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燕子花は愛を語る


1.親友以上恋人未満

―――お前が好きだよ
紡いだ言葉に揺れた仮面の奥の瞳は夢か幻か。豆が潰れてかたくなった指で唇を塞がれ、呆然もする僕に、ゆっくりと首を振る姿が遠い世界の出来事のように見える。
――ごめん、雷蔵。その言葉は聞けない。
震えたように感じた指は、目尻に滲んだ涙はどちらのものなのか。それすら、分からなかった。

 
 ◇◇◇◇◇◇◇◇
 
 不破雷蔵は親友の顔を見たことがない。
 いや、誰も見たことがないと言った方が正確だろうか。雷蔵の親友は、個性的な者が集まるここ忍術学園の中でも特に変わり者として有名な変装名人なのである。
 思えば、出会った瞬間からそうだった。四年前の入学式のあの日。
――不破雷蔵くんだね。君の同室の生徒は先に到着しているよ。
 これから始まる生活へ溢れんばかりの期待と、ほんの少しの不安を胸に自室に辿り着いた雷蔵を襲ったのはどうしたものか、という迷いだった。
 ゆっくり戸を開くべきか、勢いよく開けて元気に挨拶をすべきか。最初は何と声をかければ良いだろうか。
 今思えば、なんでそんなことで悩んでいたんだろうと思うけれど、その時の雷蔵は必死だった。
 悩んで、悩んで、悩んで……悩みすぎてその場でウトウトと瞼が重くなってきて。
 そして気がつくと目の前に広がる景色が、長屋の戸ではなく地蔵になっていることに気がついた雷蔵は驚きのあまり尻もちをついてしまったのだ。
――君が、俺の同室かい?
 目の前の地蔵は、いつの間にか人の姿をしていた。
 春の訪れを告げるような少し肌寒い風と、夕暮れを告げる柿色のやわらかな日差しが降り注ぎ、あまりの眩しさに雷蔵は瞳を細めた。
 そこに人がいるのは分かるのに、その顔は光が邪魔して分からない。
 ただ、愉快で堪らないといった感情を微塵も隠しもせずに笑いかけてくる声と差し伸べられる手に、思わず雷蔵もその手を取って笑いかけた。
――これが、不破雷蔵と鉢屋三郎の出会いだった。
 
 ◇◇◇◇◇◇◇◇
 
 どよめく歓声に、雷蔵の意識は過去から現実へと引き戻された。
「雷蔵? どうかしたのか?」
 八左ヱ門に声をかけられ、なんでもないよと頭を振る。今は、模擬演習の真っ只中だ。
 ならいいけど、と視線を前方に戻す八左ヱ門にならって、雷蔵もそちらへと視線をやる。
「すごいよな~、三郎は」
 目の前では、三郎ともう一人の級友が模擬戦を行っている。
 三郎が優位にたっているのだろう。息を乱すことなく、次々と姿を変えながら軽やかに攻撃をかわしているその様を、雷蔵はただじっと見つめた。
 出会ったあの日からすでに、三郎はいわゆる〝変装の名人〟の片鱗を見せていた。入学したばかりの一年生にも関わらず、まだまだ忍者の卵になったばかりの同級生たちを翻弄する程の見事な腕前だったし、実技も教科もなんでも軽くこなして見せ、上級生相手に物怖じせず、飄々とした彼の姿は雷蔵には輝いて見えた。
 ただ、あの頃の三郎は素顔を全く明かさないだけではなく、毎日、別の人の姿を次々と真似て、悪戯をして困らせていたから、その姿を探すのには困ったけれど。
 ふと、三郎と目が合う。
 刹那、真剣だった三郎のその相貌がゆるめられた。思わず、手を振ると満面の笑みを返されて、雷蔵は照れくさいような嬉しいようなこそばゆい気持ちになる。
「そこまで!!」
 対戦の終了とともに三郎の勝利と授業の終了が教師の口から告げられ、歓声はより一層大きくなった。
 流石だな、鉢屋! いや、鉢屋相手にあいつもすげえよ!
 様々な言葉が飛び交う中、一目散にこちらへと向かってくる三郎に、雷蔵は無意識にほっと胸を撫で下ろす。
「らいぞー!!」
「三郎、お疲れ様」
 気付けば、三郎は〝いつもの様に〟雷蔵の姿になっていた。〝いつもの様に〟肩を組まれ、ドキリと胸が高鳴るが素知らぬ顔で労いの言葉をかける。すると、期待に満ちた眼差しで見つめられ、雷蔵は思わず笑みを零した。これは、褒めて欲しいときの三郎だ。
「三郎、凄かったね。あの動きには惚れ惚れしたよ」
「雷蔵が見てくれているからな。君が手を振ってくれて、いつも以上の力が発揮出来た」
 すごい、すごい、と雷蔵が賞賛の言葉を繰り返すと、三郎は君に褒められるのが一番嬉しいと満足気に微笑み返す。
 と、その時。傍で二人の様子を眺めていた八左ヱ門が堪えきれなかったのだろう。
「ほんっと、三郎は雷蔵のことが好きだよなあ」
 と、声をかけた。
「お前は、何を当たり前のことを言ってるんだ」
 心底八左ヱ門の言うことが理解できないとでもいうように、三郎が言った。八左ヱ門は苦笑いを浮かべながら
「いや、当たり前ってお前」
 と言葉を返す。
「不破雷蔵あるところ、鉢屋三郎あり、さ。そうだろ? 雷蔵」
 ぐっと強く肩を抱かれ、雷蔵は何とか言葉を絞り出す。 
「……うん、そうだね」
 思った通り。雷蔵の言葉に、三郎は満面の笑みを浮かべて力強くうなづいた。
 聞いたか、八左ヱ門!
 聞いた、聞いた。お前と雷蔵の仲はよく分かった!
 軽口を叩き合う友人たちの後を雷蔵は追いかける。午前の授業が終わり、このままいつもの様に昼食の時間が始まる。授業の興奮が冷めやらぬ同級生たちもぞろぞろと食堂へ向かっている姿が見られた。早く行かなければ、人気のランチはなくなってしまうだろう。雷蔵としては、悩みの種が減ってそれはそれで良いのかもしれないが、だからといってそれに甘んじることも好ましくなかった。
 と、その時だ。背後から
「お――い! 鉢屋三郎! ちょっと来てくれ!」
 と三郎を呼ぶ教師の声がして、三人は足を止めた。
「学級委員の用事かな?」
 雷蔵の言葉に、三郎は大袈裟にため息をつくと肩をすくめた。
「雷蔵、悪い。先に行っててくれ」
「分かった。先に行って、待ってるよ」
「すぐに戻る。……八左ヱ門も、悪いな」
「おー、いつものところで!」
 音もなく足早に立ち去る三郎を見送り、雷蔵は八左ヱ門に向き直った。
「じゃあ、行こうか」
「そうだな。兵助と勘右衛門も待ってる」
 連れ立って食堂に向かいながら、先程の授業のこと。午後からの予定のこと。今日のランチのこと。二人は取り留めもないことを話した。そして、もうすぐ食堂に到着するというとき
「あのー、鉢屋先輩ですか?」
 と、声をかけられた。振り向くと、一年は組の三人組が並んでいる。
「僕は不破雷蔵だよ」
「不破先輩! ごめんなさい!」
「いいよ、いいよ。で、三郎に何か用?」
「あの、ぼくたち鉢屋先輩に聞きたいことがあって……」
 これは、また三郎が悪戯をしたのか、はたまた別の用事なのだろうか。バツが悪そうに雷蔵を見つめる三人組には可哀想だが、三郎はいない。雷蔵が、
「三郎は今、用事でいないんだ。あとで探してたって伝えておくよ」
 というと、どうやら悪戯をされたわけではなさそうだ。三人組はありがとうございます! と元気に挨拶して去っていった。その背中を見送りながら、雷蔵はごめん、行こっかと八左ヱ門に声をかけた。と、その時だ。
「雷蔵も大変だよな」
 八左ヱ門が、苦笑いを浮かべながら言った。
――大変、なのだろうか
 一瞬、雷蔵の頭にその言葉が過ぎる。
 この手の言葉には慣れていた。
 八左ヱ門や兵助、勘右衛門。同級生たち。先輩たちや後輩たち。何度も言われたこの言葉が投げかけられるとき、その言葉には、雷蔵への心配や同情が滲んでいる。
 そして、雷蔵はその言葉を投げかけられる度に
「もう、慣れたよ」  
 と返すのだ。
「ま、雷蔵がいいならいいけどさ」
 にかっと快活に笑う八左ヱ門に雷蔵も笑いかける。腹減ったよな、今度こそ行こう! と歩みを進める八左ヱ門のあとに続きながら、雷蔵の頭の中ではぐるぐると様々な感情が渦巻いていた。
――不破雷蔵あるところ、鉢屋三郎ありさ!
 三郎の声が頭の中で反響する。 
 このやり取りが、当たり前になったのは一体いつからだっただろう。様々な人や物の姿に変装していた三郎は、気がつけば四六時中雷蔵の姿になっていた。
 自分は、鉢屋三郎にとって特別な存在らしい。
 優柔不断で迷い癖がある雷蔵だが、ここまでされるとさすがに迷うことなく断言出来る。
 雷蔵が思い悩んだ時、彼は何も言わずただ優しく待ってくれる。「悩んでこその雷蔵だ」と励ましてくれる。多くの級友たちがいる中で、彼は真っ先に雷蔵を見つけてくれる。実習のとき、いつも支えてくれるし、背中を任せてくれる。
 そして、何より。雷蔵のそばで、雷蔵の姿をしていること。それが何よりの証だと思った。そして、
――雷蔵も大変だよな
 いつの頃からか、そんな言葉を投げかけられる度に自分の腹の底から、じんわりと喜びが込み上げてくるのを雷蔵は感じていた。
 三郎と間違われる度に。三郎が自分の姿に変装している姿を見る度に、雷蔵はそのことを好ましく思っている自分に気がついていた。
 そしてそれは、鉢屋三郎が不破雷蔵にとって特別な存在であるということに他ならないのではないだろうか。
 
 不破雷蔵は親友の顔を知らない。
だけれども。
不破雷蔵はそんな親友に恋をしていた。

◇◇◇◇◇◇◇

 すっかり日が沈み、夜の帳が下りた頃、雷蔵と三郎は連れ立って自室へと戻ってきた。
 いつもならたわいないことを話したり、夜の鍛錬に出かけたりするところだが、今日は互いに口を噤んだまま、それぞれの机に向かっている。
 雷蔵は前々から読もうと思っていた書物を開いていたが、三郎の動向が気になって、気もそぞろだ。確かに目は文字を追っているのに、全く頭の中に入ってこない。
 ちらりと三郎の方を見やれば、彼は何やら手紙のようなものをじっと見つめていた。
 その横顔があまりにも真剣で、雷蔵はつい見惚れてしまう。
 自分と同じ顔をしているはずの相手に見惚れるなんてどうかしているぞ、と雷蔵の中の冷静な心が嘲笑う。その一方で、同じ顔をしているもののやはり彼と自分は違うのだ、と告げる心が囁いた。
 同じものを見て、同じことを学び、同じ部屋でともに日々を過ごしている中で、彼の些細な表情の作り方、声の調子、仕草、全てが、三郎は自分とは違う存在なのだと示している。
 それに気が付いているのは、自分だけではないか……と気付いたとき、雷蔵の心はどろり、と仄暗いものを溢れさせた。
 それは、独占欲なのか気づいたばかりの恋情なのかは分からない。
 ただそれにそっと蓋をして、雷蔵は何でもないような顔をする。
 三郎には秘密だ。だって、気付いてしまったら最後。彼はより雷蔵になりきろうと意識してしまうだろう。
「雷蔵?」
――しまった
 時すでに遅し。
 三郎は訝しげな表情を浮かべ、雷蔵の様子を伺っている。
 忍者を志す者を相手に、じっとその様子を眺めるなんて我ながら何たる不測。
 しかし、ここは冷静にならなければ……と雷蔵はとぼけた。
「なんだい? 三郎」
「いや、君の方こそどうしたんだ」
「何のこと?」
「何のことって……」
 三郎の指が、すっと一点を指した。
「雷蔵、本が逆さだぞ」
「え!? うわ、ほんとだ」
 ぜんっぜん冷静じゃないじゃないか。
 雷蔵は慌てて逆さになった本をぐるりとまわして持ち直し、火照る顔を隠した。
「また何か考え込んでいたんだろ」
 やけに楽しげに三郎が優しく笑った。
 それが何だか照れくさくて、雷蔵は黙ったまま手にした本をより高く掲げ、表情を隠す。おまえのことを考えていた、なんて口にしてしまうと耳まで真っ赤に熟れてしまいそうで照れくさかった。
「私の顔を見て、何を考えてたんだ?」
「大したことじゃない」
「あんなに熱っぽい視線を向けていたのに?」
「……それは」
 チラリ、と三郎の表情を覗き込む。
 思わず、熱っぽいのはどっちだよ、と言いかけたがやめた。
 じっと、熱が宿った眼差しで見つめられると、ドクドクと鼓動がうるさく脈打つ。その視線は雄弁に語りかけてくる。
――ああ、やっぱり
 勘違いではないんじゃないか。
 自惚れてもいいんじゃないか。
 言ってしまってもいいんじゃないか。
 でも、それは本当に〝今〟でいいのだろうか。
 考えれば考えるほど、迷いが生まれてくる。
 三郎の手がこちらに伸ばされるのを感じ、ぎゅっと目を瞑った。心臓が早鐘のようにドクドクと鳴りやまない。
 だが、いつまでも三郎の手が雷蔵に触れることはなかった。
 迷うようにさまよったあと、その手がすっと戻っていくのを感じる。その事実に、ガッカリする自分の胸の内に気付いたとき、雷蔵は慌ててわざと何でもないように口を開いた。照れくさくて堪らなかった。
「ほら、手紙を読んでいただろう。それが気になったんだよ。珍しいなと思って」
「あー、これか」
 三郎の眼差しから、すっと熱が引いたのが分かった。
「そんなに面白いものじゃないさ」
 そう言いながら、手紙は引き出しの中に仕舞われた。聞いてくれるな。言外にそう言われているような気がして、雷蔵は口を噤んだ。
 沈黙が流れる。
 甘やかだった空気は、どこかにいってしまった。何か言わなくては、焦れば焦るほど言葉かま上手く生まれてこない。ところが、その沈黙は思いもよらぬ形で破られることになる。
「いけいけどんど――ーん!」
 先輩の元気な声とともに鳴り響く轟音。にわかに騒々しくなる戸の向こうに思わず、ふたりは顔を見合わせ、笑った。
 先に、三郎が立ち上がり、戸を開く。
「七松先輩! 人の部屋の前で何をしているんですか!」
「お! 鉢屋! いや、不破か? まあ、いい手伝ってくれ!」
 騒動を聞きつけて駆けつけて、生徒たちが駆けつけてくる。三郎に助太刀しよう。雷蔵は、立ち上がると、三郎の背を追った。
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