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燕子花は愛を秘める

2.雨と嘘
 
 あの夜以来、雷蔵と落ち着いて顔を合わせる機会が訪れないのは幸か不幸か。
 遠方の城まで書状を届けるように仰せつかった忍務を終えた三郎は、少し休憩しようと木陰に腰を下ろしながら、あの夜から今日までのことを思い出していた。
 
 ――何じゃ、今さら
 
 一族との関係とそれが学園にもたらすかもしれない可能性について相談した三郎に、学園長が返したのは思いもよらぬ言葉だった。
 曰く、様々な出自を持つ生徒たちを受け入れているがゆえに学園側もあらゆる事態を想定した備えと覚悟があるのだという。
 
 そもそも、お前のように顔を明かさぬという事情を持った者を受け入れた時点で要らぬ心配だと言われれば、三郎は苦笑するしかなかった。
 
 ――ただし、無償で全てを与えるのは甘すぎる
 
 そう言いながら、学園長は三郎にいくつかの仕事を提示した。

 学園長の護衛、下級生の授業の手伝い。
 そして、個人での忍務。

 どれも三郎としては願ったり叶ったりの条件で、三郎はひとつ返事で全てを飲み、少しだけ以前よりも忙しない日々を送っている。今回の忍務もその一環だった。
 
 ――鉢屋三郎。己が道は己で決めるのじゃ
 
 去り際に学園長がかけてきた言葉がぐるぐると頭の中で回り続けていた。
 
 願わくば、雷蔵と共に生きたい。
 彼が望んでくれるというのならば、今生を彼とともに歩んでいきたい。
 
 だが、己の望みとは相反するように、どこか冷静な自分が冷ややかに嘲笑ってくる。
 
 お前はそうかもしれないが、雷蔵はどう思っている? 己の全てをさらけ出す勇気もないくせにお前は何を言っているんだ。
 
 いざとなると自信が消え失せ、煮え切らない自分に嫌気がさした。
 
 竹筒に入った水をゴクリと流し込み、喉を潤すと、三郎は頭を振って立ち上がった。
 いつもとは異なる身体の重心が落ち着かず、おもわず髢に触れる。
 出立の前、どこか心配そうな様子でこちらを見つめる雷蔵にすぐに戻ると約束した。
 だが、予想以上に道のりが険しく時間がかかってしまっている。
 少しでも帰路を急ぎたかった。
 が、その時だった。
 まるで蛇のように静かにこちらを捉える気配を察知し、三郎は神経を研ぎ澄ませる。
 すぐ近くに誰かがいる。
 この気配には覚えがあった。

「何の用だ」

 声をかければ、すぐにその視線の主は姿を現した。よく知るその"顔"に三郎は苛立ちを隠さずに告げる。

「父上からの差し金か」
「いいえ、私の独断でございます」

 人を食うような笑みに虫唾が走る。
 その顔は青年のものをしているが、中身が好々爺なことを思い出せば尚更腹が立った。彼は鉢屋の一族の元で長年仕え、父の側近のような役割をしている忍びである。幼い頃から三郎はなぜだか彼があまり好きにはなれなかった。

「三郎様。そのご様子ですとお父上からの書状、お目通しいただけたようですな」

 沈黙を肯定と受け取ったのだろう。仰々しく頷くと、男は言葉を続けた。

「…………不破雷蔵」

 思わず、男を凝視する。
 ふたりの間に緊張が走った。
 何も言わず、互いに動かずただ見つめ合う。彼が何を考えているのか。なぜ今ここに現れたのか。その真意が分からず、三郎は動くに動けなかった。完全に劣勢な立場に立たされていることを理解し、そして分かった上で何も出来ない自分に苛立った。
 先に口を開いたのは、またも男の方だった。

「そのお顔が、彼のものですか?」
「そうだといえば?」
「さあ、どうしましょうか。その顔が、鉢屋に仇なす者であるのならば目に焼き付けておくところですが……」

 その言葉と同時に、距離が詰められる。
 素早い動きに、三郎は懐に隠した武器を手に攻撃を交わすと後ろに飛んだ。
 執拗に顔を狙われ、不気味に思いながらも次々と難を逃れる。しばらく攻防が続くが、やがて男は再び三郎と距離をとると肩をすくめた。

「やはりその顔、不破雷蔵ではないようだ」
「なぜ、そうだと?」

 じろり、と睨みをきかせれば男は呆れたように笑った。

「"顔"を狙っているのに動揺を感じません。三郎様、まだまだ修行が足りませぬぞ」

 こういうところが嫌いなのだ。三郎は心の中でそう呟くとわざと余裕ぶって口ではこう返した。

「まだお前の目が耄碌してないことに驚いた。 大事な雷蔵の仮面をそう無闇に晒すはずがないだろう」
「大事な、と。三郎様。役目をお忘れですかな」

 ――役目を忘れたわけではあるまいな
 手紙の文面が頭に過ぎった。
 
 一族のため変装の腕を磨き、兄の影として、諜報や騙し討ちで役立てる。己に課せられた役目を忘れたことは一度もなかった。

「あなたは影。役割さえ果たせばそこに意思は要らぬと申したはず。不破雷蔵の顔に執着してどうするのです」
「それに答える義理はない」
「三郎様。いつまでも子どもではいられぬのです。聞くところによると、あなたは不破雷蔵に相当御執心だとか。いつまでも友と遊んではいられません。それとも、いつまでも箱庭の中でそうやって友情ごっこを続けるつもりですか? "顔のない"あなたが?」

 捲し立てるように、でもどこか冷静に嘲笑うように告げてくるこれは"怒車の術"に違いない。
 だが、雷蔵の名を出されては"三郎"は黙ってはいられなかった。

「雷蔵のことは詮索するな」
「恐ろしい顔をなさる。それではまるで、不破雷蔵の顔に執着しているのではなく不破雷蔵自身に惚れて……」
「黙れ!!」

 これが"恋"であるわけが無い。
 こんなにも熱く、そして醜い感情が。
 
 
 ――私は、雷蔵を……
 
 
 そう自覚した瞬間だった。鈍い音とともに、腹に焼かれるような熱い衝撃を感じたのは。
 思わず後ろに身を引き、手を腹にやるとべったりと真っ赤に染まる様が視界にうつる。

「三郎様。これは忠告です。一族に逆らうのであれば、あなたも、不破雷蔵も一族の敵となる」

 油断していた。
 幼い頃からすぐ近くにいた彼のことをどこかで見くびっていたのかもしれない。後悔が波のように襲ってくる中で、ニヤリと笑う男の顔がやけに印象に残った。

「命に別状はないでしょう。ここであなたに死なれては一族のためになりません。三郎様。あくまで今日のこのことは私の独断です。今聞いたことは私の胸に秘めましょう」

 そう言い残して去る男を、三郎はただ呆然と見送ることしか出来なかった。
 
 ◇◇◇◇◇◇
 
 そこからどうやって学園に戻ったのか、三郎は覚えていない。
 
 ただ、雷蔵の元へ戻らなければというその一心でもつれる足を進め、そうしてやっとのことで帰りついた学園の前で慌てて雷蔵の顔に変装し直し、そこで三郎は足を止めて呆然と立ち尽くした。
 
 ――帰っても、いいのだろうか
 
 何も無かったかのように、雷蔵の隣で笑って過ごす日常を享受することが許されるのか。雷蔵のことを思うならば、このまま姿を眩ませるべきではないのか。ザアザアと降り始めた雨が全身に打ち付け、心が冷えていく。
 
 雷蔵に会いたい。
 雷蔵に会いたくない。
 
 頬を雨粒が濡らしていく。
 だが、涙は一粒も出てこなかった。
 
 しばらくそうやって立ち尽くして、そして三郎の足は本人の意志には反して無意識に長屋に向けて歩み始めていた。
 
 この時間だ。雷蔵は寝ているはず。
 
 言い訳のような言葉が脳裏に過ぎる。
 ほんの一瞬だけでよかった。
 姿を眩ませるとしても、最後に雷蔵の顔を見たかった。
 
 なのに、なぜ?
 自室の近くに辿り着くと同時に、三郎は思わず顔を歪めた。嬉しいのに、怒りが湧き上がる。

「…………三郎!!」

 求めてやまない姿がそこにあった。
 己が濡れることも厭わず、なりふり構わず駆け寄ってくる雷蔵が愛おしくて。それなのに憎くて堪らなかった。
 
 なぜ、君はここにいる?
 なぜ、君は私の名を呼ぶ?
 なぜ、見逃してくれない?
 
 頭の中がぐちゃぐちゃだった。
 なのに、身体は正直でその場から動くことが出来なかった。ただ雷蔵の身体を抱きしめて、離すことも動くことも出来なかった。

「……雷蔵」
「三郎、早く部屋に……」
「雷蔵、雷蔵」

会ってしまったら、離れられなかった。
 雷蔵の手がしがみつくように己の背にまわされ、肩に頬が寄せられた。ただ強く抱きしめると、優しく背を撫でられる。その手の動きから、雷蔵の気持ちが伝わってくるようだった。しかし、すぐに雷蔵の手が強ばるのが伝わってきた。

「三郎、お前……」

 その声が震えていて、三郎は己の怪我に気付かれてしまったことを悟った。
 なるべく、雷蔵に心配はかけたくない。
 そう思って、言い訳にもならない嘘をついた。

「返り血を浴びたんだ。心配することはないさ」

 下手な嘘だ。子どもでも、もっとマシな嘘をつくに決まっている。
 いたたまれなくなって、ごめん、の言葉とともに三郎は雷蔵から距離を置いた。

「雷蔵までずぶ濡れにしてしまったな」

 そして、ぎこちなく笑うと雷蔵の手を引いて長屋に向かって歩みを進めた。
 
 雷蔵は何も言わなかった。
 救われたような気持ちになった。
 
 部屋に入る前、チラリと視界にうつったツバメたちが無事なようで少しだけ三郎はほっと胸を撫で下ろした。雷蔵が気に入っていたツバメだ。何かあると、彼も無念だろう。

「三郎、ちょっと待って」

 雷蔵はすぐに布と替えの服を用意して、手渡してくれた。いつもならば、自分の方が担っている役割を率先して行う彼の優しさが身に染みる。

「雷蔵、ありがとう」

 簡単に身体を拭いながら、三郎はようやく表情を和らげた。張り詰めていた空気がほんの少し和らいだ気がした。
 
 何があったのかは、話せなかった。
 ただ、生きて帰ってきたことだけは確かだった。

「無事でよかった」

 雷蔵が呟くようにそう言った。
 直後、堪えきれなくなったのだろうか。
 雷蔵の瞳からぽとりぽとりと次々に涙がこぼれ出して頬を濡らしていく。三郎が想像していた以上に、雷蔵が心配していてくれたことに気がついて、三郎はただその頭を撫でることしか出来なった。

「心配かけて、ごめん」
「ほんとに、心配したんだ」
「うん」
「帰ってこないかと思って、不安だった」
「ごめん、雷蔵。すぐに帰るつもりだったんだ。嘘じゃない」
「怖かったよ」

 真っ直ぐな雷蔵の言葉に、胸が抉られるような衝撃を覚えた。
 
 怖かった。
 そうだ、怖かったのだ。
 
 雷蔵も。そして三郎自身も。
 離れることが、怖くて怖くて堪らない。
 ああ、きっと雷蔵は同じ気持ちでいてくれる。そう確信し、喜びと恐怖で胸の中がぐちゃぐちゃになった。
 雷蔵の目を見ることが出来ず、視線をさ迷わせ、三郎はやっとの思いで笑みをつくりあげる。そして、

「……ただいま」

 と、ただ一言告げた。油断すると、今にも涙が溢れそうで堪えることに必死だった。

「…………おかえり」

 雷蔵が下手くそな笑顔を浮かべて笑っている。どちらともなく、抱きしめ合った。

 言葉はなかった。
 ただ、互いがここにいること。雷蔵の元へ帰ってきたことだけが真実だった。
 
 その身体の温もりに安堵し、消えない鉄錆の臭いと記憶に三郎は泣きたくなる。
 
 ――雷蔵に嘘をついた
 
 もっと強さが欲しかった。
 何も秘めなくても良い、力が欲しかった。
 
 帰ってきて、良かった。
 そう思う反面、帰ってくるべきではなかったと己の中の誰かが囁いてくる。
 
 雷蔵は何を思っているのか、ただ静かに三郎の隣にいた。その温もりが愛おしく、ザアザアと降り続ける雨音がやけに耳に残った。
 
 
 
 ◇◇◇◇◇◇
 
 
 ――寝静まった君を見て、私は迷う
 
 共に生きられぬというのなら。
 今、ここで君を殺めてしまえば、雷蔵。
 君は永遠に私だけのものになるのだろうか。
 君の目にうつる最後の景色が私であればどんなに幸せだろうか。
 そんな思考が脳を蝕み、甘く私を誑かす。
 
 ――だが
「……さぶろ」

 瞼を閉じて、私の名を呼び微笑む君に。
 君のその無防備さに、私は正気にかえる。
 
 ――これが愛であるならば、愛はなんと醜いのだろう
 
 己の中にある暗い感情にそっと蓋をした
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