燕子花は愛を秘める
5.いずれ菖蒲か、燕子花
「……三郎、か? どうしたんだ!?」
雷蔵から逃げるように医務室を出たあと、空っぽになった心を抱えながらあてどなくさまよっていた三郎はいつの間にか五年長屋の自室の前で呆然と立ち尽くしていた。
これからどうするか、何も考えられずにただひたすら部屋の前でツバメの巣を眺めていると、いつの間にか東の空から太陽が姿を見せ始め、暗闇に包まれていた明るく照らされる。
もうじき、学園はいつもの喧騒に包まれるのだろう。己の存在が、この世においてはちっぽけなものだと思い知られているようだった。何があっても日常は続いていくのだ。
無意識に手を強く握りしめ、唇を噛み締めた三郎に最初に気が付いたのは、級友の男だった。
「……八左ヱ門」
「雷蔵じゃないよな? 三郎だよな? どうしたんだ? もしかして!」
「…………さっき目を覚ました」
「雷蔵が!? よかった!! よかったな、三郎!」
太陽が似合う男だな、と言う言葉が真っ先に三郎の脳裏に浮かんだ。
陽の光を背に曇りない瞳を輝かせた八左ヱ門は、先日の衝突を一切引き摺らず、ただ雷蔵の無事に安堵し、三郎の気持ちを慮りながらまるで己のことのように喜んでくれている。
「……迷惑をかけたな、八左ヱ門」
「いいや、そんなことはもういいよ。ふたりが無事なら俺はもうそれでいいんだ。本当によかった! 雷蔵は?」
「まだ医務室だと思う」
「俺、行ってくるよ」
いても経ってもいられないとでもいうように、駆け出す八左ヱ門の背を無言で見つめた。
ところが、彼はすぐに三郎の方を振り向いてそれが当然だとでもいうように、にっこりと笑った。
「三郎も行くだろ?」
ぎくりと心臓が跳ねる。
――一緒には行けない
「いや、私は学園長先生に報告しなければならないから。……あとで行く」
「分かった。じゃあ、また後で!」
嫌な汗が背中を伝っていく。
無理やり笑みを作って、八左ヱ門を見送った三郎はすっと表情を消すと心を定め自室へと足を踏み入れた。
◇◇◇◇◇◇
五年ろ組の名物コンビが喧嘩をしているらしい
どうせ、鉢屋が不破を怒らせたんだろ?
いや、怒ってるのは鉢屋だそうだ
鉢屋が? 嘘だろ?
渦中の本人がいることも気付かずに噂話を流す生徒たちに紛れて、三郎は静かに食事を口に運び続けた。いつもよりやけに豆腐が美味しく感じるのはきっと"この顔"をしているからだろう。
「三郎」
空いていた隣の席に置かれた盆には、冷奴に豆腐の味噌汁、豆腐ハンバーグが載っている。声とメニューを見るだけで、聞かずとも誰だか分かった。
「兵助。い組もランチの時間か?」
「うん」
「勘右衛門は?」
「委員会だそうだけど」
「…………聞かなかったことにする」
おい、鉢屋だ。
え? いつからいた?
ざわざわと騒がしくなる周囲は何処吹く風で、兵助が味噌汁を啜った。豆腐に舌鼓を打つ兵助の表情は恍惚と輝いていて、いつもと変わらぬその姿にどこか懐かしい気持ちになった。
――兵助、本当に豆腐が好きなんだね
いつだったか、三郎の隣でニコニコと笑いながら兵助に話しかける雷蔵の姿が頭の中に浮かんできて、それをかき消そうと三郎も止まっていた食事を再開した。
三郎が黙々と箸を動かせば、兵助もまた静かに白ご飯に手をつける。
「あのさ」
何でもないことのように、兵助が言った。
「何だ」
「雷蔵のことだけど」
ドクンと心臓が跳ねる。
平静を装おうと味噌汁を啜った。豆腐がのどごし良く通り過ぎていく。
「いつから授業に戻るの?」
「……そろそろって聞いたが」
拍子抜けしてしまって、三郎は思わず兵助の顔を凝視した。ニヤリと兵助が笑う。
「詳しいんだね」
返す言葉が咄嗟に出てこなかった。
――雷蔵のために、雷蔵から距離を置く
そう決意した三郎は、"表向きは"あれから一度も医務室を訪れていなかった。
だが、それはあくまで"表向き"のこと。
一昨日は八左ヱ門。昨日は勘右衛門の顔を装って雷蔵の元を訪れた。駄目だと分かってはいても雷蔵の無事を確認せねばいられなかった。
そして今日はこれから兵助の顔で様子を伺おうとしている。
「みんな噂してる。八左ヱ門は、見てるこっちが可哀想になるくらい心配してる」
視線が、痛い。
「三郎、無理してない?」
この男は、何を言いたいんだ。
途端に気まずくなって、三郎は残った味噌汁を飲み干して箸を置いた。そして、盆を手に立ち上がってその場を去ろうと歩みを進める。
「三郎!」
まだ何か用なのか。
振り返れば、兵助がやけに爽やかに笑っていた。
「委員会、サボるなよ! 勘右衛門が困ってる」
◇◇◇◇◇◇
日曜日の学園は、いつもと変わらず、活動的な生徒たちで賑やかだった。
窓の向こう側から聞こえる声につい耳を傾けてしまうのは、耳馴染んだ声を探してしまっているからだ。
――雷蔵は今日、何をしているんだろう
意識してしまったら最後、考えずにはいられなくなってしまう。
雷蔵が授業に復帰してしばらくが経つ。怪我も癒え、いつも通り授業に出席している彼の姿が見られるようになって三郎はこっそりと胸を撫で下ろしていた。
日曜日の今日は確か、図書委員の当番ではなかったはずだ。どこかに出かけたのだろうか。それとも部屋で勉強に励んだり、鍛錬に出かけたりしているのだろうか。以前は雷蔵の動向を全て把握していたから、分からない今がもどかしい。
距離を置けば、気持ちが落ち着くかと思っていた。
だが、そんなのは間違いだった。
ふとした時に雷蔵を探し、求め、その存在が過ぎってしまう。いつも近くにいて当たり前だったことを離れたことによって強く認識することになった。
雷蔵も、ほんの少しでも三郎のことを思ってくれているのだろうか。そんな考えが頭の中に浮かんできて、三郎はすぐに否定した。
ほんの少しだなんてきっと雷蔵に失礼だと思った。きっと己の意思で距離を置いた三郎以上に、雷蔵は思い悩んでいる。
この世の誰よりも雷蔵のことを愛している自信があるのに、そんな雷蔵を今一番悩ませているのが自分であることに三郎は自嘲した。
「…ろう……い」
「三郎……」
――雷蔵!
思わずそう声に出して、三郎は口を噤んだ。
目の前には、唖然とした顔をした庄左ヱ門と彦四郎がいた。
雷蔵のことばかり考えていて、一瞬彼に名前を呼ばれたと勘違いしてしまった。
しまったと思った時にはもう既に遅く、ふたりの後輩はすぐに気まずそうに視線をさ迷わせる。
「彦四郎、庄左ヱ門」
「……尾浜先輩」
「今日はもういいよ、解散だ」
「でも」
困ったような顔を後輩たちから向けられ、三郎は思わず勘右衛門に視線をやる。
「いいよね、三郎」
「あ、ああ……」
――さあ、行った! 行った!
勘右衛門に促され、困惑しながらも庄左ヱ門と彦四郎は丁寧に挨拶をしてから部屋を出ていった。戸が締まり部屋の中が一気に静かになる。勘右衛門は、戸を向いたまま微動だにしなかった。
「か、勘右衛門……」
気まずさに耐えきれず、三郎が声をかける。すると、これまで黙っていた勘右衛門が口を開いた。
「あのさ、いい加減にしなよ」
何のことか、分からないなんて嘘だ。
返す言葉が見つからず、三郎は押し黙る。
「三郎が何を考えてるのか知らないけどさ。みんな困ってる。俺も、彦四郎も、庄左ヱ門も。兵助もああ見えて気にしてるし、八左ヱ門はもうずっとふたりのために何かできないかって悩んでる。知ってるだろ」
「…………ああ」
「雷蔵がずっと元気がないことも?」
「……………………知ってる」
「じゃあ、なんで……!」
勘右衛門が振り返った。
珍しくその顔には焦りとも怒りとも取れる表情が浮かび、その手は強く握り締められている。
「なんで、雷蔵を避ける? 何を隠してる?」
「それは、言えない」
「言えない? 雷蔵にも?」
「雷蔵にも。誰にも言うつもりはない。私は、雷蔵のそばにいるべきじゃない」
勘右衛門の足が床を蹴った。
咄嗟に三郎は受け身を取り、ふたりはぶつかりあった。
「そばに居るべきじゃないって、何で分かるんだよ! そんなのお前の勝手な考えだろ? 雷蔵の気持ちはどうなる?」
「これは私の問題だ! 勘右衛門、お前に 」
「分かるわけないだろ!!! だって、三郎。誰にも何も言わないじゃないか。 なのに、私がいちばん不幸ですって顔して毎日毎日……」
――その時だった
「勘右衛門、三郎!」
やけにタイミングよく戸が開いて、兵助が姿を見せた。勘右衛門が声を荒らげる。
「覚悟がないなら、お前の事情に雷蔵を巻き込むな! 今のお前は、ただの独りよがりだ。ずっと辛気臭い顔してメソメソメソメソしてるけど、本当に辛いのは誰か分かってるんだろ!!」
「勘右衛門、言い過ぎだ」
「いいんだよ、今の三郎にはこのくらい言わなきゃ分かんないって!」
――ああ、そういう事か
意図を察し、それでも三郎はふたりの言葉に耳を傾けた。
「とにかく、お前の勝手に雷蔵を振り回すのはやめろ!」
勘右衛門の言葉が、痛かった。
「…………三郎。雷蔵は三郎が思ってるよりずっと真剣に"ふたり"のことを考えてると思うよ」
兵助の言葉が、痛かった。
そんなこと、言われなくても分かってる。
でも、そんな当たり前のことにきちんと向き合わなかったのは己だと思い知らされた。
「勘右衛門、兵助」
ふたりの視線が、三郎に集まる。
痛いくらい真剣な眼差しに、三郎は真っ直ぐに投げかけた。
「雷蔵は今、どこにいる?」
目配せなしながらニヤリと笑うふたりを背に、三郎は走り出した。
◇◇◇◇◇◇
――燕が空を舞っている
かけ出す雷蔵と、それを見守る八左ヱ門を三郎はただ静かに見つめていた。
――雨が止む
雲の切れ間から日差しが差し込み、三郎を照らした。
――雷蔵が走っている
他の誰でもない、鉢屋三郎を探して。
その姿を見て三郎は、どんな顔で雷蔵に会えばいいのか分からなくなった。
"合わせる顔がない"とは言うけれど、まさにその言葉のままだった。
どんな"顔"で、どんな"貌"で、雷蔵と会えばいいのか、分からなかった。
――だから、"私"は何も装わずに座っていた
自室の机の前。
出会ったあの日のように、君を待っていた。
「三郎!!」
――なぜ、分かるんだ
いつもはあんなに迷って悩んでいるのに、なぜ今の"私"を見て、"私"の名を呼ぶんだ
なぜ君は何も聞かない?
君は"私"のどこを見ている?
あれからずっと探し回っていたのだろう。
雷蔵は、はあはあと肩で荒く息を吐くと、こほりと乾いた咳をした。それが気になって、思わず肩をピクリと動かしてしまう。
それでも、三郎は何も言わなかった。
何と言えばいいのか分からなかった。
「三郎、話がしたい」
息が整ったのだろう。
雷蔵の言葉が真っ直ぐに三郎の鼓膜を震わせる。カタン、と戸が閉まる音がした。
その"顔"を見ていないのに、雷蔵が今どんな表情をしているのか手に取るように分かった。
それだけずっと、出会ってからただひたすらに彼のことを見てきた。
「……好きだよ」
雷蔵の声は、強い。
それは、彼の意志の強さを示しているようだった。
「好きだ、三郎。他の誰でもない。鉢屋三郎、お前のことが」
自然と、三郎の瞳から涙がこぼれ落ちた。
一度溢れ出すと止めることが出来なかった。
次から次へと流れる雫がポトリと机の上を濡らしていく。
鉢屋三郎、と名を呼んでくれる雷蔵を三郎の心が狂おしいほど求めていた。それでも、三郎は静かに言い放った。
「……その言葉は聞けない」
「……っ……どうして!」
雷蔵の足が床を蹴り、勢いよく三郎の背中に縋り付いた。背中がじんわりと濡れ、雷蔵も泣いているのだと気がついて胸が痛む。
――ああ、もういいんじゃないか
そんな言葉が浮かんでは消える。
それでも、この温もりを守るために力不足な己のことが頭から離れなかった。
――雷蔵に生きて欲しい
背中に感じた雷蔵の重みと締め付けられるような胸の痛みが、三郎に嘘をつかせる。
「その言葉を、受け取る訳にはいかないんだ」
「嫌だ」
「……分かってくれ、雷蔵」
「嫌だ」
「雷蔵!」
「嫌だ!!」
何度否定しても、雷蔵は諦めてはくれなかった。力強く肩を掴まれ、雷蔵と視線が合う。
思った通り、雷蔵の顔は涙でぐしゃぐしゃに歪んでいた。じっと、瞳を見つめられて、三郎は思わず視線をそらそうと目を伏せる。
――だが、それは叶わなかった
「僕の目を見て」
互いに視線はそらせなかった。
「僕の目を見て、三郎。僕の目を見て、僕が嫌いだと言えるのか?」
涙でぐしゃぐしゃで視界が歪む。
縫いとめるように視線が絡み、逃がすものかと決意を秘めた雷蔵の思いがずるいと思った。
だが、雷蔵の為と言いながら、雷蔵を失う恐怖から自分が逃げる為に嘘をついている。
本当にずるい臆病者は誰なのか、思い知らされた心持ちだった。
そっと、三郎は目が伏せた。
身体を震わせ、何とか声を振り絞る。
「……嘘でも、言えるわけがない」
もう、嘘はつけない。
「……私は、君に生きて欲しいんだ。雷蔵」
「僕は生きてるよ、三郎」
「手紙が届いたんだ、実家から」
あの日届いた手紙のことを、簡単に掻い摘んで説明すると、雷蔵が訳が分からないとでもいうようにきょとんとした顔で見つめてくる。
「どうして、僕のことが?」
「私が、君の変装ばかりしているということを聞きつけた者がいるらしい。それで、君が何者なのか嗅ぎ回ろうとしている」
「それは、僕を狙っているということ?」
「すぐに危害を加えようとしているわけじゃない。私が里に戻れば問題はないし、君のことは私が守る」
「じゃあ、どうして……」
「忍務に出て、自分の力不足を痛感した」
雷蔵の瞳が揺れる。
三郎は、悔しさを噛み締めながら、言葉を続けた。
「あの日、雷蔵が私のために引き返したとき血の気が引く思いだった。忍だというのに、雷蔵のことになると平静を失うことに気がついた。それは、雷蔵も同じじゃないのか?」
――それとも、これは私の自惚れだろうか
三郎の言葉に、雷蔵ただ首を横に振った。
「僕も、そうだった」
「私は、雷蔵のことを大事に思っている。でもそれは、忍として生きていく上で君の枷になるかもしれない。それが、怖かった」
互いの姿をして、共にいれば自ずと敵に知られることになる。
三郎の実家が、雷蔵の存在を危険視しているのは三郎が離反するかもしれないという危惧の他に、忍者のたまごであるうちから悪目立ちすることも警戒しているのだ。
三郎が言わんとすることが伝わっているのだろう。雷蔵は表情を曇らせてうなづいた。
だが、同時に雷蔵は強い眼差しを向けて優しく、でも力強く語りかけてきた。
「……ねえ、三郎」
雷蔵の瞳を三郎はじっと静かに見つめる。
「僕らなら、その弱みを強みに変えられると思わないか」
「……と、言うと?」
「不破雷蔵あるところ、鉢屋三郎ありさ……なんだろ? なら、鉢屋三郎あるところ、不破雷蔵ありさ、だよ。僕ら一緒にいることが僕らの最大の武器だ」
雷蔵の言葉が、三郎の胸を貫いた。
雷蔵の強さに、三郎は3度目の恋に落ちた。
「三郎、僕から逃げないで。僕ら、一緒に生きていこう。これだけは、迷わないで言える。他の誰でもない、やっぱり、僕は三郎が好きだよ」
好きだ、と思った。
雷蔵の強さが、眩しくて愛おしかった。
「雷蔵」
長い沈黙の末、三郎はポツリと呟いた。
覚悟を決めなくてはならないと感じていた。
「少しだけ、目を閉じてくれないか」
一瞬だけ、雷蔵に迷いを感じた。
だが、その迷いは一瞬だった。
雷蔵が静かに目を閉じる。
確かな信頼を感じ、三郎はほんの少しだけ胸が傷んだ。
すべてを晒す勇気がない意気地なしを、雷蔵は信じてくれている。
――あなたは影
――顔のないあなたが……
あの日の言葉は、もう怖くない。
鉢屋三郎は、ここにいる。
手早く、やり慣れた雷蔵の装いに"戻る"と、三郎は合図を送った。
「いいよ、雷蔵」
雷蔵の目が大きく見開かれ、三郎はその瞳を見つめた。
――君は、私に「あい」をくれた
だから、雷蔵の隣にいる覚悟を示すのならば"こうする"のが誠意だと思った。
「三郎……」
「これが私の答えだといえば、分かってもらえるだろうか」
「……分かる、分かるよ、三郎」
雷蔵が、笑った。
思えば、彼の笑顔を見るのは久しぶりだった。
そっと、抱きしめられて同じ強さで抱き返す。それだけで充分だった。互いから伝わる温度が優しくて、三郎は喜びに涙を流した。
「私は、君に素顔すら晒せないんだぞ。それでもいいのか?」
「そんなの、今さらじゃないか」
「……それも、そうか」
「顔なんて関係ない。三郎は三郎だ。僕は、今目の前にいる三郎のことが好きだよ」
「素顔を見たいとは、思わないのか?」
「いつか、いつかでいい。お前がそのつもりになったら、見せてくれ。だから、ずっと一緒に生きていこう」
そっと、唇が重なり合う。
「雷蔵、愛してる」
何度も何度も心の中で繰り返してきて、口に出すのははじめてだった。
だが、三郎は言ってよかったと心から思った。なぜなら、愛してやまない雷蔵が、花がほころぶように愛しい笑顔を見せてくれたのだから。どんな雷蔵も好きだけれど、笑う顔が何より好きだと気がついた。
もう一度、ふたりの唇が重なり合う。
――雷蔵は迷う。それでも彼は逃げない
――私は迷う。でも、私ももう逃げない
私は君と生きていく。
君の隣で。君の"顔"で。
君が私を求めてくれるのならば、君を守る武器として私は生きていこう。
――不破雷蔵あるところ、鉢屋三郎ありさ
それが、私が示す君への愛で、私自身の生き方なのだと。これが、私の貌 なのだと今は胸を張って語れる気がした。
ふたりの未来はここからずっと続くのだ。
見つめ合った瞳は、雄弁に愛を語っていた。
「……三郎、か? どうしたんだ!?」
雷蔵から逃げるように医務室を出たあと、空っぽになった心を抱えながらあてどなくさまよっていた三郎はいつの間にか五年長屋の自室の前で呆然と立ち尽くしていた。
これからどうするか、何も考えられずにただひたすら部屋の前でツバメの巣を眺めていると、いつの間にか東の空から太陽が姿を見せ始め、暗闇に包まれていた明るく照らされる。
もうじき、学園はいつもの喧騒に包まれるのだろう。己の存在が、この世においてはちっぽけなものだと思い知られているようだった。何があっても日常は続いていくのだ。
無意識に手を強く握りしめ、唇を噛み締めた三郎に最初に気が付いたのは、級友の男だった。
「……八左ヱ門」
「雷蔵じゃないよな? 三郎だよな? どうしたんだ? もしかして!」
「…………さっき目を覚ました」
「雷蔵が!? よかった!! よかったな、三郎!」
太陽が似合う男だな、と言う言葉が真っ先に三郎の脳裏に浮かんだ。
陽の光を背に曇りない瞳を輝かせた八左ヱ門は、先日の衝突を一切引き摺らず、ただ雷蔵の無事に安堵し、三郎の気持ちを慮りながらまるで己のことのように喜んでくれている。
「……迷惑をかけたな、八左ヱ門」
「いいや、そんなことはもういいよ。ふたりが無事なら俺はもうそれでいいんだ。本当によかった! 雷蔵は?」
「まだ医務室だと思う」
「俺、行ってくるよ」
いても経ってもいられないとでもいうように、駆け出す八左ヱ門の背を無言で見つめた。
ところが、彼はすぐに三郎の方を振り向いてそれが当然だとでもいうように、にっこりと笑った。
「三郎も行くだろ?」
ぎくりと心臓が跳ねる。
――一緒には行けない
「いや、私は学園長先生に報告しなければならないから。……あとで行く」
「分かった。じゃあ、また後で!」
嫌な汗が背中を伝っていく。
無理やり笑みを作って、八左ヱ門を見送った三郎はすっと表情を消すと心を定め自室へと足を踏み入れた。
◇◇◇◇◇◇
五年ろ組の名物コンビが喧嘩をしているらしい
どうせ、鉢屋が不破を怒らせたんだろ?
いや、怒ってるのは鉢屋だそうだ
鉢屋が? 嘘だろ?
渦中の本人がいることも気付かずに噂話を流す生徒たちに紛れて、三郎は静かに食事を口に運び続けた。いつもよりやけに豆腐が美味しく感じるのはきっと"この顔"をしているからだろう。
「三郎」
空いていた隣の席に置かれた盆には、冷奴に豆腐の味噌汁、豆腐ハンバーグが載っている。声とメニューを見るだけで、聞かずとも誰だか分かった。
「兵助。い組もランチの時間か?」
「うん」
「勘右衛門は?」
「委員会だそうだけど」
「…………聞かなかったことにする」
おい、鉢屋だ。
え? いつからいた?
ざわざわと騒がしくなる周囲は何処吹く風で、兵助が味噌汁を啜った。豆腐に舌鼓を打つ兵助の表情は恍惚と輝いていて、いつもと変わらぬその姿にどこか懐かしい気持ちになった。
――兵助、本当に豆腐が好きなんだね
いつだったか、三郎の隣でニコニコと笑いながら兵助に話しかける雷蔵の姿が頭の中に浮かんできて、それをかき消そうと三郎も止まっていた食事を再開した。
三郎が黙々と箸を動かせば、兵助もまた静かに白ご飯に手をつける。
「あのさ」
何でもないことのように、兵助が言った。
「何だ」
「雷蔵のことだけど」
ドクンと心臓が跳ねる。
平静を装おうと味噌汁を啜った。豆腐がのどごし良く通り過ぎていく。
「いつから授業に戻るの?」
「……そろそろって聞いたが」
拍子抜けしてしまって、三郎は思わず兵助の顔を凝視した。ニヤリと兵助が笑う。
「詳しいんだね」
返す言葉が咄嗟に出てこなかった。
――雷蔵のために、雷蔵から距離を置く
そう決意した三郎は、"表向きは"あれから一度も医務室を訪れていなかった。
だが、それはあくまで"表向き"のこと。
一昨日は八左ヱ門。昨日は勘右衛門の顔を装って雷蔵の元を訪れた。駄目だと分かってはいても雷蔵の無事を確認せねばいられなかった。
そして今日はこれから兵助の顔で様子を伺おうとしている。
「みんな噂してる。八左ヱ門は、見てるこっちが可哀想になるくらい心配してる」
視線が、痛い。
「三郎、無理してない?」
この男は、何を言いたいんだ。
途端に気まずくなって、三郎は残った味噌汁を飲み干して箸を置いた。そして、盆を手に立ち上がってその場を去ろうと歩みを進める。
「三郎!」
まだ何か用なのか。
振り返れば、兵助がやけに爽やかに笑っていた。
「委員会、サボるなよ! 勘右衛門が困ってる」
◇◇◇◇◇◇
日曜日の学園は、いつもと変わらず、活動的な生徒たちで賑やかだった。
窓の向こう側から聞こえる声につい耳を傾けてしまうのは、耳馴染んだ声を探してしまっているからだ。
――雷蔵は今日、何をしているんだろう
意識してしまったら最後、考えずにはいられなくなってしまう。
雷蔵が授業に復帰してしばらくが経つ。怪我も癒え、いつも通り授業に出席している彼の姿が見られるようになって三郎はこっそりと胸を撫で下ろしていた。
日曜日の今日は確か、図書委員の当番ではなかったはずだ。どこかに出かけたのだろうか。それとも部屋で勉強に励んだり、鍛錬に出かけたりしているのだろうか。以前は雷蔵の動向を全て把握していたから、分からない今がもどかしい。
距離を置けば、気持ちが落ち着くかと思っていた。
だが、そんなのは間違いだった。
ふとした時に雷蔵を探し、求め、その存在が過ぎってしまう。いつも近くにいて当たり前だったことを離れたことによって強く認識することになった。
雷蔵も、ほんの少しでも三郎のことを思ってくれているのだろうか。そんな考えが頭の中に浮かんできて、三郎はすぐに否定した。
ほんの少しだなんてきっと雷蔵に失礼だと思った。きっと己の意思で距離を置いた三郎以上に、雷蔵は思い悩んでいる。
この世の誰よりも雷蔵のことを愛している自信があるのに、そんな雷蔵を今一番悩ませているのが自分であることに三郎は自嘲した。
「…ろう……い」
「三郎……」
――雷蔵!
思わずそう声に出して、三郎は口を噤んだ。
目の前には、唖然とした顔をした庄左ヱ門と彦四郎がいた。
雷蔵のことばかり考えていて、一瞬彼に名前を呼ばれたと勘違いしてしまった。
しまったと思った時にはもう既に遅く、ふたりの後輩はすぐに気まずそうに視線をさ迷わせる。
「彦四郎、庄左ヱ門」
「……尾浜先輩」
「今日はもういいよ、解散だ」
「でも」
困ったような顔を後輩たちから向けられ、三郎は思わず勘右衛門に視線をやる。
「いいよね、三郎」
「あ、ああ……」
――さあ、行った! 行った!
勘右衛門に促され、困惑しながらも庄左ヱ門と彦四郎は丁寧に挨拶をしてから部屋を出ていった。戸が締まり部屋の中が一気に静かになる。勘右衛門は、戸を向いたまま微動だにしなかった。
「か、勘右衛門……」
気まずさに耐えきれず、三郎が声をかける。すると、これまで黙っていた勘右衛門が口を開いた。
「あのさ、いい加減にしなよ」
何のことか、分からないなんて嘘だ。
返す言葉が見つからず、三郎は押し黙る。
「三郎が何を考えてるのか知らないけどさ。みんな困ってる。俺も、彦四郎も、庄左ヱ門も。兵助もああ見えて気にしてるし、八左ヱ門はもうずっとふたりのために何かできないかって悩んでる。知ってるだろ」
「…………ああ」
「雷蔵がずっと元気がないことも?」
「……………………知ってる」
「じゃあ、なんで……!」
勘右衛門が振り返った。
珍しくその顔には焦りとも怒りとも取れる表情が浮かび、その手は強く握り締められている。
「なんで、雷蔵を避ける? 何を隠してる?」
「それは、言えない」
「言えない? 雷蔵にも?」
「雷蔵にも。誰にも言うつもりはない。私は、雷蔵のそばにいるべきじゃない」
勘右衛門の足が床を蹴った。
咄嗟に三郎は受け身を取り、ふたりはぶつかりあった。
「そばに居るべきじゃないって、何で分かるんだよ! そんなのお前の勝手な考えだろ? 雷蔵の気持ちはどうなる?」
「これは私の問題だ! 勘右衛門、お前に 」
「分かるわけないだろ!!! だって、三郎。誰にも何も言わないじゃないか。 なのに、私がいちばん不幸ですって顔して毎日毎日……」
――その時だった
「勘右衛門、三郎!」
やけにタイミングよく戸が開いて、兵助が姿を見せた。勘右衛門が声を荒らげる。
「覚悟がないなら、お前の事情に雷蔵を巻き込むな! 今のお前は、ただの独りよがりだ。ずっと辛気臭い顔してメソメソメソメソしてるけど、本当に辛いのは誰か分かってるんだろ!!」
「勘右衛門、言い過ぎだ」
「いいんだよ、今の三郎にはこのくらい言わなきゃ分かんないって!」
――ああ、そういう事か
意図を察し、それでも三郎はふたりの言葉に耳を傾けた。
「とにかく、お前の勝手に雷蔵を振り回すのはやめろ!」
勘右衛門の言葉が、痛かった。
「…………三郎。雷蔵は三郎が思ってるよりずっと真剣に"ふたり"のことを考えてると思うよ」
兵助の言葉が、痛かった。
そんなこと、言われなくても分かってる。
でも、そんな当たり前のことにきちんと向き合わなかったのは己だと思い知らされた。
「勘右衛門、兵助」
ふたりの視線が、三郎に集まる。
痛いくらい真剣な眼差しに、三郎は真っ直ぐに投げかけた。
「雷蔵は今、どこにいる?」
目配せなしながらニヤリと笑うふたりを背に、三郎は走り出した。
◇◇◇◇◇◇
――燕が空を舞っている
かけ出す雷蔵と、それを見守る八左ヱ門を三郎はただ静かに見つめていた。
――雨が止む
雲の切れ間から日差しが差し込み、三郎を照らした。
――雷蔵が走っている
他の誰でもない、鉢屋三郎を探して。
その姿を見て三郎は、どんな顔で雷蔵に会えばいいのか分からなくなった。
"合わせる顔がない"とは言うけれど、まさにその言葉のままだった。
どんな"顔"で、どんな"貌"で、雷蔵と会えばいいのか、分からなかった。
――だから、"私"は何も装わずに座っていた
自室の机の前。
出会ったあの日のように、君を待っていた。
「三郎!!」
――なぜ、分かるんだ
いつもはあんなに迷って悩んでいるのに、なぜ今の"私"を見て、"私"の名を呼ぶんだ
なぜ君は何も聞かない?
君は"私"のどこを見ている?
あれからずっと探し回っていたのだろう。
雷蔵は、はあはあと肩で荒く息を吐くと、こほりと乾いた咳をした。それが気になって、思わず肩をピクリと動かしてしまう。
それでも、三郎は何も言わなかった。
何と言えばいいのか分からなかった。
「三郎、話がしたい」
息が整ったのだろう。
雷蔵の言葉が真っ直ぐに三郎の鼓膜を震わせる。カタン、と戸が閉まる音がした。
その"顔"を見ていないのに、雷蔵が今どんな表情をしているのか手に取るように分かった。
それだけずっと、出会ってからただひたすらに彼のことを見てきた。
「……好きだよ」
雷蔵の声は、強い。
それは、彼の意志の強さを示しているようだった。
「好きだ、三郎。他の誰でもない。鉢屋三郎、お前のことが」
自然と、三郎の瞳から涙がこぼれ落ちた。
一度溢れ出すと止めることが出来なかった。
次から次へと流れる雫がポトリと机の上を濡らしていく。
鉢屋三郎、と名を呼んでくれる雷蔵を三郎の心が狂おしいほど求めていた。それでも、三郎は静かに言い放った。
「……その言葉は聞けない」
「……っ……どうして!」
雷蔵の足が床を蹴り、勢いよく三郎の背中に縋り付いた。背中がじんわりと濡れ、雷蔵も泣いているのだと気がついて胸が痛む。
――ああ、もういいんじゃないか
そんな言葉が浮かんでは消える。
それでも、この温もりを守るために力不足な己のことが頭から離れなかった。
――雷蔵に生きて欲しい
背中に感じた雷蔵の重みと締め付けられるような胸の痛みが、三郎に嘘をつかせる。
「その言葉を、受け取る訳にはいかないんだ」
「嫌だ」
「……分かってくれ、雷蔵」
「嫌だ」
「雷蔵!」
「嫌だ!!」
何度否定しても、雷蔵は諦めてはくれなかった。力強く肩を掴まれ、雷蔵と視線が合う。
思った通り、雷蔵の顔は涙でぐしゃぐしゃに歪んでいた。じっと、瞳を見つめられて、三郎は思わず視線をそらそうと目を伏せる。
――だが、それは叶わなかった
「僕の目を見て」
互いに視線はそらせなかった。
「僕の目を見て、三郎。僕の目を見て、僕が嫌いだと言えるのか?」
涙でぐしゃぐしゃで視界が歪む。
縫いとめるように視線が絡み、逃がすものかと決意を秘めた雷蔵の思いがずるいと思った。
だが、雷蔵の為と言いながら、雷蔵を失う恐怖から自分が逃げる為に嘘をついている。
本当にずるい臆病者は誰なのか、思い知らされた心持ちだった。
そっと、三郎は目が伏せた。
身体を震わせ、何とか声を振り絞る。
「……嘘でも、言えるわけがない」
もう、嘘はつけない。
「……私は、君に生きて欲しいんだ。雷蔵」
「僕は生きてるよ、三郎」
「手紙が届いたんだ、実家から」
あの日届いた手紙のことを、簡単に掻い摘んで説明すると、雷蔵が訳が分からないとでもいうようにきょとんとした顔で見つめてくる。
「どうして、僕のことが?」
「私が、君の変装ばかりしているということを聞きつけた者がいるらしい。それで、君が何者なのか嗅ぎ回ろうとしている」
「それは、僕を狙っているということ?」
「すぐに危害を加えようとしているわけじゃない。私が里に戻れば問題はないし、君のことは私が守る」
「じゃあ、どうして……」
「忍務に出て、自分の力不足を痛感した」
雷蔵の瞳が揺れる。
三郎は、悔しさを噛み締めながら、言葉を続けた。
「あの日、雷蔵が私のために引き返したとき血の気が引く思いだった。忍だというのに、雷蔵のことになると平静を失うことに気がついた。それは、雷蔵も同じじゃないのか?」
――それとも、これは私の自惚れだろうか
三郎の言葉に、雷蔵ただ首を横に振った。
「僕も、そうだった」
「私は、雷蔵のことを大事に思っている。でもそれは、忍として生きていく上で君の枷になるかもしれない。それが、怖かった」
互いの姿をして、共にいれば自ずと敵に知られることになる。
三郎の実家が、雷蔵の存在を危険視しているのは三郎が離反するかもしれないという危惧の他に、忍者のたまごであるうちから悪目立ちすることも警戒しているのだ。
三郎が言わんとすることが伝わっているのだろう。雷蔵は表情を曇らせてうなづいた。
だが、同時に雷蔵は強い眼差しを向けて優しく、でも力強く語りかけてきた。
「……ねえ、三郎」
雷蔵の瞳を三郎はじっと静かに見つめる。
「僕らなら、その弱みを強みに変えられると思わないか」
「……と、言うと?」
「不破雷蔵あるところ、鉢屋三郎ありさ……なんだろ? なら、鉢屋三郎あるところ、不破雷蔵ありさ、だよ。僕ら一緒にいることが僕らの最大の武器だ」
雷蔵の言葉が、三郎の胸を貫いた。
雷蔵の強さに、三郎は3度目の恋に落ちた。
「三郎、僕から逃げないで。僕ら、一緒に生きていこう。これだけは、迷わないで言える。他の誰でもない、やっぱり、僕は三郎が好きだよ」
好きだ、と思った。
雷蔵の強さが、眩しくて愛おしかった。
「雷蔵」
長い沈黙の末、三郎はポツリと呟いた。
覚悟を決めなくてはならないと感じていた。
「少しだけ、目を閉じてくれないか」
一瞬だけ、雷蔵に迷いを感じた。
だが、その迷いは一瞬だった。
雷蔵が静かに目を閉じる。
確かな信頼を感じ、三郎はほんの少しだけ胸が傷んだ。
すべてを晒す勇気がない意気地なしを、雷蔵は信じてくれている。
――あなたは影
――顔のないあなたが……
あの日の言葉は、もう怖くない。
鉢屋三郎は、ここにいる。
手早く、やり慣れた雷蔵の装いに"戻る"と、三郎は合図を送った。
「いいよ、雷蔵」
雷蔵の目が大きく見開かれ、三郎はその瞳を見つめた。
――君は、私に「あい」をくれた
だから、雷蔵の隣にいる覚悟を示すのならば"こうする"のが誠意だと思った。
「三郎……」
「これが私の答えだといえば、分かってもらえるだろうか」
「……分かる、分かるよ、三郎」
雷蔵が、笑った。
思えば、彼の笑顔を見るのは久しぶりだった。
そっと、抱きしめられて同じ強さで抱き返す。それだけで充分だった。互いから伝わる温度が優しくて、三郎は喜びに涙を流した。
「私は、君に素顔すら晒せないんだぞ。それでもいいのか?」
「そんなの、今さらじゃないか」
「……それも、そうか」
「顔なんて関係ない。三郎は三郎だ。僕は、今目の前にいる三郎のことが好きだよ」
「素顔を見たいとは、思わないのか?」
「いつか、いつかでいい。お前がそのつもりになったら、見せてくれ。だから、ずっと一緒に生きていこう」
そっと、唇が重なり合う。
「雷蔵、愛してる」
何度も何度も心の中で繰り返してきて、口に出すのははじめてだった。
だが、三郎は言ってよかったと心から思った。なぜなら、愛してやまない雷蔵が、花がほころぶように愛しい笑顔を見せてくれたのだから。どんな雷蔵も好きだけれど、笑う顔が何より好きだと気がついた。
もう一度、ふたりの唇が重なり合う。
――雷蔵は迷う。それでも彼は逃げない
――私は迷う。でも、私ももう逃げない
私は君と生きていく。
君の隣で。君の"顔"で。
君が私を求めてくれるのならば、君を守る武器として私は生きていこう。
――不破雷蔵あるところ、鉢屋三郎ありさ
それが、私が示す君への愛で、私自身の生き方なのだと。これが、
ふたりの未来はここからずっと続くのだ。
見つめ合った瞳は、雄弁に愛を語っていた。