「これが私の答えだといえば、分かってもらえるだろうか」
「……分かる、分かるよ、三郎」
そっと、その身体を抱きしめれば同じ強さで抱き返される。それだけで充分だった。互いから伝わる温度が優しくて、雷蔵はそっと今度は嬉し涙を流す。
「私は、君に素顔すら晒せないんだぞ。それでもいいのか?」
「そんなの、今さらじゃないか」
「……それも、そうか」
「僕は、僕の顔をした三郎が好きだよ」
「素顔を見たいとは、思わないのか?」
「いつか、いつかでいい。お前がそのつもりになったら、見せてくれ」
――だから、ずっと一緒に生きていこう。
そっと、唇が重なり合う。
耳元で聴こえた三郎の声に雷蔵は花が綻ぶように笑い、そしてふたりはもう一度唇を寄せあった。

――雷蔵、愛してる

ふたりの未来は、ここからずっと続いていく。
見つめあった瞳は、雄弁に愛を語っていた。
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