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燕子花は愛を秘める

3.雷蔵

 学園長先生からお使いを言い渡されたのは、あの夜から半月程過ぎた日のことだった。
 学園と懇意にしている"ある城"に手紙と封をされた"何か"を届けるという一見すると単純なこのお使いの真意は、おそらくここ最近のふたりの間に出来た見えない壁を修復せよという学園長なりの気遣いなのだろう。
 余計なお節介をと思う反面、どこか照れくさい気持ちがあって三郎はつい

「大変な思いをしたのに、もう次のお使いとは学園長先生も人が悪い」

 とボヤいてしまう。
 実際はあの件に学園長は関与していないのだから本当に単なる言いがかりなのだけれど。
 そしてそんなこととは露知らず、そんな三郎の後に続いて

「ほら、でもおこづかいもくれたわけだしさ」

 と慰めの言葉をかけてくる雷蔵は、いつも通りを装ってはいるもののどこかいつもの覇気がないように思えた。
 
 その原因が己にあることは分かっていた。
 だが、それでも三郎には雷蔵の憂いを取り除いてやることは出来なかった。
 
 表面上はいつもと変わらない日常を演じているつもりなのに、雷蔵には三郎の心の持ちようが何故だか伝わってしまうのだ。
 
 あの日から三郎の胸中では雨が降り止まない。これまで、無意識に己の力を過信しているところがあったのだと自覚せざるを得なかった。ジクジクと痛む腹の傷が、苦い現実を突きつけてくる。
 
 手紙を受け取った時、雷蔵は自分が守るのだと心に誓ったのに、それはとんでもない思い上がりだったのかもしれない。
 
 今ならまだ間に合う。
 雷蔵から離れれば、きっと"鉢屋"は雷蔵への興味を失うはずだ。
 
 その覚悟が出来ず、今日もまたほんの少しの距離をとるに留まる己が情けなかった。
 
 どうすることも出来ず、三郎はただ無言で前を見つめて歩いた。
 ふたりの間に出来た距離が、そのまま心の距離を表しているような気がした。

「あのさ、三郎」

 雷蔵が声をかけてきたのは、目的の城に続く山道を登っている最中だった。

「どうした?」

 "いつものように"を心がけて返事をしたつもりなのに、出てきた声がいつもより強ばっていることに気がついて三郎は内心ビクついた。
 だが、雷蔵はそこに触れる素振りは見せず話を続ける。

「ここ、昔も通ったの覚えてる? ほら、学園長先生の思いつきで、チーム対抗の実習をしたときに来たことあるだろ」
「…………雷蔵との思い出なら、何だって覚えてるさ」

 確か、三年の春だった。
 ――三郎が、人生で最も根拠もなき自信に満ち溢れていた頃だった
 
 先に城に辿りつけるのはどのチームかを競うもので、道中には様々な罠が仕掛けられ、先輩たちによる妨害もあったと記憶している。今考えるとこれまでの知識とチームワークを発揮してみんなで乗り越える目的があったのだろう。
 
 だが、当時の三郎にはそれが分かっていなかった。子どもだったのだ。

「あの時、私たちのチームは散々だったな」
「うん。意見が合わなくて、喧嘩になっちゃったんだよ」

 子どもだったのは、同級生たちも同じだった。
 だから、五年生になった今ならば我慢出来るところも、引くべきところも弁えられず、自分の意見が正しいのだからただ従えばいいと主張する三郎とそれに反発する級友のひとりの意見が食い違い、言い争いになってしまったのだ。

「この道を歩いてたら、急に思い出したんだ。僕、確かあの時はぐれて迷子になった」
「……君は優しいから」
「違うよ。僕はただ、未熟だったんだ」
「それは耳が痛いな。未熟だったのは、私もだよ、雷蔵」

 ――三郎、もっと周りを見て!
 
 顔を真っ赤に染め、必死に声を張り上げた雷蔵の瞳は涙を堪えて潤んでいた。
 今も昔も、いつだって雷蔵は穏やかで、三郎が調子に乗ったりイタズラを仕掛けたときに怒ったとしても、すぐにニコニコしながら隣にいてくれた。時には、真面目な雷蔵も三郎に悪ノリして一緒になって企てごとをしたこともあった。彼の意外とイタズラ好きで茶目っ気があるところも、三郎は気に入っていた。
 
 ――そんな雷蔵が、怒っていた。
 
 たかぶっていた気持ちがすっと冷えて、その場にいることがいたたまれなくなって。
 
 だから、あの日三郎はその場から逃げたのだ。
 
 逃げて、逃げて、逃げて
 
 そして寂しくなった。
 雷蔵はきっと追いかけてきてくれる。
 そう、心のどこかで期待していたことに気がついて、情けなくなった。
 
 謝らなくては。
 
 そう思って恐る恐る仲間たちの元に戻った三郎を待っていたのは、慌てる"雷蔵以外の"級友たちだった。
 
 ――お前を追いかけていなくなったんだ!
 
 まるで、この世の終わりのように感じた。
 
 怒りをぶつけてきた級友の顔が、すぐに真っ青になったことが忘れられない。それほどまでに、あの時の三郎は酷い顔をしていたのだろう。

「天才だ、何だと言われて生意気になってたんだ。君に言われて、気がついた」
「そんな、大袈裟だよ。それにそのあと、僕は結局迷い癖が出ちゃって迷惑をかけたし」

 雷蔵が言葉を噤んだ。
 何か考え込むような仕草を見せ、そして真っ直ぐ三郎の目を見て言った。

「あのとき、三郎は助けに来てくれただろう」

 その瞳が、あの日の幼い雷蔵の姿と重なった。勝手なことをして雷蔵を怒らせたばかりなのに、制止する教師を振り払ってまた勝手な行動をした。そうして必至で探して見つけ出した雷蔵は、涙を堪えて真っ赤になった瞳で三郎をとらえると、笑ったのだ。
 
 ――三郎!! よかった!
 
 何が良かった、だ。
 ――私のせいで迷子になったというのに
 
 何故、君はこの顔が"私"だと分かるんだ。
 ――この顔は"○○"のものなのに
 
 ああ、でも。
 ――無事でよかった
 
 頭の中がぐちゃぐちゃになって、何がなんだか分からなくなって。結局、あの日先に泣いたのは三郎だった。
 
 だから、雷蔵が何故そう言ったのか今も分からなずにいる。
 
 だが、三郎はその時はっきりと自覚した。
 雷蔵は己にとってかけがえの無い特別な存在なのだ。

「私が雷蔵を探さないわけない」

 色んな思いを飲み込んで、ただ一言だけそう返せば、雷蔵は微笑んだ。

「……お前のそういうところ、感謝してるよ。三郎なら来てくれるって何故か自信があったんだ」

 あの日、あの沼で咲いていたあの群青色の小さな花は菖蒲か、燕子花か。
 ちょうど、梅雨が始まったばかり。
 今と同じくらいの時期だった。
 
 あの日から二年経つ。
 あの花は今も変わらず、あの場所で咲いているのだろうか。
 伸びた背丈と比例するように溢れそうに育った思いを胸に秘め、三郎はただ雷蔵の横顔を見つめた。
 
 ◇◇◇◇◇◇
 
 お使いは無事に果たすことが出来た。
 殿様は、あの実習に協力してくれる程度には学園に友好的な方だったから、ふたりを労ってくれたし、振る舞われた南蛮菓子を前にソワソワと落ち着き無く隠しきれない笑みを見せる雷蔵の姿を見ることが出来ただけで三郎は満たされた気持ちになった。
 しかし、問題は帰路だった。
 三郎の懐には、中は決してみないようにと言われた包みが。雷蔵の懐には、殿様から預かった手紙が仕舞われている。
 おそらく、これが何らかの意味を持つものなのだろう。であれば学園にほど近いこの城に下級生ではなく上級生を使いにやった意味に合点がつく。
 そしてその予想通り、気が付けばふたりは、何者かによって後をつけられていた。

「……三郎」

 雷蔵からの目配せを受け、ふたりは同時に走り出した。かなりやり手の忍なのだろう。音もなく、気配をも隠しながら追いかけてくる忍を相手に、三郎は思考を巡らせる。隣を走る雷蔵は迷いに駆られているのだろう。眉をへの字にしてぐるぐると考え込んでいることが、その表情からありありと伝わってきた。
 飛び道具を避け、ふたりは木陰に身を隠す。

「このまま別々に、町まで走ろう」

 相手はひとり。共倒れだけは避けなければならない。三郎は雷蔵に告げた。何か言いたげな視線を投げかけてくる雷蔵にはわざと気付かないようにした。
 互いに頷き、木陰から飛び出す。目の前に忍が現れ、立ち塞がったのはその時だった。

「お前たちが持っているものを置いていけ」
「それは出来ない」

 三郎は懐から鏢刀を取り出し、投げつける。だが、相手はさすがプロだ。三郎の攻撃を避け、応戦してくる。自らも応戦しようかと足踏みをする雷蔵に三郎は叫んだ。今は何よりも、忍務の成功を優先すべきときだった。
 
 そして、何よりも。
 褒められたことではないのは分かっているものの、雷蔵の安全を優先したかった。

「雷蔵! 行け!」

 三郎の言葉に、止まっていた雷蔵の足が動き始める。刺客からの攻撃を受け流し、雷蔵の無事を確認しようと視線を向けて三郎はぎょっとした。雷蔵の足がまた止まっているのだ。
 
 ――雷蔵が迷っている
 
 直感的にそう思って、三郎は怒号をあげた。

「雷蔵!! 迷うな!!」

 だが、すぐに様子がおかしいことに気がついた。ニヤリと薄ら寒い笑みを浮かべる敵と、こんなときにジクジクと痛み始める腹に思わず手をやり、そして三郎は驚きに目を見開いた。 
 
 雷蔵が戻ってくる。
 苦無を手に必死な形相を浮かべて。
 
 視界にうつるものすべてがゆっくりと動いているように見えた。背中に感じる気配に既のところで気がついた。
 
 敵は、ふたりいたのだ。

「三郎!! 後ろだ!!」

 紙一重で敵を交わしたと同時に、雷蔵が背後から忍び寄っていたもうひとりの敵に対峙していた。苦無が弾き飛ばされ、雷蔵の頬を掠める。ふらつく雷蔵の身体と、武器を向ける敵の姿。そして雷蔵の頬をたらりと流れる血に頭が沸騰した。

「このガキが……!」

 ――雷蔵!!
 
 雷蔵が、無表情で佇んでいる。
 苦無を構えた手が力を失っているように見えて、三郎は泣きたくなった。

「らいぞおおおお!!」

 がむしゃらに放った鏢刀が命中する。
 死をもたらす武器を手に、生きて欲しい、ただそう願う気持ちだけが三郎の頭を占めていた。
 
 飛び散る真っ赤な血を前に、雷蔵の瞳に色が戻る。

「……三郎!!」

 気付けばふたりは、背中を合わせて互いの武器を構えていた。
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