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燕子花は愛を秘める

1.青天の霹靂

―――お前が好きだよ
紡がれた言葉に、心が揺れる。
聞きたくて聞きたくて堪らなかったはずの睦言が落とした一雫の歓喜が胸に落ち、広がり、甘く心を酔わせる。
 
     好きだ。
         好きだ。
             大好きだ。
 
だが、その思いは秘めなければならなかった。
甘美な響きが、毒へと変わる。
底知れぬ絶望が全身に広がり、指の先から冷えていく。
――ごめん、雷蔵。
いやだ、と心が拒絶する。
その手を掴んで、引き寄せて、その身体を抱いてしまいたい。心がそう叫ぶのに、私はただ首を横に振る。
――その言葉は聞けない。
けれど、君を愛することは許して欲しい。
 
震えたように感じた指は、目尻に滲んだ涙はどちらのものなのか。それすら、分からなかった。
 
◇◇◇◇◇◇

 鉢屋三郎は、親友に顔を見せたことがない。
 いや、誰にも見せたことがないと言った方が正確だろうか。三郎は、とある忍衆の頭の息子として生を受けた。
 
 ――絶対に顔を見せてはいけない。
   それが、お前が生きる術となる。
 
 それが幼い頃からの父の教えだった。
 幸い三郎は呑み込みが早く、"その頃は"少し歳が離れたふたりの兄よりも将来が期待されていた。だからこそ、忍としてより高みを目指すため一族を離れ忍術学園へ入学したのだ。
 はじめて学園に足を踏み入れた日のことはよく覚えている。
 誰よりも早く到着した三郎は、部屋で同室の相手が訪れるのを待っていた。その頃から腕におぼえがあった三郎は、今思えば完全に自惚れていた。
 だから、やってくる同室の相手をからかってやろうと思ってじっと待ち構えていたのだ。
 だが、三郎の予想に反したことが目の前では繰り広げられていた。
 その人物は戸の前でひたすらうんうんと唸りながら何か考え込んでいるのだ。しかもあろうことか悩んだ結果そのまま眠り始めるのだから拍子抜けしてしまった。
 
 ――こいつ、本当に忍びになるつもりなのか?
 
 思わず疑い、だが同時に面白いと思った。
 幼い頃から大人の忍びたちに囲まれて育った三郎にとって、彼の姿は興味深い存在として映ったのだ。
 だから、ほんの少しだけ悪戯心が湧いてそっと戸を開くと手早く地蔵の姿に変装してじっと息を潜めた。
 ふわふわの癖毛に平凡な顔をした少年が目の前にはいた。目が覚めたら彼を装ってみよう。
 さあ、その時彼は、一体どんな表情を見せてくれるのだろう。
 
 怒り? 戸惑い? それとも、怯え?
 
 やがて、彼の瞳がゆっくりと開く。ぼんやりと焦点が合わなかった視線が交わり、驚きに目が見開かれる。
 
 ――うわっ!
 
 その一言と共に尻もちをついて、ただただ驚き目を丸くする姿に思わず笑みがこぼれた。三郎は即座に地蔵から少年の姿になると呼びかけた。
 
 ――君が、俺の同室かい?
 
 春の訪れを告げるような少し肌寒い風と、夕暮れを告げる柿色のやわらかな日差しが降り注ぎ、あまりの眩しさに三郎は瞳を細めながら、手を差し伸べる。
 
 さあ、君はどうする?
 君はどんな反応を見せてくれるんだ?
 ああ、愉快で堪らない。
 
 だが、三郎の予想は覆された。
 参ったなあとでもいうように眉をへの字に寄せて微笑んだその顔は、三郎の脳裏に焼き付けられた。
 
 ――これが、鉢屋三郎と不破雷蔵の出会いだった
 
◇◇◇◇◇◇

 どよめく歓声に顔色ひとつ変えず、三郎は冷静に周囲の様子に気を張り巡らせた。
 やわらかな木漏れ日に似つかわしくない強風が吹きつけていた。
 この風向きと強さならばどう動くのが最適か。三郎は、忙しなく思考を巡らせながら同級生の攻撃を軽やかに避けていく。
 放たれた手裏剣をかわし、三郎は横目で雷蔵の姿を確認する。せっかくの模擬演習。雷蔵に良いところを見せたかった。
 だが、当の雷蔵本人は何やら八左ヱ門と言葉を交わしていて三郎の方を見てはいなかった。思わず顔を曇らせ、すぐに気を取り直す。
 ならばもっと良いところを見せるだけだ。
 次々と変姿の術を披露すれば、再び歓声が上がった。
 ふと、雷蔵と目が合う。
 ドクンと胸が高鳴り、力がみなぎる。
 雷蔵が手を振ってくれたのを確認して、三郎は思わず笑みをこぼすと懐から苦無を取り出して対峙する同級生に素早く距離を詰めた。
 ひいっと息を飲む喉元の薄い皮すれすれに、切っ先を向ける。恐れを見せる眼差しに、三郎は目を細めた。その一瞬、三郎の思考は暗い奈落の底へと引きずり込まれたようにただ目の前の存在をどう仕留めるのかに集中していた。

「そこまで!!」

 だが、対戦終了の合図に三郎の意識が現実へと引き戻される。
 
 ――そうだ、今は模擬演習
 
 冷えきった思考に思わず身震いする。
 悪いな、と演習相手の同級生に声をかけて、三郎は雷蔵のもとに駆け出した。彼の顔を見ることが出来なかった。ただ、早く雷蔵と言葉を交わしたくてたまらなかった。

「らいぞー!!」
「三郎、お疲れ様」

 すぐに雷蔵の顔を装い、肩を組んで定位置へと落ち着けば、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべながら労ってくれる。張り詰めていた気持ちがほぐれていくのが分かった。

「三郎、凄かったね。あの動きには惚れ惚れしたよ」
「雷蔵が見てくれているからな。君が手を振ってくれて、いつも以上の力が発揮出来た」

 雷蔵からの悪意のない賞賛の言葉は、三郎の心を浮き立たせた。心が暖かく満たされ、自然と笑みがこぼれる。

「君に褒められるのが一番嬉しい」

 級友たちの賞賛も、教師たちの賞賛も。
 三郎はこれまで数え切れないほど受け取ってきた。そのどれもが己の自尊心を満たしたが、やはり雷蔵からの言葉は他とは違う。それは、彼の存在が三郎にとってかけがえのないものだということを如実に示していた。
 
 と、その時。傍で二人の様子を眺めていた八左ヱ門が堪えきれなかったのだろう。彼らしい曇りのない笑顔を浮かべながら「ほんっと、三郎は雷蔵のことが好きだよなあ」と、声をかけてきた。

「お前は、何を当たり前のことを言ってるんだ」

 八左ヱ門は良い奴だ。だが、それとこれは別の話。

「いや、当たり前ってお前」
「不破雷蔵あるところ、鉢屋三郎あり、さ。そうだろ? 雷蔵」

 ぐっと強く肩を抱けば、雷蔵は「……うん、そうだね」と返してくれる。
 雷蔵が発したその言葉は、三郎の身体にじんわりと染み渡り自然と笑みがあふれだす。
 だから、三郎は満面の笑みを浮かべて八左ヱ門に向けて言った。

「聞いたか、八左ヱ門!」
「聞いた、聞いた。お前と雷蔵の仲はよく分かった!」

 定番のようなやり取りにどこか安心し、三郎は八左ヱ門と軽口を叩き合いながら歩み始めた。そろそろ、昼食の時間が始まる。早く行かなければ、ちょうどいい席も人気のランチもなくなってしまうだろう。雷蔵は迷うだろうから、それを待つ時間を充分に確保してやりたかった。しかし、背後から己の名を呼ぶ声に三郎は足を止めることになった。

「お――い! 鉢屋三郎! ちょっと来てくれ!」

 授業はもう終わったというのに、なんだというのだ。どうせ学級委員長の仕事だろう。そんなの午後の授業の際に言って欲しい。せっかくの雷蔵との時間を邪魔されるのは好ましくなかった。

「学級委員の用事かな?」

 雷蔵も同じことを考えていたようだ。三郎は大袈裟にため息をつくと肩をすくめた。

「雷蔵、悪い。先に行っててくれ」
「分かった。先に行って、待ってるよ」
「すぐに戻る。……八左ヱ門も、悪いな」
「おー、いつものところで!」

 思ったよりあっさり見送られてほんの少しだけ三郎はへそを曲げつつ足早にその場を去る。手を振る担任教師のもとに辿り着き、三郎は名乗りを上げた。

「鉢屋三郎です」
「おお、鉢屋! また不破の顔を借りているのか」
「……はい」

 何を今更、という言葉は呑み込んだ。早く用事を聞いてこの場から去りたかった。しかし、その用事は三郎の予想に反していた。

「お前宛てに手紙を預かっていたのを忘れていたよ。昼食前に呼び止めてすまないな」
「……手紙?」
「ご実家からだよ」
 
――生きた心地がしなかった
 
「…………ありがとうございます。では、私はこれで失礼します」

 何とか早口でそう告げて、三郎は踵をかえす。しばらく離れて、木陰に腰を下ろした。手紙を持つ手が無意識に震えることに気付いて唇を噛む。三郎の意識はもはや学園ではなく己の記憶の底に沈んでいた。
 
長兄が死んだのは、三郎が三年の夏だった。

 流行病にかかって呆気なく逝ったその人を惜しみ、悲しみにくれる父がおかしくなったのはそれからすぐだった。父は、次男を長男だと思い込むことで正気を保とうとしたのだ。
 しかし、今思えばその頃はまだ良かった。
 次の年の夏に母が逝った。
 その後から父と次兄は少しずつ壊れていった。
 父からも周りの者からも長兄として扱われ、己の存在をかき消されてしまうその苦しみは計り知れない。兄の行き場のない思いは三郎にぶつけられた。先の春休み。実家に戻った三郎に待ち受けていたのは、長兄の顔をした次兄からの罵声と、どこか冷えきった一族の空気。そして、三郎は兄の身代わりとして生きることを命じられた。
 歳が近く、何かと比べられることが多かった次兄とは、元々折り合いが悪かったのは確かだ。それは確かなのだが……
 そっと手紙を開く。恐る恐る文字に目を走らせ、見つけた文字に三郎は思わず目を伏せた。
 
――不破雷蔵とは何者か
 
 ドクドクと心臓脈打つ。嫌な汗が背中を伝った。
 
 ――なぜ、雷蔵の名を知っている?
 
 里に帰る時、三郎は雷蔵の顔から全く別の顔を装っていたはずだった。なのに、なぜ?
 思わず周囲を見渡し気配を探るが、学園は平和そのものだった
 三郎の気持ちとは裏腹に空は憎いほど青く晴れ渡っている。頭上をツバメが通り過ぎていった。
 
 
 
 ――三郎! 僕らの部屋にツバメがいるよ
 
 
 
 雷蔵の声が脳裏に響く。
 春休みが終わって、学園に戻った三郎を迎えた雷蔵の笑顔を思い出して、気を落ち着かせた。何としても、雷蔵は守らねばならない。そう決意し、歩み始める。急がなければ、雷蔵たちが待っている。三郎は前を向いて、いつもと変わらぬ様子を装う。
 
  鉢屋三郎は親友に己の顔を秘めている
  だけれども
  鉢屋三郎はそんな親友を愛していた
 
 ◇◇◇◇◇◇
 
 すっかり日が沈み、夜の帳が下りた頃、三郎と雷蔵は連れ立って自室へと戻ってきた。
 いつもならたわいないことを話したり、夜の鍛錬に出かけたりするところだが、今日は互いに口を噤んだまま、それぞれの机に向かっている。
 三郎は昼に受けとった手紙を開き、ぼんやりと眺めた。"不破雷蔵"その文字ばかりをただ見つめ、三郎は溜息を押し殺す。
 雷蔵は、この学園に入学して最初に出来た友達だった。
 最初は、面白い奴だと思った。
 からかわれ、己の顔を装われても眩い笑顔を浮かべたばかりか差し出した手を握り返してくるなんて酔狂な奴だと興味を持った。
 その頃はまだ忍びの知識がなく、優柔不断でどこか人好きのする微笑みを携えた彼のことを友としては好ましく思いながらも、どこか甘えた奴だと馬鹿にした。
 だが、あんなに真っ直ぐで男気のある八左ヱ門ですら、最初は驚き怯えた反応を返したのだ。
 級友たちも最初は三郎のことを遠巻きに見ていたのだ。
 そんな彼らが三郎を受け入れたのは、きっと雷蔵の存在あってのことだったのだろうと今は分かる。
今や雷蔵は、立派な忍者のたまごだ。頼りがいのある先輩として後輩たちを引っ張り、その豊富な知識は時に三郎たち同輩を助けた。

 真っ直ぐに己を見て、どんな顔をしていても三郎、三郎と呼びかけてくれる雷蔵。
三郎が勝手に常日頃から顔を借りていても、驚くことはあれ受け入れてくれた雷蔵。
 落ち込んだ時、ただ何も言わずにそばにいてくれた雷蔵。
 三郎が間違った時、叱ってくれる雷蔵。

 そして何より。
いつだって、雷蔵の傍にいれば退屈する暇がなかった。雷蔵のそばは落ち着いた。

 そんな雷蔵はといえば、逆さまになった本を持って、ちらちらとこちらの様子を伺いながら何やら思い悩んでいる。

「雷蔵?」

 呼びかけると、分かりやすく動揺するのだから、三郎は笑みを堪えるのに必死だった。

「なんだい? 三郎」
「いや、君の方こそどうしたんだ」
「何のこと?」
「何のことって……」

 三郎は、雷蔵が持つ本を指さした。

「雷蔵、本が逆さだぞ」
「え!? うわ、ほんとだ」

 本当に今気付いたのだろう。驚いた拍子に落とした本を拾い直し、慌てて上下を持ち直した雷蔵は、気恥ずかしく思っているのかその本で顔を隠してはちらちらとこちらを伺っている。

 可愛かった。可愛くて、堪らなかった。

「また何か考え込んでいたんだろ」

 己の言葉に、雷蔵が耳まで真っ赤に染め上げている。その姿がまた愛おしく、思わず沈んでいた気持ちが浮上し、どこか思考が熱に浮かされる。

「私の顔を見て、何を考えてたんだ?」
「大したことじゃない」
「あんなに熱っぽい視線を向けていたのに?」
「……それは」

 ――ああ、君の目が愛を語っていると思うのは自惚れだろうか
 
 なんて酔狂な考えが浮かぶくらいには、三郎の心は今の状況を楽しんでいた。
 
 ―――ああ、やっぱり
 
 君が私と同じ気持ちでいてくれていると思うこの予感は、ただの勘違いではないのではないか。
 
 じっと、雷蔵の瞳を見つめれば、彼の頬が面白いくらいに熟れていく。思わず手を伸ばし、捕まえようとすれば、雷蔵の視線が彷徨いそっと伏せられる。本を握る手元は必要以上にぎゅっと閉じていた。ドキドキと高鳴る鼓動がいつもの部屋にいつもとは違う甘やかな雰囲気を運んでくる。
 
 ――不破雷蔵
 
 だが、頭の中に過ぎったその名を思い出して三郎は伸ばした手をさ迷わせた。
 触れたい。抱きしめたい。
 好きだと囁き、彼を縛り付けたい。
 しかし、己のこの想いをぶつけるよりもまずはなすべきとこがあるのではないか。
 雷蔵の目がそっと開き、ほんの一瞬だけあからさまに落ち込んだ色を見せた。だが、すぐに視線を逸らすと、彼は照れ隠しをするような仕草を見せる。
 そう、彼のそういうところが好きだ。

「ほら、手紙を読んでいただろう。それが気になったんだよ。珍しいなと思って」
「あー、これか」

 つい、己の心を声に乗せてしまい三郎は慌てていつもの調子をつくって言葉を続けた。

「そんなに面白いものじゃないさ」

 雷蔵は何も聞いてはこなかった。
 沈黙が流れる。
 甘やかだった空気は、どこかにいってしまった。さあ、どうしたものか。思考を巡らせる三郎の予想に反して、沈黙は思いもよらぬ形で破られることになる。

「いけいけどんどーーーん!」

 先輩の元気な声とともに鳴り響く轟音。にわかに騒々しくなる戸の向こうに思わず、ふたりは顔を見合わせ、笑った。
 
 
 ――今はまだ、これでいい
 
 
 三郎は立ち上がり、小平太に向かってことさら大きな声で呼びかけた。
「七松先輩! 人の部屋の前で何をしているんですか!」
「お! 鉢屋! いや、不破か? まあ、いい手伝ってくれ!」

 騒動を聞きつけて、生徒たちが駆けつけてくる。背後からは雷蔵が追ってくる気配がした。
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