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燕子花は愛を語る


3.ふたり

 学園長先生からお使いを言い渡されたのは、あの夜から半月程過ぎた日のことだった。
「大変な思いをしたのに、もう次のお使いとは学園長先生も人が悪い」とボヤきながら先を歩く三郎に「ほら、でもおこづかいもくれたわけだしさ」と慰めの言葉をかけつつ背中を追いかける。
 今日のお使いは、学園と懇意にしているある城に手紙と封をされた〝何か〟を届けることだった。
 一見すると簡単で、下級生でも出来そうなこのお使いをわざわざ五年生のふたりに頼むからには重要なものなのだろう。念の為、届ける手筈になっているものは別々に懐にしまっている。
 だが、歩みを進めるふたりの距離がいつもよりほんの少し開いているのはこのためばかりではないことに雷蔵は気が付いていた。
 あの夜以来、ふたりの間には見えない壁が出来たようだった。
 表面上はいつもと変わらない日常だ。三郎とは普通に話をするし、彼は今日も雷蔵の姿をしている。授業を受け、馬鹿みたいな話で友人たちとともに笑い合い、食事をする。
 だが、風呂は何かと理由をつけてひとりで入っているようだった。おそらく、この間の忍務で怪我を負ったのだろう。それを隠そうとしてのことだと、雷蔵は推測した。
 三郎は時折、どこか思いつめたように考え事をしていることが増えた。
 今もそうだ。ただ静かに前を見つめて歩いている。
「あのさ、三郎」
 雷蔵が声をかけたのは、目的の城に続く山道を登っている最中だった。
「どうした?」
「ここ、昔も通ったの覚えてる? ほら、学園長先生の思いつきで、チーム対抗の実習をしたときに来たことあるだろ」
「…………雷蔵との思い出なら、何だって覚えてるさ」
 そう言いながら、三郎が目を細める。
「あの時、私たちのチームは散々だったな」
「うん。意見が合わなくて、喧嘩になっちゃったんだよ」
 実習は、どのチームが先に城に辿り着けるのかを競うものだった。様々な罠が仕掛けられ、協力しながら日頃の知識を生かせるかを試すことが目的だったのだろう。
 あの頃のふたりは、まだまだ子どもだった。それは同級生たちも同じことで、三郎と級友のひとりの意見が食い違い、言い争いになってしまったのだ。
「この道を歩いてたら、急に思い出したんだ。僕、確かあの時はぐれて迷子になった」
「……君は優しいから」
「違うよ。僕はただ、未熟だったんだ」
「それは耳が痛いな。未熟だったのは、私もだよ、雷蔵」
――三郎、もっと周りを見て
 あの日。喧嘩の末、放たれた雷蔵の言葉に、三郎は別行動をするといって走り去った。そんな三郎を追いかけて、雷蔵は迷子になったのだ。
「天才だ、何だと言われて生意気になってたんだ。君に言われて、気がついた」
「そんな、大袈裟だよ。それにそのあと、僕は結局迷い癖が出ちゃって迷惑をかけたし」
 確か、この道を逸れて下ったところに沼地があった。山道から足を踏み外した雷蔵はそこから動けずにいたのだ。
「あのとき、三郎は助けに来てくれただろう」
「私が雷蔵を探さないわけない」
「……お前のそういうところ、感謝してるよ」
 必死で涙を堪えていたけれど、不安だったのを覚えている。それでも、三郎は来てくれると信じていた。
「三郎なら来てくれるって何故か自信があったんだ」
 あの日、あの沼で咲いていた花は、菖蒲か燕子花か。記憶を辿ることに集中する雷蔵は、その様子を切ない瞳で見つめる三郎には気が付いていなかった。
 
 ◇◇◇◇◇◇
 
 お使いは無事に果たすことが出来た。
殿様は、あの実習に協力してくれる程度には学園に友好的な方だったから、ふたりを労ってくれたし、褒美に南蛮の菓子を振舞ってくれたのは役得だった。
 しかし、問題は帰路についてから起こった。
 雷蔵の懐には、殿様から預かった手紙が。三郎の懐には、中は決してみないようにと言われた包みが仕舞われている。おそらく、これが何らかの意味を持つものなのだろう。気が付けば、ふたりは何者かによって後をつけられていた。
「……三郎」
 目配せをし、ふたりは同時に走り出し出す。かなりやり手の忍なのだろう。音もなく、気配をも隠しながら追いかけてくる忍を相手に、雷蔵は額から冷や汗が流れてくるのを感じた。
 身を隠すべきか、それとも応戦すべきか。悩みながらも走り続ける雷蔵に向かって飛び道具が飛んでくる。それを避け、ふたりは木陰に身を隠す。
「このまま別々に、町まで走ろう」
 相手はひとり。共倒れだけは避けなければならない。三郎の作戦は正しかった。だから、
 ――お前は怪我をしてるじゃないか
 雷蔵はその言葉を飲み込み、本音に蓋をした。互いに頷き、木陰から飛び出す。目の前に忍が現れ、立ち塞がったのはその時だった。
「お前たちが持っているものを置いていけ」
「それは出来ない」
 三郎が懐から鏢刀を取り出し、投げつける。見事な早業だが、相手はさすがプロだ。三郎の攻撃を避け、応戦している。
「雷蔵! 行け!」
 三郎の声に弾かれたように、雷蔵の足が動き始め、そしてまた止まった。
 ――何かがおかしいのではないか
 それが、何かは分からない。だが、嫌な予感がして雷蔵は足を止めて振り返る。そして、目を見張った。
「雷蔵!!」
 三郎の怒声が響き渡った。
「迷うな!!」
――違う、三郎
 ニヤリと薄ら寒い笑みを浮かべる敵と、庇うように腹を抑えながら、目を見開き驚く三郎。視界にうつるものすべてがゆっくりと動いているように見えた。ただ、雷蔵は苦無を手に無我夢中で走って、走って、走って…………
「三郎!! 後ろだ!!」
 紙一重で交わす三郎に代わって、雷蔵は背後から忍び寄っていたもうひとりの敵に対峙する。衝撃を受け止めた手から痺れが伝わり、弾き飛ばされた苦無が頬をかすってたらりと血が流れた。敵は、ひとりではなかった。最初から、ふたりいたのだ。
「このガキが……!」
 目の前の忍びが、再び武器を構える。苦無を拾いあげ、ふらつく体勢を立て直そうと試みるが、間に合わない。
――ああ、死ぬのか
 はじめて、自分の死を意識した。三郎が死ぬかもしれない、そう思った時は酷く怖かったのに不思議と今は冷静だった。
「らいぞおおおお!!」
 胸元に突き立てられた刃よりも先に、三郎の手から放たれた鏢刀の方が僅かに早かったのだろう。真っ赤に染まる視界を前に、生きなければと雷蔵は強く思った。
 
 ◇◇◇◇◇◇
 
――雷蔵!
ただ真っ直ぐに僕を呼ぶお前が眩しかった。
――雷蔵、ここにいたのか
どこにいても僕を見失わず呼びかけてくれるその声に安心した。
――雷蔵、君はどうしたい?
〝迷い癖〟だなんて迷惑をかけるのに、僕を信頼してくれるお前に応えたかった。
――ただいま、雷蔵
自由に羽ばたくお前が、他の誰でもなく真っ直ぐ僕を見つめて笑うその瞳が愛おしかった。
――不破雷蔵あるところ、鉢屋三郎ありさ
お前が隣にいるだけで、平凡だった僕の人生が色づいたように感じた。
 
そんな当たり前の日常を、
僕は心の底から愛していた。
 
 ふっと意識が浮上する。夢を見ていた気がした。ゆっくりと眼を開けば、視界が暗闇に包まれ、今が夜であることを物語る。ツンと鼻を突く薬草の臭いに、雷蔵は眉を顰めた。
 ここは、学園の医務室だ。
では、なぜ今自分はここにいる……?記憶を辿り、そして雷蔵は弾かれたように身を起こした。
「……三郎!!」
 身体が軋み、悲鳴をあげる。
 だが、そんなことはどうでもよかった。お使いの帰り道、忍たちと対峙し、何とか難を逃れたことまでは覚えている。互いの無事を確認し、ほっと息をついたあとはどうなったのか。雷蔵の記憶はそこで途切れていた。
「雷蔵!!」
 すぐそこに彼はいた。
「さぶろ……」
「無理するな」
 伸ばした手が優しく包まれ、立ち上がろうとすると動きを制された。その手は冷たく震えていたが、触れ合ったところからドクンと互いの鼓動が伝わってくる。
 ――ああ、僕らは生きている
「無事でよかった」
 思わず、涙が零れ落ちた。強ばっていた身体の力が抜けていく。
「それはこっちの台詞だよ、雷蔵」
 そう返した三郎のその声が震えているのは、勘違いだろうか。長い間眠っていないのだろう。仮面で隠していても、三郎の表情からは疲れが滲んでいた。
「何があったか、聞いても?」
「君は、あの後すぐに気を失ったんだ」
「何日眠ってた?」
「三日」
「……三日も」
 そんな感覚は全くなかった。
「……お使いは?」
「預かったものは無事に引き渡せたよ。雷蔵が心配することは何もない」
「良かった……」
 あの手紙と包みが何なのか、どんな意味を持つのかは何もわからない。ただ、果たさなければならないことを無事に終えられたことが分かり雷蔵はほっと肩を撫で下ろす。
「三郎、君は? どこも何とも?」
「……私は何ともないよ」
「本当に? 我慢してるんじゃないだろうね」
 食い下がる雷蔵に、三郎はただ首を横に振る。その手がほんの少しだけ右の腹を触ったのは気のせいではないはずだ。雷蔵は思わず、口を開く。
「さぶ……」
「なぜ……」
 だが、雷蔵の言葉は三郎の呟くような声に遮られた。雷蔵は思わず息を飲む。彼が何を言わんとするのか、わかる気がした。だが、雷蔵は黙って三郎の次の言葉を待った。
しばらくして三郎は絞り出すように言葉を放った。
「なぜ、引き返した? あの時戻らなければ、君は傷つかずにすんだかもしれない」
「……三郎」
 三郎はきっとその答えを分かっている。何が正しいのかも、雷蔵が何を思っているのかも、きっと。そして、全てを分かった上でそれでも彼は言わずにはいられないのだ。だから、黙って雷蔵は三郎の言葉を受け止めた。
「私は、君が傷つくのは嫌だ」
 その声に滲む迷いと悲しみが、雷蔵にも痛いほど分かった。
「分かってる。あの時、どうすべきだったか。ごめん、雷蔵。君はきっと正しかった。君がいなければ、私は死んでいたかもしれない」
 三郎は今、葛藤している。彼が抱えるものと彼自身の思いの狭間できっと、揺れている。
「でも、雷蔵。私は君が傷つくことは耐えられないんだ」
 それだけが真実ではないだろうけれど、それは間違いなく彼の本音だと雷蔵は思った。
 いや、何が嘘か真かも何が正しく何が間違っているのかも本当はどうでもよかった。その言葉を、雷蔵は信じたかった。
「僕はね、三郎」
 じっと、瞳を見つめて雷蔵は言い放った。
「僕は、お前と生きたかったんだ。三郎と一緒にここに戻りたかったんだよ」
 今、伝えなければならない。雷蔵は強くそう感じた。死を覚悟し、三郎の思いを受け止めたその上で、今伝えなければ後悔すると思った。
「お前が好きだよ、三郎」
 紡いだ言葉に揺れた仮面の奥の瞳は夢か幻か。豆が潰れてかたくなった指で唇を塞がれ、雷蔵はただ茫然と三郎の姿を見つめた。ゆっくりと首を振る姿が遠い世界の出来事のように見える。
「ごめん、雷蔵」
 震えたように感じた指は、目尻に滲んだ涙はどちらのものなのか。それすら、分からなかった。
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