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燕子花は愛を語る


2.雨と秘密

 あの夜以来、三郎と落ち着いて顔を合わせる機会が訪れないのは幸か不幸か。
 目の前の鍋をぐるぐると掻き混ぜながら、雷蔵は思案する。
 ここのところ、三郎は個人の忍務で不在にしている。今までは、雷蔵と三郎は級友の八左ヱ門たちとともに忍務を言い渡されることが多かった。だが、近頃はそうではなく、三郎は個人の忍務だとか、学園長の護衛だとか、はたまた下級生の授業の手伝いだとかで忙しない日々を送っているようだ。
「おい、雷蔵!」
「え? ……あ!」
 ぐつぐつと煮え立った鍋の中で具材が踊っている。どうやら、思案しすぎていたようだ。雷蔵は慌てて匙いっぱいに掬った味噌を溶かす。
 少し、入れすぎたかもしれない。
 隣で何やかんやと八左ヱ門が騒いでいるので雷蔵は仕方なくそのまま味噌汁をすくい上げ、味見をした。
「うん、食べられるし大丈夫じゃないかな」
 少ししょっぱいが、このくらいなら問題なく食べられるだろう。ちょっと煮すぎたことは否めないが、生煮えよりはいいか、と雷蔵はひとり頷いた。しかし、八左ヱ門は
「お前なあ……」
 と肩を落とす。
「この味噌汁の豆腐、兵助からもらったの忘れたのか」
「あ……ごめん」
 いつもなら、夕飯の準備は三郎とふたり。時間が合えば八左ヱ門と三人で行っていた。
 だが、兵助が趣味の豆腐を作りすぎたときは食卓をともにするのが慣例である。今日は、その日だったのだ。
「僕から兵助には謝るよ」
「いや、俺も一緒に謝る。兵助、豆腐のこととなると人が変わるからな~」
 自作の豆腐料理に奮闘する兵助とその手伝いに振り回される勘右衛門の姿を横目でチラリと確認する。まだもうしばらくは完成しないだろう。手伝おうかと迷ったが、結局、雷蔵は八左ヱ門とともに、椅子へと腰掛け、作業を続けるふたりの様子を眺めながら、たわいの無い話を続けた。
 こうして、仲間たちと一緒に夕食の準備をするのも久方ぶりだった。高学年にもなると、それぞれの授業や忍務が増え、個別での夕食が増える。それでも、朝や昼はともに食事をしているのだから、ともに過ごす時間は多いのだろうが。
 すいっと目の前をツバメが通り過ぎていく。何となくその姿を目で追う雷蔵とは対照的に、八左ヱ門は立ち上がると
「なあ、見たか? あれは学園のどこかに巣をつくってる」
 と興奮した様子でまくし立てた。さすがは、生物委員会委員長代理だ。
「多分、僕らの部屋の前のやつだよ」
「雷蔵たちの?」
 目を輝かせる八左ヱ門が微笑ましくて、雷蔵も思わず笑顔を浮かべた。
「うん。五年に上がってすぐ気付いたんだ」
「なんだよ、教えてくれたらよかったのに」
「ごめん、気付いてるかなと思ってた」
 三郎はあのツバメを気に入っていた。何かと巣を気にかけていたし、少し前にはツバメの面をこしらえて雷蔵を笑わせてくれたのだ。
 その時のことを八左ヱ門に聞かせると、彼は思った通りの反応を返し、ふたりでひとしきり笑った。
 楽しかった。
 このところ、気付かぬうちに気を張りすぎていたことに、このときはじめて雷蔵は気がついた。だが、同時に
――三郎もいたらよかったのに。
 何をしていても結局はその結論に辿り着いてしまう己がいることにも気がつかされる。
 この学園には、三郎との思い出が多すぎた。だから、何をしていてもどんなときでもふとした瞬間にその存在を感じてしまう。一緒にいすぎて、近すぎて気付かなくなるほど当たり前になっていた日常に愕然とした。
「……まだ戻らないのか?」
 心の内を見透かされたようで、雷蔵は苦笑いを浮かべながらうなづいた。
「うん。すぐ帰るって言ってたんだけどね」
「10日は帰らないのか」
「もうそんなに……」
 ザァっと肌を刺すような風が吹き付け、思わず身震いする。そろそろ初夏だというのに、日が沈む頃合いの風はまだ冷たかった。
「俺より雷蔵の方が分かってると思うけどさ」
 八左ヱ門がポツリと呟くように言った。
「三郎なら大丈夫だよ」
 チュピピピピとツバメの鳴き声が聞こえてくる。ああ、あのツバメが幸運を運んできてはくれないだろうか。そう考えてしまうのは、忍として間違っているだろうか。
「僕もそう思う」
 三郎は、きっといつものように帰ってくる。そして、何食わぬ顔で〝ただいま〟と笑うはずだ。だから、その時は何食わぬ顔で〝おかえり〟と笑うのだ。そんな日常を雷蔵は深く愛し、熱望していた。
 
 ◇◇◇◇◇◇

 雨が降っていた。
 いつもならば、四方八方から聞こえる誰かしらが鍛錬に勤しむ音は雨音にかき消されているのか、それとも誰もがこの雨を避けて今宵は部屋で過ごしているのか。ザーザーと絶え間なく打ち付ける雨音しか聞こえてこない。
 雷蔵は湿気を帯びて、ほんの少しだけ重くなった布団から身を起こした。
 数刻前までの騒々しさが嘘のようだった。
 山のように振る舞われた豆腐料理を必死で平らげ、膨れ上がった腹を抱えながら、勘右衛門がどうしても今日付き合って欲しいと頼み込んできた南蛮カルタに興じて騒いだ。
 そろそろ解散しようという頃合いに、突然「遊んでばかりではいけない」と真剣な面持ちで告げた兵助によって、半ば強制的に開かれた勉強会にも参加した。おかげで身体も頭も程よく疲れ果て、部屋に戻って来てすぐに布団へと潜り込んだのだ。
 今思えば、彼らは気落ちする雷蔵の様子を察して気を紛らわせてくれていたのだろう。友の優しさは雷蔵の気持ちを一時的にでも晴らしてくれた。
 だが、こうしてひとり暗闇の中で目を瞑っていると日中は考えずにいられたことばかり浮かんでは消え、疲れているはずなのに雷蔵は寝付けずにいる。
 雨は変わらず降り続けている。
 恋というのは厄介なものだなと雷蔵はため息をついた。
 恋心を自覚した頃は、毎日が幸せだった。
 雷蔵の想い人はいつもすぐ近くに居たから、何をするのも楽しかったし、彼はどこか雷蔵を特別な存在だと扱ってくれることがあったから、満たされた気持ちになれた。
 だが、雷蔵が想像していたよりも人間は欲深い生き物だった。一つ手に入れば、また一つ、そしてまた一つ欲しくなる。すぐ傍にあるのものがなくなれば恋しくなる。
 〝忍者の三禁〟とはよく言ったものだ。
 そばにいるだけで満足していたはずなのに、雷蔵の心はその先を求めていた。
 いっそ、好きだと言ってしまえばいいのに……と思うものの、いざと言う時になればこの間のように迷いが出てしまう。
 ザザザザ、と叩きつけるような音とともに引き戸が震えた。雨足が強くなっている。
 三郎は雨に濡れていないだろうか。身体を冷やしてはいないだろうか。
 ほら、また。
 何もかもを三郎に結びつけてしまうことに気がつき、そっと苦笑いを浮かべる。
 そういえば、ツバメは無事だろうか。
 可愛がっていたのだ。不在の間にもしもの事があれば、無念だろう。
 雷蔵の脳裏に夕方に見かけた鳥の姿がよぎり、思わず灯りを灯すと立ち上がって引き戸を開いた。すぐ右手の方向を確認すると番のツバメが寄り添っているのが見えた。ひとまずは無事のようでほっと息を撫で下ろす。
 と、その時。暗闇の向こうから気配を感じ、雷蔵はさっと部屋に下がると枕元に備えた忍び装束のそばに隠している苦無を手に取った。
 ――こんな時間に、しかもこの天気の中?
 警戒を解かず、目を懲らす。敵か、味方か。敵ならば、一人で応戦するか、それとも応援を呼ぶか。忙しく思考を回転させながら、気配を辿った。
 フラリ、と暗闇の中で影が揺れる。
 ――気付いた時には、走り出していた。
「…………三郎!!」
 求めてやまない姿がそこにあった。
 雨に打たれ、ずぶ濡れになった三郎がそこにいた。己が濡れる心配など忘れ去り、縋り付くようにそばに駆け寄った。
「……雷蔵」
「三郎、早く部屋に……」
「雷蔵、雷蔵」
 きつく抱きしめられ、何度も名を呼ばれる。その声と手の強さとは対照的に三郎の手は震えていた。
 思わず、雷蔵は彼の背に手をまわし、肩に頬を寄せた。長時間雨に打たれたのだろう。三郎の身体は冷えきっていた。落ち着いて欲しい、と思いを込めてその背を擦る。
 ツンと錆び付いた臭いが雷蔵の鼻を刺激した。
 これは、血の匂いだ。
 三郎の身体からは染み付いた鉄錆の臭いがした。
「三郎、お前……」
「返り血を浴びたんだ。心配することはないさ」
 ごめん、の言葉とともにふたりの身体が離れた。三郎は、少し平静を取り戻したのだろう。
「雷蔵までずぶ濡れにしてしまったな」
 とぎこちなく笑って、雷蔵の手を引いて長屋に向かって歩みを進めた。
 その態度に、どこか拒絶を感じ、雷蔵は何も言えぬままあとに続く。今はそのことを追求している場合ではなかった。
「三郎、ちょっと待って」
 とにかく、身体を拭いて着替えなければ。部屋に着くと、雷蔵はすぐに布と替えの服を用意して、手渡す。
「雷蔵、ありがとう」
 簡単に身体を拭いながら、三郎はようやく表情を和らげた。張り詰めていた空気がほんの少し和らぎ、雷蔵はほっと息をつく。
 何があったのかは、聞けなかった。
 ただ、生きて帰ってきたことだけは確かだった。
「無事でよかった」
 ポツリ、と呟くように吐き出した直後、張り詰めていた糸が切れたように雷蔵の眼からポトリと涙が頬を伝った。一雫こぼれ落ちると、次から次へと堰を切ったように涙が溢れ出してしまう。
「心配かけて、ごめん」
 幼子にするように、頭を撫でられる。
「ほんとに、心配したんだ」
「うん」
「帰ってこないかと思って、不安だった」
「ごめん、雷蔵。すぐに帰るつもりだったんだ。嘘じゃない」
「怖かったよ」
 いつになく、素直に言葉が溢れ出した。
 離れたからこそ、分かることがいくつもあった。学園に入学したときから、とっくに覚悟をしていたつもりだった。
 でもそれは、"つもり"になっていただけだったのかもしれない。忍びは戦うことが仕事ではない。だが、ここで武器の使い方、戦い方を学ぶように、一度忍務に出れば何があるか分からない。
 自分が知らぬところで、三郎が消えてしまうかもしれない可能性にはじめて気が付いて、それがとても恐ろしかった。
 己の吐き出した言葉に、三郎が、息を飲むのが分かる。視線をさ迷わせ、そしてようやく、
「……ただいま」
 と、笑った。弧を描く口元とは対照的に、今にも泣きそうな瞳を子どもみたいにぐしゃぐしゃに歪ませて、三郎は笑っていた。
 ――なんて顔、するんだよ
 聞きたいこと、言いたいこと。何もかもを飲み込んで、雷蔵も笑った。上手く笑えているかなんてもう分からなかった。
「…………おかえり」
 どちらともなく、抱きしめ合う。
 言葉はなかった。
 ただ、互いがここにいること。三郎が帰ってきたことだけが真実だった。
 その身体の温もりに安堵し、消えない鉄錆の臭いに雷蔵は泣きたくなる。
――三郎は嘘をついている。
 これは、返り血だけなんかじゃない。
 ザアザアと降り続ける雨音がやけに耳に残った。
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