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燕子花は愛を秘める

4.燕子花は愛を秘める

 もう初夏が近いというのに、夜の風は冷たく、この世の全てに拒まれたような気持ちにさせてくる。まるで抜け殻のようにぽっかりと空虚になった心を抱えたまま、三郎はただ人目を避けながら歩みを進めていた。
 
 ずっしりとした背中の重みが、ほのかなぬくもりを伝えてくることだけが、三郎の気力を保っていた。
 ――雷蔵は、生きている
 ゆっくりと。だが確かに刻まれる鼓動が、三郎の心を支えていた。
 ――雷蔵は、ここにいる
 
 どうやって敵から逃げたのか、あの時何があったのか記憶が曖昧だった。
 ただ、難を逃れてほっと息を吐いた三郎が、雷蔵と視線を交わした瞬間だけは脳裏に焼き付いている。
 
 あの瞬間。
 三郎に向かって微笑んだ雷蔵は、糸が切れたように気を失ってその場に崩れ落ちた。
 
 ――雷蔵?
 
 一瞬、最悪のことが頭をよぎって取り乱した。
 だが、抱きあげた雷蔵の身体が温かいことに気がついて安堵し、瞼を閉じたまま開かないことに気が付いて、またすぐに真っ青になって三郎は叫んだ。
 
 ――雷蔵!!…………雷蔵!!
 
 何度名前を呼んでも、何度その身に触れても、雷蔵は微動だにしなかった。
 
 どうしたらいいのか分からずしばらく立ち尽くし、一刻も早く雷蔵を学園に連れて帰らなければと雷蔵の身を背中に背負ってただ無心で帰路に着いた。
 
 転んだ拍子に捻った足を引き摺り、開いた傷口から流れる血と鈍い痛みに耐えながら、三郎はただ黙々と足を動かした。
 
 頭に霧がかかったように思考が働かない。
 自然と目尻から零れた涙が頬を濡らし、三郎は声にならない慟哭を飲み込みながら、それでも歩みを止めず進んだ。
 
 ――罰が当たったのかもしれない
 ふと、そんな言葉が脳裏を過った。
 
 きらめく星が綺麗な夜だと言うのに、どこからか雨の匂いがするような錯覚に陥った。
 その匂いが、雷蔵の寝顔を鬱々とした気持ちで眺めた苦い記憶を運んでくる。
 
 
 共に生きられぬならば、なんだと言うのだ。
 私のものにならぬなら、なんだと言うのか。
 
 
 そんなこと、どうだってよかったのだ。
 雷蔵がただ生きて、悩んで、笑ってくれればそれだけで幸せなのに。
 ただ、今と変わらず、卒業まで彼の隣で友として過ごすことが出来れば。
 いや、遠くからでも雷蔵の幸せを見守ることが出来れば、それだけでよかったのに。
 
 不破雷蔵あるところ、鉢屋三郎あり
 雷蔵がいなければ、私は私ではいられないというのに。
 
 思いが叶わなくとも、それでも。
 ――ただ、生きて欲しかった
 
 意識が深い沼の底に引きづられそうになって、三郎は目を背けた。
 
 ◇◇◇◇◇◇

「君たちは、五年ろ組の……」
「雷蔵が……雷蔵を、雷蔵を早く!!」

 今が夜更けであることも、ようやく開いた門から顔を見せた小松田の顔が色を失っていく様も気遣う余裕が三郎にはなかった。

「雷蔵、雷蔵!! ……雷蔵!」

 何かを言い残し、走り去る小松田の言葉も耳に入らず三郎はただ雷蔵に呼びかけた。
 だが、雷蔵は相変わらず目を覚まさず規則正しい鼓動だけが伝わってくる。

「雷蔵、帰ってきたんだ。もう大丈夫だから、頼むから目を覚ましてくれ、雷蔵。雷蔵、頼む。私を置いていかないでくれ、戻ってきてくれ、雷蔵……」

 雷蔵、ごめん
 好きになって、ごめん
 守れなくて、ごめん
 
 もう全部どうだっていいから
 私の命も、思いもどうだっていいから
 目を覚ましてくれ!!
 
 思わず、意識のない雷蔵を抱き占めた。
 冷たくなった己の肌に雷蔵のぬくもりが伝わってくるのに、雷蔵が何の反応も示さないことに焦りばかりが募っていく。
 
 その時だった。

「鉢屋! 不破!」

 ――善法寺伊作の声だ
 
 にわかに周囲が騒がしくなって、助けが来たことを三郎は理解した。理解したと同時に、叫んでいた。

「善法寺先輩! 雷蔵がっ!!」
「意識が無いのは不破? 君は鉢屋か?」
「雷蔵を、雷蔵を……!」
「鉢屋、落ち着いて。不破は、どうしたの?」
「目を覚まさないんです、ずっと。先輩、雷蔵は。雷蔵は助かるんですか? 先輩、雷蔵を」
「鉢屋、落ち着くんだ」
「でも、雷蔵が……!!」

 思わず、伊作に激しく詰め寄ろうとする三郎の肩を何者かが強く掴んで制止した。

「落ち着け、鉢屋! 伊作の言うことを聞くんだ 」
「食満先輩。こんな時に落ち着いてなんて……!!」
「いいから落ち着くんだ、鉢屋!」

 肩を捕まれ、三郎は唇を噛み締めて項垂れた。

「待って、留三郎。鉢屋も怪我をしてる!」
「なんだと!?」
「新野先生、とりあえずふたりを……」

 慌てる声がどこか遠くの世界の出来事のように感じる。ただ、帰ってきたのだと実感して三郎はほっと息をつく。

「……鉢屋?」

 そうして、三郎は己の腹の傷の痛みにようやく気が付いた。血を流し過ぎたのだろうか。遠ざかりそうな意識を繋ぎとめることしか出来なかった。
 
 ◇◇◇◇◇◇
 
 雷蔵が倒れてから、三日が経っていた。
 
 ――不破は眠っているだけだよ
 
 雷蔵の手を握りしめ、その無事を祈りながら三郎は伊作から告げられた言葉を反芻した。
 少しだけ席を外すといった伊作と新野はまだ戻る気配がなかった。
 
 ――ただ、いつ目を覚ますかは分からない
 
 気を抜くとまた涙がこぼれてきそうだった。
 ただ雷蔵の傍で無事を祈ることしか出来ない無力な自分に腹が立っていた。
 
 ――いい加減にしろ!!
 
 八左ヱ門。
 心の底から心配してくれる友の言葉に応える余裕のない己が情けなかった。
 
 ――友達じゃないか
 
 あんな顔をさせるつもりはなかった。
 あんな顔を見たくはなかった。
 
 見舞いに来た八左ヱ門の声を聴いたあの瞬間、これまで何とか落ち着こうと張り詰めていた気持ちがぽろぽろと崩れ去っていくのを止められなかった。完全に甘えてしまっていた自分を抑えられず、つい弱音を吐き、本音を吐露してしまったのだ。
 
 そして、今も。
 三郎はこの安全な状況の中、それでも己がいない間に雷蔵に何かあったらと思うと眠ることも出来ず、ただ雷蔵の傍でじっと彼を見守っていた。
 
 雷蔵が隣で笑っている。
 三郎が愛するそんな当たり前の日常が懐かしかった。
 
 と、その時だった。

「……三郎!!」

 これまで微動だにせず眠り続けていた雷蔵が、弾かれるように身を起こし、叫んだ。
 呆然と焦点の合わない瞳で周囲を見渡し、彷徨うように伸ばされるその手を思わず握り返した。

「雷蔵!!」
「さぶろ……」
「無理するな」

 身を起こそうとして表情を歪ませる雷蔵を制する。掴んだ手は冷たかったが、触れ合ったところからドクンと互いの鼓動が伝わってくる。
 
 ――ああ、雷蔵は生きている

「無事でよかった」

 そう呟いた雷蔵の瞳から、涙がぼとりと落ちて次から次へと彼の頬を濡らしていく。
 こんなときでも三郎の身を案じる雷蔵の優しさを感じ、三郎は溢れだしそうになる愛おしさとそれとは別に込み上げてきた腹ただしさでごちゃごちゃになった気持ちを全部飲み込んで言葉を返した。

「それはこっちの台詞だよ、雷蔵」

 絞り出した声は意図せず震えていた。
 それに気が付いたのか雷蔵がこちらを伺うような視線を向けてくる。

「何があったか、聞いても?」
「君は、あの後すぐに気を失ったんだ」
「何日眠ってた?」
「三日」
「……三日も」

 そう、三日だ。
 たった三日なのに、永遠に感じた。
 生きた心地がしなかった。

「……お使いは?」

 ――お使いなんかよりも、自分のことを大事にして欲しい

「預かったものは無事に引き渡せたよ。雷蔵が心配することは何もない」
「良かった……三郎、君は? どこも何とも?」

 ――私なんかどうでもいいから、己の身を案じて欲しい

「……私は何ともないよ」
「本当に? 我慢してるんじゃないだろうね」

 食い下がる雷蔵に、三郎はただ首を横に振る。無意識に手がほんの少しだけ右の腹を触って確認するが、すぐにその手を下ろして何でもないフリをした。雷蔵の視線がそこに向き、唇が噛み締められた。ぎゅっと握られるその手から視線を逸らす。

「さぶ……」

 その口が紡ぐ言葉を聞きたくなくて、三郎はその声をすぐに遮った。

「なぜ……」

 答えは分かっていた。
 忍びとしては間違っていたかもしれないけれど、きっと雷蔵にとっても三郎にとっても咄嗟のあの判断は間違っていなかった。
 分かってはいるのに、責めずにいられなかった。ダメだ。言ってはならないと分かっているのに込み上げる憤りを抑えることが出来なかった。

「なぜ、引き返した? あの時戻らなければ、君は傷つかずにすんだかもしれない」
「……三郎」

 雷蔵が顔を曇らせる。
 ――ああ、何でこんなに上手くいかないんだ

「私は、君が傷つくのは嫌だ」

 一度吐き出された言葉は、次から次へと溢れ出した。雷蔵は、眉をひそめ、視線を逸らさず、ただ目を見開いて三郎の言葉を受け止めてくれた。その姿が、ほんの少しだけ怖かった。雷蔵には全てを見透かされている。彼は、全てを分かった上で八つ当たりでしかない三郎の思いを受け止めている。
 
 なぜ、怒らない?
 なぜそうやっと受け止める?
 なぜ?
 
 ――本当は、その答えも分かっている

「分かってる。あの時、どうすべきだったか。ごめん、雷蔵。君はきっと正しかった。君がいなければ、私は死んでいたかもしれない」

 雷蔵は、おそらく三郎が彼に向けるこの思いを察している。そして、三郎も雷蔵から向けられる感情が何なのかをおそらく理解していた。

「でも、雷蔵。私は君が傷つくことは耐えられないんだ」

 一瞬の静寂のあと、じっと雷蔵が瞳を見つめて静かに口を開いた。

「僕はね、三郎」

 決意のこもった真っ直ぐな声と視線が、雷蔵の覚悟を物語っていた。

「僕は、お前と生きたかったんだ。三郎と一緒にここに戻りたかったんだよ」

 雷蔵。
 頼むから、言わないでくれ。

「お前が好きだよ」
 
 
 
 
 
 ――その瞳は、雄弁に愛を語っていた
 
 
 
 
 
 
 雷蔵の唇が紡いだ言葉に心が揺れる。
 聞きたくて聞きたくて堪らなかったはずの睦言が落とした一雫の歓喜が胸に落ち、広がり、甘く心を酔わせる。
 
 好きだ、好きだ、大好きだ
 いいや、君を愛している
 
 だが、その思いは秘めなければならなかった。
 甘美な響きが、毒へと変わる。
 底知れぬ絶望が全身に広がり、指の先から冷えていく。
「ごめん、雷蔵」
 いやだ、と心が拒絶する。
 色を無くす雷蔵の顔に、胸が張り裂けそうになる。その手を掴んで、引き寄せて、その身体を抱いてしまいたい。心がそう叫ぶのに、三郎はただ首を横に振る。
「その言葉は聞けない」
 けれど、君を愛することは許して欲しい。
 
 震えたように感じた指は、目尻に滲んだ涙はどちらのものなのか。
 それすら、分からなかった。
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